13.気分の問題
朱華の怒声は、狭い閨に良く響いた。絹の褥も紗の帳も、彼女の怒りを全て受け止めてはくれない。そして誰よりも沸き立つ激情を伝えたかった相手――炎俊はというと、訳が分からないといった面持ちで眉を寄せている。普通の女のように抜いて細く整えることはしていないようだけど、それでも端正だと認識できるのが実に羨ましくて理不尽で憎たらしい。この表情は、多分なぜ朱華が怒っているのかまるで理解していないのだ。
実際、炎俊は首を傾げつつ口を開いた。朱華のことを、突然勝手に怒りだした奇妙な女だと思っているのは明らかで、その他人事のような態度がますます彼女の怒りに火を注ぐのに。
「そなたは、そもそも私と子を生すつもりで星黎宮に来たのだろう? 私の容姿や人格がどうであれ、閨を共にする覚悟があったということだ。ならば相手が変わっても構うまい? 拾挙も試挙も、人品を含めて試されるものなのだぞ」
「ええ、そうね。そこは問題ないわ。あの方々の誰だろうと、あんたよりは相当マシな人柄でしょうね」
もっとも、朱華は炎俊の側近たちの顔も名前もまだはっきりとは認識していない。ましてや人柄など知ったことではないから、単に炎俊への憎まれ口だ。皇子への非礼を咎めるかのように、あるいは心当たりのない理不尽な非難が不本意だとでもいうかのように、炎俊の眉が一層寄せられた。
「……ならば、何が気に入らぬ? 輿に乗るまでは機嫌も良かったようだったのに。女はやはり気まぐれなのか……?」
「私だって気分良く終わりたかったし、あんたのことを見直したかったわよ!」
後半は独り言のように呟く炎俊は、あらゆる手段で朱華を苛立たせようとしているとしか思えなかった。腹立ちまぎれに枕を叩くと、ぽすぽすと軽く間抜けな音だけが返ってきて気晴らしにもならない。子供めいた真似に、珍しいものを眺める目を向けられるのも分かってしまうからなおのことだ。炎俊は柔らかく不安定な褥の上に、端然と座った姿勢を崩していないというのに!
(なんでなのよ……こいつが相手だと、調子が狂う!)
朱華の人生は理不尽の連続だった。怒りも不満も屈辱も当たり前の感情で、かつそれらを見せても何の得にもならないと骨身に染みて分かっているはずだったのに。陶家の男たちや教師たちと比べれば、炎俊は悪い相手ではないのも分かっているのに。朱華に対するのに嫌味も悪意も侮りもないのだから。満足して従順に振る舞うのが最善のはずなのだ。なのに、いちいち反発してしまうのは、仮初ではあっても夫婦だから、なのだろうか。
『私にはそなたしかいないのだ。頼りにさせておくれ』
初めての夜に言われた言葉が朱華の耳に蘇る。口説き文句のように聞こえるけれど、炎俊にそんなつもりはなかっただろう。この女はそういう器用さや媚びとは無縁なのは分かって来ている。多分、本心をそのまま言葉にしただけで――だからこそ、朱華の胸に刺さってしまっているのだ。
努めて冷静に、耳を傾けてもらえるように理路整然と。そう、自分に言い聞かせて、深く息を吸っては吐いて、朱華は言葉を選んだ。
「……私たちはお互いを信用しなければならない。信用したい、今後のためにも。これは、間違ってないわよね?」
「そうだ。安心させてくれるな、我が妃よ」
「今日のことは、私の《力》を試したのよね? 信用できるかどうか。それに、あんたの方ではどう帝位を得るつもりか見せてくれた」
「そうだ。分かってくれているではないか」
炎俊が無邪気に微笑むのを目の当たりにして、朱華の怒りは急速にしぼんだ。別に許した訳では全くない。こいつに当たり前の人間の感情を説くことの虚しさを悟ったような気がしただけだ。そこらの女とは違う――菓子や衣装で頭がいっぱいという訳ではないし、くだらないおしゃべりで一日を潰すことができるような生き物でもない――のは分かっていたけれど、だからといって男っぽいということでもないと思う。高貴な身分であること、性別を隠すために恐らくは接する者が限られていたこと、優れた《力》に恵まれていたこと、そんなことが組み合わさった結果、このように人の心に無頓着な存在ができあがったのではないか、という気がした。
(なんで私がこいつに教えなきゃいけないの……)
皇帝は、数多くいるとかいう御子たちの養育には関わらないのかもしれないけれど。それでも、炎俊を男として育てることにしたという母君や、それこそ紫薇あたりはもっと人付き合いというものを叩き込んでおくべきだっただろうと思う。妃を娶れる当てが少ない、つまりは後ろ盾が限られると分かっているのだから。
「なら……私はまだ信用されてないの? どうして大事なことを黙ってるのよ。皇子様たちがどうやって競うのか、天遊林の倣いも……その、誰と寝れば良いのかも。少しずつしか教えてくれないんじゃ、信用されてるなんて思えない」
もはや、抗議や非難をするというよりも、教え諭すような気分だった。どうして怒っているのか、何が不満なのかの根本を言葉にして説いて聞かせるなどバカバカしい限り。でも、こと人との付き合い方に置いて、炎俊はごく簡単なことさえ知らないのかもしれなかった。
事実、彼女の夫は妻の言葉に納得しきっていないようでまだ首を捻っている。
「天遊林でのそなたの振る舞いを視ていて、《力》の方は問題ないと確信していた。頭もなかなか回るようだし、迂闊なことは漏らさないであろうと考えてもいる。今日は腹心に会わせて我が領地を視させたのだ。それは信頼の証にはならないのか?」
「信頼の証と、思えていたかもしれないわね。私に何にも教えてないってことさえ知らなければ!」
淡々と述べる炎俊は、多分お世辞だとかご機嫌取りのつもりはない。こいつにそんな器用な真似はできないだろう。それはつまり、本心から朱華の力を認めたということで、頬が熱くなるのが分かる。正面から褒められるなんて恥ずかしいことこの上ない。でも、それで誤魔化される訳にはいかないから、朱華はもう一度声を荒げてみせた。それも、炎俊に響いた様子は全く見えなかったのだけど。
「そなたが何を知っていて何を知らぬのか、私は知らない。遠見も時見も、人の心を見透かすものではないからな」
「でも、予想はしてたんじゃないの? 身代わりの姫にそこまで教えるもんじゃないって。輿の中でも言ってたじゃない」
いかに疲れていたとはいっても、今日起きたことをすぐに忘れたりはしない。朱華が素早く食い下がると、炎俊は露骨に面倒くさそうな顔をしてみせた。これだから女は扱いづらい、とでも言うのかもしれない。
「知らぬのに気付いて、そして別に隠すことではないからすぐに教えた。そなたが知ったところで何ができることでもあるまい」
「そうかもね。でも、これは気分の問題よ!」
「気分……?」
そして案の定、炎俊の唇がこれだから、と言いかけたのを遮って朱華は力強く宣言した。
咄嗟に出た言葉で、続きをきっちりと考えていた訳ではなかったけれど。でも、多分必要なことだ。この女は、あまりにも人の心に無頓着だ。朱華が我慢すれば良いという話ではなく、他の者にもこの調子で接するとしたら危う過ぎる。だから――この歳の相手に、とは思うけれど――言ってやった方が良いのだろう。
動きづらい褥の上で、朱華は炎俊ににじり寄る。疲れているのにどうしてこんな長話を、と思いながら。炎俊の話を聞いたらすぐに寝るつもりだったのに。どうして底の抜けた壺に水を注ぐような虚しい気分を味わわなければならないのだろう。
「気分って大事よ。女だけじゃなく、男でもね。あんたが会わせてくれた方々だって、きっとそう。あんたに従うのは気分が良いからじゃないの?」
「私が彼らの能力を正当に評価し、忠誠に報いると示したからだ。そなたに政は分かるまい?」
炎俊は冷静ではあるけれど、やはり朱華の言いたいことは何も伝わっていない。首を傾げながらも話に付き合う態度ではあるのは良いのだろうか。
(分かってくれるのかしら……?)
ほのかな希望に縋るように、朱華は言葉を探す。少なくとも、炎俊は公平ではあるはずだ。偽者の姫を妃として遇し、平民を取り立てようというのだから。朱華は、多少は信頼されているということだし。少しは考えを改めてくれれば、と切に願いつつ、でも諦めに溜息も混じえながら。
「あんたにも普通の人間の感情が分からないみたいね。あの方々は評価されて嬉しかったからあんたに仕えようって気になったんでしょ。嬉しい、は立派な気分でしょ」
「そういうものか? しかし臣下の機嫌を窺うのは暗君だろう」
「別に何でも言うことを聞けって訳じゃなくて。ちょっとした気遣いで気分よく仕えてくれるならその方が良いじゃない?」
(ああ、やっぱり……偉い方たちの言いそうなことだわ……)
人の上に立つ者が、下々の機嫌に振り回されるようではよろしくない、それも一理あることなのだろう。炎俊は女だからこそ、侮られないように、臣下に媚びないようにと育てられたのかも。
またひとつ、夫のことを知りながら、朱華は食い下がろうとした。理詰めで説かれたら押し負けそうな予感がひしひしとしたから、彼女の少ない知識と経験をかき集めて、どうにか抵抗を試みる。
「例えば――娼館でもそうだったわ。お金持ちでも嫌われるお客っているものよ。普段なら良くても……そう、指名が重なった時とか、ちょっと無理を言われた時とか。そういう時に快く動いてもらえるかどうかって、日頃の振る舞いがものを言うのよ」
そうして辿りついたのが、もう遠い彼方の記憶だった。陶家に引き取られてからはもちろん、数か月にも満たない天遊林の日々で霞みかけていた記憶。それでも確かに朱華が見聞きしてきたことだ。実感も篭っているし、多少は説得力があるだろうと思ったのだけど――
「そなたは娼館の出だったのか」
炎俊は、思ってもみなかったところを聞き咎めていた。黒い目が瞬いて、意外の色を浮かべるのが閨の暗がりの中で見て取れる。その、微かな驚きの表情を見て、朱華はやっと思い出す。偽の姫だということは知られていても、この女は彼女の出自のことまでは知らなかったのだ。
「そう……だけど? それが何よ……!」
「ふむ、そうだったか」
娼館上がりの娘に対して、まともな人間はどのように接するかは身に染みて知っている。嘲りか、それとも哀れみか――いずれにしても見下す視線は不愉快で堪らない。哀れみを素直に受け取れたのは本物の雪莉くらいなものだった。
くだらないことを言おうものなら噛みついてやろう、と。猫のように毛を逆立てていたというのに。炎俊はしばし考え込む様子を見せた後、ごくあっさりと頷いた。先ほどのように、無邪気そのものの微笑みと共に。
「娼館という場所には様々な人間が出入りするという。ならば、そなたの言葉には耳を傾けるべきなのかもしれぬ。その……気持ち、とやらについて。どうすれば快く人を従えさせられる? そのような振る舞いとはどのようなものなのだ?」
「……教えてあげるわ、また明日に、ね」
(こいつ、娼館のことをちゃんと知ってるのかしら……?)
彼女の夫はこの上ない世間知らずでもあるのかもしれない。不安が少しばかり膨らんだけれど、朱華の気力も限界だった。続きはまた明日、疲れが取れてから賢く高貴なお子様の教育に当たろう、と思う。というか、そうさせてほしかった。




