9.炎俊の望み
炎俊は指先の動きひとつで官吏たちを立たせると、改めて席に着かせた。朱華の場所は、当然のことながら夫の隣だ。官吏たちの席順に意味があるのかは分からないけれど、とりあえず例の蔡弘毅は末席を占めていた。武官であるがゆえに、政に関わる席では遠慮しているということかもしれない。
「これで皆もやっと信じてくれただろう。古より名と血を繋ぐ家にはそれなりの理由と《力》があるのだ」
「殿下の御言葉を疑うことなどございませぬ」
「ただ――あの方々は、どうにも要領というか察しが悪いように思うことがございますからな」
男たちと男の振りをした者が歓談――としか見えない――している間に、朱華は淹れ直してもらった茶を啜っている。《遠見》の疲れに加えて、男たちとの問答ですっかり喉が渇いていたのだ。その場の視線が炎俊に集中しているようなのを良いことに、ちゃっかりと菓子にも手を伸ばす。消耗した気力と体力を回復するのに、甘いものでも食べなければやっていられないという気分だった。
「諸侯と呼ばれる者たちは、自領の掌握に能力の全てを費やしているからな。広大な領地の隅々に至るまで、どこにどのような目印があるかを把握しているはずだ。自身の身体の痣や黒子の場所が分かるように、何々郷で変事ありとの報があれば、瞬時にその場所に焦点を合わせることができる――それはやはり、並大抵の力ではないということになるだろう」
(黒子、ね……)
誰にも見られないうちに焼き菓子を呑み込もうとして――たっぷりとまぶされた粉糖と、それに炎俊の言葉に、危うく噎せそうになるのだけど。雪莉にある黒子が、朱華にはないことを理由に贋者と看破されたことを思い出してしまったから。自身の身体どころか、直接会ったこともない赤の他人の小さな特徴をいちいち視て記憶できる炎俊の《力》はどれほどのものなのだろう。皇族なら当たり前なのか、この女がその中でもさらに飛び抜けているのか――いずれにしても、恐ろしいと思ってしまう。
朱華が茶で喉を潤している間にも、炎俊と男たちのやり取りは続いている。
「我らには古来より受け継いだ領の統治に関わる機会はございませんからな――」
「裏を返せば、あちらから見ればそなたたちこそ要領が悪いように思えることもあるだろうよ」
「なるほど、自領の統治は血族や信頼がおける家臣に任せるもの……」
「余所者には勝手が分からないということもあるのでしょうな」
その間に、朱華も無事に菓子を丸々ひとつ平らげることに成功していた。口の中が空になったし、気力も少し回復した。会話の流れも、多分ちょうど良い。
(今なら、聞けるかな?)
「あの――」
おずおずとした気配を装って、朱華は口を挟んだ。
「我が君におかれましては、陶家の力は必要ないとお考えなのでしょうか?」
不安と、少し拗ねたような雰囲気も滲ませながらの問いかけだった。名家の姫がこの場にいたら、そうなるであろう表情だろうと思う。炎俊たちの口振りだと、権門の者たちは自領の中でしか《力》を発揮できないとでも言いたげだから。それは、それぞれの皇子が受け持つ領地の運営に、名家と呼ばれる者たちの力がさほど役に立たないと言っているも同然、のように思えるのだけど。
それに、他の皇子たちについてはどうなのだろう。炎俊と同じことに気付いているのかいないのか、妃の実家をどう使うつもりなのか。
「――いいや」
朱華がそこにいることを思い出したかのように、炎俊は彼女の方を向きながら少し目を瞠った。仮にも妻の存在を忘れていたとか、置物だと思っていたなら心外なことだ。
(ちゃんとやったんだからご褒美を寄越しなさいよ)
首を傾げてわざとゆっくりと目を瞬かせると、炎俊は少し頷いた。言外の言葉が届いたとも思えないし、届いたとして聞き入れるとも思えないのだけど。とにかく、朱華と男たちを見比べたわずかな動作からして、彼らにも聞かせる何かしらの意味だか価値を見出したらしい。
「使い方に癖がついてしまっているとしても、《力》があるのなら十分だ。例えば永州の地理を覚え直してもらえれば良い。まっさらなところからやるから、この者たちと条件は同じ、ということになるが。まあ、新しい所領を得ることもあるのだからやれぬとは言わせない」
「そう、ですか……」
それはつまり、普通の皇子は、妃たちの実家から集めた人手を自領に合わせて教育し直すところから始める、ということだろうか。第二皇子のように複数の後ろ盾を持つ宮の場合なら、妃たちの実家はこぞって優れた人材を送り込むことだろう。
彼らを使いこなすのが皇子の手腕ということなのだろうし、同等の家格同士で競う方が、市井から拾い上げられた官吏を交えるよりも御しやすいのかもしれない。でも一方で、仕込みやすさの点では自領のことで《目》が凝り固まっていない者たちの方が覚えが良さそうだ、とも感じる。だから――炎俊はその辺りに勝ち目を見ている、のかもしれない。
「そのようにお伺いすることができて、安心いたしました」
もちろん、朱華が陶家の心配をしてやる必要はないから口先だけのことだ。あの家の者たちは、たたき上げの平民と同列に扱われるのを屈辱に思うかもしれないけれど、知ったことではない。むしろ後れを取って大いに悔しがれば良いと思う。
朱華が浮かべた微笑みは、了解した、というだけの意味でしかない。それを炎俊も理解したのだろう。整った唇がいたずらっぽい笑みを形作った。
「無論、私は誰であろうと贔屓することはないし、逆に故なく厚遇することもない。家名も拾挙での成績も関わりなく、だ」
「心得ております」
「何と心強いお言葉でしょう」
男たちに檄を飛ばすというか奮起させるのが炎俊の本題だったのだろう。事実、彼らは一様に恭しく目を伏せて皇子に敬意を表している。多分、優秀な成績を収めたからというだけでは栄達できないと、彼らはとうに承知しているのだ。対して、朱華の――雪莉の兄弟たちなどはどうだろうか。陶家の名が何ら役に立たないとあの連中が知ったら――怒るか嘆くか、とにかく平民出の者たちと同じ反応は示さないだろう。
(忠誠を誓うのは、拾い上げてもらったからだけではないのね)
より重要なのは、もちろん拾い上げられた後のこと、だ。
門地に関わらず能力のある者を登用する。試挙や拾挙の理念が現実に実行されているかどうかはまた別だ。朱華は陶家の実務には全く関わらせてもらえなかった――当たり前だ――けど、峯を始め、僅かでもあの家の血を引く連中の誇り高さというか鼻持ちならなさはよく知っている。だから、皇宮での政や他の皇子たちの宮、各地の役所などでも多分そうなのだろうと想像することはできる。炎俊の態度はとても公正で真っ当だ。朱華としては信じたくないくらいに。
「我が君にはどのようにお仕えすれば良いのでしょうか。兄たちにも教えたいですわ」
陶家の者たちのためではなく、自身のために、朱華は問いを重ねた。あの連中が朱華の言葉に耳を傾けることは多分ない。そもそも、炎俊が伝えるのを許すかも分からないし。だからこれは夫婦としての信頼関係を築くための第一歩、というところだろう。
「そう――そなたには、それを教えるために今日、ここへ呼んだのだ」
素直に教えてくれないなら朱華の方も歩み寄ることはできない、と思っていたのだけど――今日の炎俊はやけに気前が良かった。それか、本当に初めから教えるつもりだったのだろうか。側近たちに、新しい妃の《力》を確かめさせるたけではなくて?
炎俊は、卓上に広がる永州の地図をそっと撫でた。同時に、彼女の《目》なら掌が辿った場所の光景がありありと視えているのだろう。民の暮らしにか、市場の賑わい、あるいは畑の実りにか、黒い目にふと柔らかな表情が宿ったようにも見えた。
朱華と、それに居並ぶ男たちを見渡して、炎俊は告げた。どこか得意げに誇らかに。彼方のことだけでなく、遥かな未来をも見通すかのように。
「私は、どの地方を誰が受け持っても、同じ速さと精度で視ることができる――情報を伝えられるようにしたいのだ。今の永州では幾つかの案を試している。他にも良い案があれば、是非とも献策して欲しい」




