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炎華繚乱 昊耀国女帝伝  作者: 悠井すみれ
天遊林の日常
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14.気持ちの授業

 眠れるときに眠る、が朱華(しゅか)の主義であり、それは疲れている時にこそ実践されるべきだ。腹の中にもやもやというか、腑に落ち切らないものがあるとしても関係ない。

 という訳で、炎俊(えんしゅん)との話が一段落着くとすぐに朱華は目を閉じ、ものの数秒で眠りに落ちた。隣に横たわる()が安眠できたかは、だから知ったことではないけれど、多分彼女と同様ではないかと、夢に溶けていく意識の片隅で考えた。良くも悪くも、炎俊も思い悩んで眠れぬ夜を過ごすような質とは思えないから。というか、そもそも朱華とのやり取りを思い悩むべきこととは捉えていないような気がしてならない。




「……おはよ」

「おはよう」


 そして炎俊は寝覚めも寝相も良いのだ。これは推測ではなく、何度か共に過ごした朝からはっきり分かっていることだ。閨を囲む帳を透かして朝の光が射し、一日の始まりの気配に朱華が伸びをすると、炎俊は寝間着を乱すこともなく半身を起こしているのが常だった。わざわざ先に起きて着付けをし直したのではないかと思うほど、襟元もしっかりと閉じている。だから、女の身体の証拠である丸みやらを見て混乱しなくて済むのは良かったのだろう。


長春君(ちょうしゅんくん)様、(とう)妃様。今日もご機嫌うるわしゅういらっしゃいますか」


 ふたり分の身じろぎを素早く感じ取って、紫薇(しび)がすかさず声を掛けてくるのもいつも通りだった。これから着替えて髪を整え、朝食を摂る。その後で政に赴く炎俊を見送るのが、星黎(せいれい)宮に来てからの朱華の日課だったのだけど――


「今日は一日星黎宮(ここ)で過ごす。表にそのように遣いを出しておくれ」

「かしこまりました」


 今日に限って、炎俊は床に素足をつけながらそう命じ、朱華の目を瞠らせた。炎俊がごく真面目で勤勉なのは既に分かっている。普通なら美徳になるはずの性質なのに、そうとは思えないのは不思議なのだけど。でも、とにかく、この女がだらだらと引き籠って一日を無駄にするなど似合わない、と思う。


「……なんで? 具合でも悪いの?」

「いいや」


 顔色からして違うのを知りつつ尋ねてみると、やはり否定が返ってくる。ならばなぜ、と。顔に浮かんだのを読みとったのだろう、炎俊は口に出さない問いにも答えてくれた。


「昨晩、教えると言っただろう。……もう忘れたのか?」

「……まさか。あんたが覚えていたことにちょっと驚いただけよ」


 朱華が一層目を見開いたのを見て、()は咎めるように軽く目を細めた。逃がさない、とでも言うかのように。


(本当に……真面目で勤勉なのね……!)


 朱華としては、早くて今日の夜、また閨の内ででも話すことだろうと思っていたのに。昨日の今朝でもう教わりたくて堪らない様子だとは。好奇心旺盛で勉強熱心、と。朱華は夫の美徳をまた幾つか思い知らされることになった。人の都合や気持ちを考えないという欠点と併せて、ではあるけれど。




 朝食を終えた後、朱華は炎俊と並んで星黎宮の庭を散策することになった。本来なら朱華以外にも何人もの妃がいてもおかしくない場所だから、百花園(ひゃっかえん)ほどでなくても十分広いし使っていない部屋も多い。炎俊がいない日中に、連日見て回ってもまだ飽きない程度の規模はある。


 季節は初夏。木々の緑は色鮮やかで、石畳で整えられた小路や小ぢんまりとした東屋(あずまや)なども様々な花に彩られている。足を進めるうちに辿り着いた池には白や薄桃色、紫色の睡蓮が咲き乱れ、水面を渡る風が額に薄く浮いた汗を乾かしてくれる。美しくも穏やかで和やかな光景を、夫とふたりきりで眺めるのだ。並みの妃ならば勝利の美酒に酔うところなのだろうけれど――あいにく、今の朱華は庭園の色彩を楽しむ余裕はない。炎俊に()()()()とはいかなるものかを教えるのは、想像以上の難題だったのだ。


「だからね、要は相手の立場になって考えるってことよ。自分のことを考えてくれてる――覚えてくれてるとか、配慮してくれてるとか、そういう気持ちが嬉しいの」


 もどかしさに、絹の(くつ)の爪先で青草を軽く蹴りながら、朱華はどうにか夫を納得させようとしている。炎俊はごく真面目な面持ちで彼女の言葉に耳を傾けてはいるけれど、真剣だからこそこの生徒の問いは鋭くて、即席の教師としてはやり辛いことこの上ない。


「皇帝が臣下の立場に、など……考えるだけでもおぞましい」

「何も別にへりくだれってことじゃなくて……」


 娼館の客にも娼婦にも手管は色々ある。少しやり方を変えるだけで、後宮や皇宮でも立派に通用するのではないかとも思う。でも、場所柄と言うか、その手管は必ず相手に媚びて下手に出る風がある。

 官吏や女官、もしかしたら妃くらいまでならその手の技も学ぶべきなのかもしれないけれど、皇族ともなるとそうもいかない、というのは分かる気がする。そうなると、朱華には具体的に挙げられる例がなくなってしまうから、途端に弱気になってしまうのだけど。何しろ、皇族が規範にすべき政について、彼女は素人も良いところなのだから。


「えっと……文官に乱を鎮圧しろとは命じないし、武官に飢饉の対策を命じたりはしない、でしょ?」

「それは各々の能力を見て人を配するということ。当然のことだ」

「そこからもう少し進みましょうか。そうね、得意な分野を任せてあげるとか、行きたがってた任地に送ってあげるとか。病気の奥さんとか親がいたら、楽な仕事に回してあげるとか」


 炎俊が軽く眉を寄せたのを見て、朱華は溜息を吐いた。相手はまだ息を吸っただけで、形の良い唇は動いていない。でも、次に何を言おうとしているのか、はっきりと聞こえた気がしたのだ。


「……面倒なことをわざわざしてくれたと思うから、ありがたがるんだと思うわよ……?」


 紫薇に断って、供の者を一切連れて来なくて正解だった、と思う。物分かりが良いのだか悪いのだか分からない()()を相手に、名家の姫君らしく振る舞い続けるなんて考えただけでもおかしくなりそうだ。遠慮なく唸ったり溜息を吐いたり、時に地団駄を踏んだりしなければとてもやってられない。それに、爽やかな木々や花や水の香りもあって良かった。これが屋内で、目に入るのが炎俊の整った顔ばかりだったら、さぞ鬱憤が溜まったことだろう。

 多分、紫薇たちは今頃、朱華()()の寝室を整えていてくれる。名ばかりの夫と一緒の部屋ではなく、ひとりで思い切り手足を伸ばして眠れるようになれば、毎日の気力も湧くだろうか。


(寝る時くらいは何も考えたくないものね……)


 贋者であることの気の重さも、陰謀渦巻く後宮の恐ろしさも。……配慮の足りない()のことも。……当の夫である炎俊はというと、麗しい庭も朱華の呆れも、目に映ってはいないかのような真顔で首を傾げているのだけど。


「働きに報いて褒美を与えるのとはどう違う?」

「それも必要なんでしょうね。でも、それだけじゃなくて――その人だから、ということよ。特別扱いされるのは嬉しいものでしょう。頼られたり、信じられたり。重んじているってことを、見せてあげるの。……私は、妃なのに何も知らされないのは嫌だったわ。皇子(サマ)だからって、誰でも黙って従う訳じゃないのよ」

「妃はともかく、臣下に対しての寵の偏りは諸悪のもとだろう」


(今一通じないわね……)


 どこまでも真面目で正しく、けれどズレている炎俊に、朱華はもうひとつ溜息をこぼす。この公平さと真っ直ぐさを、拾挙上がりの官吏たちは支持してくれているのかもしれない。炎俊が彼らをどのように見出して口説いたのかは朱華は知らないけれど――彼女と同じ調子で接しているのだとしたら、この先不安も出てくる、のかもしれない。


「だから、そこを上手くやるんだって。皆が皆、自分は他の連中とは違う、って思うようにさせるの。何をしてもらって喜ぶかは人それぞれよ。お金や地位だけじゃなくて……名誉だったり、色々あるでしょ」

「ふむ……」


 何かと女はこういうもの、だとか言う炎俊のことだから、人それぞれ、というところが受け入れづらいのだろうか。臣下に対しても名家の出とはこういうもの、拾挙(しゅうきょ)出身の者はこういうもの、と決めているとか。それはそれで正しい場合もあるのだろうけれど。


「秘密を教えてもらう、もあるわね。私は多分、あんたの秘密を知ってるから肩入れしちゃってるわ。逃げられないのもあるけど、私はあんたにとって特別なはずって思っちゃうのね」


 秘密を握り合って逃げられない関係に持ち込まれた以上、朱華は炎俊と運命を共にするしかない。帝位まで上り詰めるか、秘密を暴露されて断罪されるか。後者の末路を避けるためにも、この女にはしっかりしてもらわなければならない。――でも、それだけではない。頼りにさせてほしい、と囁かれた初夜のことは――炎俊にそんなつもりは全くなかっただろうけど――朱華の根っこに大分深く刺さってしまったような気もする。


「あとは――ほら、昨日会った(さい)弘毅(こうき)様とか。あの人は多分あんたが好きよ。だから優しい言葉をかけてあげるだけで大分違うんじゃない? 人からどう思われてるか、そこもよく見れば利用できたりとか――」

「そうなのか? それは、困るな」

「ふうん?」


 炎俊の呟きを、朱華は男に好かれたからだと思った。こいつの常識からすれば、男が()に好意を寄せるなど考えられなくてもおかしくない。


(意外とお子様みたいだし?)


 だから、思いもよらない世界もあるのだと吹き込んで、驚かせて遊んでやろうと思っていたのだけど――


「あの者はそなたの相手に良いだろうと思っていたのに」

「……なんで?」

「私の身体のことを知っているから。だから、話が早いし秘密を知る者の数も抑えられるから良いだろう?」


 揶揄うつもりの笑顔を浮かべたまま、朱華は固まった。目に映る炎俊の笑みは美しく、耳元をくすぐる風は爽やかだ。ただ、全てが遠く現実味がない。朱華の脳は言われたことを理解するのに精いっぱいで、それ以外の感覚に意識を向ける余裕がないのだ。


 炎俊の身体のこと、とは女であること、だろう。こいつは自分が女だ、とは決して言わない。主君が妃と子を生せないのを知っているなら、確かに不貞に手を染めるにも抵抗が少ないかもしれない。事情を知らない者に秘密を打ち明ける必要がないのも素晴らしい。理に適っている。


蔡弘毅(あのひと)が全て知ってる……!?)


 なるほどそうだ、とは――でも、朱華は決して思えなかった。


「全っ然! 良くっ、なーいっ!」


 もう何度目のことになるだろう。朱華の怒声は晴天に響いて炎俊の顔を顰めさせた。

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