2.退屈の終わり
「はあ……退屈……」
朱華は、自室の長椅子にしどけなく座って干した棗を齧っていた。物憂げな溜息、と麗しく形容するには、不機嫌も露な呟きは吐き捨てるような響きがあるだろう。
自室といっても、ここは仮初に与えられた居処でしかない。天遊林に集められて、かつまだいずれかの皇子の手がついていない女は、実家の格に応じた部屋を与えられる。陶家は優れた遠見を数多く輩出した名家だから、自然、朱華の住まいは広さでも調度でもかなり上の部類に入る。朱華がだらりと背を預けている長椅子も、優美な彫刻に玉で象嵌が施された見事なものだった。まだ妃でもない女にここまでの部屋を用意するほど、昊耀は栄えているのだ。
新しく天遊林に入った女を品定めしようと、この数日は茶会だの庭遊びだのの誘いが絶えなかった。そのいずれも、朱華は上手く切り抜けた、と思う。《力》と美貌と、ついでに華やかな装いで、女たちを黙らせてやったはずだ。……なぜ黙ってしまうのか、朱華にはとても不思議でならない。
「そりゃあね? 礼儀作法は完璧に仕込まれたし、お姫様たちの名前も顔もご実家の来歴もきっちりしっかり暗記してたわよ? でも、誰かひとりくらいはもっと突っ込んでくるかと思ってたのに」
朱華には話し相手になるような親しい侍女や召使はいない。だから、愚痴めいた呟きはひたすら宙に向けての独り言だ。これが陶家の屋敷だったら、優しく頷いて彼女を宥めてくれる方もいたのだけど。
(《力》を持っている人たちのはずなのに何も視てないのよね。楽だけど、拍子抜け、というか……かえって疲れる、かも)
力を試す類の遊びも、何度もやった。さすがに、封じた絵柄を見通すことができないような者ばかりではなかったけれど。複雑なからくり仕掛けを《遠見》を使って解いてみせた者もいたし、《時見》の者なら朝食に何を食べたとか、数日後の天気を言い当てる者もいた。未来のことを視た場合は、答え合わせがまた集まる口実になったりもするのだ。何人かは本当に優れた力を持つのだろうと、感じられる姫もいなくはなかった、のだけど。
「でも……それってお遊びじゃない……」
余興の場での力の使い方は見事でも、誰ひとりとして朱華の正体を言い当てる者はいなかった。それは安堵すべきことなのかもしれないけれど、気負ってやって来た身としては肩透かしも甚だしい。
「天遊林って変なとこ!」
再び溜息を吐きつつ、やや乱暴に脚を組む。陶家の姫にはあるまじきはしたなさだが、誰に見られることもないから良いだろう。遠見の《力》は間諜にも最適だけど、貴人の住まいは覗き見を防ぐための諸々の呪いが施されているものだ。だから今は朱華の素を出しても良いだろう。陶家の姫などとは真っ赤な嘘、遠見の目を持つがゆえだけに拾われた、親の顔も知らない小娘の品のなさを。良家の姫君たちの前で完璧な淑女を演じるのは肩が凝るもの。私室で息抜きをするくらいは許してほしいものだった。でも――
「何と無作法な。陶家の名を汚す振る舞いは慎むが良い」
低い、けれどよく通る声に叱責されて、朱華は慌てて背筋を正した。音もなく影のように彼女の間近に迫っていたのは、峯という老侍女だった。背高く痩せて、鋭い目つきは猛禽のよう。陶家に仕えるに相応しく、実際いくらかの遠見の力を備えているとか。朱華がだらけているところに踏み込んだのは、多分彼女の気性を知り尽くしていたからだろうけど。
「……人前ではちゃんとしてるでしょ。時と場合は弁えてるわ」
峯の筋ばった指先が不穏に攣ったのを見て、朱華の声は硬く尖る。陶家に拾われた彼女を躾けたのがこの女だった。主家の血を引かない、生まれの卑しい子供に対して容赦はされず、手を上げられたり鞭が持ち出されたりすることもしばしばだった。その記憶が身体の芯まで刻まれているから、峯の不快は、怖い。天遊林に入った今、それこそ傍からの目を恐れて、痣を残されるようなことはないだろうけど。
峯は、朱華を怯えさせたのを見てとりあえず満足したようだった。薄く色のない唇が弧を描いて余裕ある笑みを形作る。
「お前がしくじれば罪は雪莉様にも及ぶ。心することだ」
「……分かってる」
主家の本当の姫を盾にする物言いに、朱華の腸は煮えくり返る。けれど逆らうことはできなかった。出自を偽って皇族の妃の地位を狙うなど、確かに許されざる大罪だ。露見すれば、陶家の者は幼児だろうと使用人だろうとひとり残らず死を賜るだろう。朱華に名を貸した雪莉がどのような罰を与えられるか、考えるだけで恐ろしい。
峯の――陶家の言いなりになるしかないと、頭では分かっている。けれどこちらを見下ろす老女の冷ややかな目は気に入らなかった。だから朱華は精一杯、反抗的な口調と目つきで食い下がる。
「雪莉様はお元気なんでしょうね」
「無論。正式に宮を賜れば侍女なりとしてお呼びすることも叶うであろ。全てはお前の働き次第ということだ」
問い質したところで、峯の冷然とした笑みに跳ね返されて、唇を噛むしかないのだけど。
(本当に? 信用できたものじゃない……!)
厳重に呪が施された陶家の屋敷は、朱華の目をもってしても視ることが難しい。家の名にふさわしい《力》を持たなかったゆえに屋敷の奥で隠されるように暮らす方の様子を知るには、峯たち陶家の者の言葉に頼るしかない。せめて手紙のやり取りをしようにも、万が一にも他家の者の手に渡ることを恐れて許されないくらいなのだ。
贅を凝らした衣装が、枷のように重く煩わしかった。多くの女にとって、天遊林に入るのは夢であり憧れなのかもしれない。そして妃の位を得るのが目的なのだろう。けれど朱華にとってはそれは手段であり過程でしかない。陶家の支配を逃れるため、それだけの力を得るための。
今はまだ、自らの意志で動くことができないのが歯がゆくてならなかった。だから、働きの場があるなら望むところではある。名家の姫君がたのお遊びにつきあったのも、陶家に命じられてのことだった。
「……これ以上どう働けば良いのよ。次は誰と会えば良いの? 陶家の雪莉姫の評判は、まだ足りないの?」
陶家の威信を賭けて調えられた衣装や装飾品、磨き上げられた美貌。何よりも朱華自身の《力》を見せつけるため、というのは分かる。そして朱華は上手くやったはずだ。朱華の容姿に《力》に嫉妬と羨望の眼差しを感じることさえあれ、誰ひとりとして彼女が雪莉姫ではないなどとは疑っていないようだった。
万事上手く行っている――とはいえ、あまりに単調だった。このまま続けて何が起きるかも見えない。峯の顔を見るのは忌々しいことではあるけど、何らかの命が下されるなら、何かしらの変化があるなら歓迎できるかもしれない。
「……そう。お前はよくやってくれた、のだろうな」
長椅子に掛けた体勢のままで睨め上げた朱華に、峯は嫌そうに顔を顰めた。朱華がこの老女に対して無礼なのはいつものことだから、座ったままであることに気分を害した訳ではないだろう。もっと単純に、朱華を褒めるのが気に入らないだけかもしれない。
峯はわざとらしく溜息を吐いた。これも多分さほど意味のあることではなく、もったいぶって間を持たせよう、くらいのことだろう。朱華に簡単に教えてやるのが惜しいほどの重要な情報を、この老女は携えているのだろうか。
焦らされているのを承知で、そして事実焦れながら、朱華は無言を貫いた。どんな些細なことであっても、陶家の者を悩ませられるなら本望だ。どうせ暇を持て余していたところだし、最終的に朱華に言わない訳にはいかないのだろうから。だから、黙っていれば朱華の勝ちだ。
案の定、というか、峯はやがて深く息を吐いた。今度は心底残念そうな、不満に満ちた溜息だった。朱華に根負けしたのがよほど悔しかったらしい。
けれど、次の瞬間には峯の顔には満面の笑みが浮かんでいる。名家の者は表情を取り繕うのが得意なのだ。朱華は嫌というほど知らされている。
「喜ぶが良い。陶家の評判は皇族方にも届いたようだ」
「へえ?」
だから朱華も峯に倣って、何気ない風を装って軽く頷いた。実際、予想できたことではある。天遊林で行われることの全ては、皇族、特に帝位を競い合う皇子たちの耳目に入っているはず。皇子たち自身が遠見を使って視ていてもおかしくはない。むしろ、予定通りとさえ言えるだろう。
(このババア、ちょっとはしゃぎすぎじゃないかしら?)
次は皇族の前で芸をしろとでもいうのだろうか。衣装も化粧も、さぞ気合の入ったものになるのだろう。そうして、お互いに品定めして、朱華の買い手を決めるのだ。
表情を変えない朱華に、でも、峯は笑みを深めた。萎びた顔に深い皺が寄り、それがなぜか朱華に嫌な予感を覚えさせる。
「第四皇子の炎俊殿下がお前を望んでおられる。今宵、早速閨に侍るのだ。今から支度をしなくては」
「……へえ?」
辛うじて先ほどと同じ相槌を打ちながら、朱華は内心で舌打ちしていた。明らかに驚きを表に出してしまっていただろう。脚を揃えて座っていたのに、腰を浮かせてしまったし。峯の笑みも、皇子からのお召しに喜んでいるからだけではないはず。朱華を動揺させることに成功したことで、この女は悦に入っているのだ。
(クソババア……!)
とはいえ峯を罵っても意味はない。確かにもう時間がないのだ。皇子の閨に侍るなら、相応の装いというものがあるのだから。
「どうした? まさか恐ろしいなどとは言い出すまいな?」
「……まさか。待っていたくらいよ」
朱華の顔だか《力》だか分からないけど、皇子の目に留まったならめでたいことだ。身体を捧げるのも、覚悟してきたこと。雪莉が同じ目に遭うよりはよほど良い。ただ――ほんの少しだけ、彼女の予想よりも話が急だった。だから、少し驚いただけ。本当に、それだけのことだ。