2.第三皇子の噂
(あいつは、一体どんなヤツなのかしら? この方たちにはどう思われてるのかしら?)
碧羅宮に集った妃たち、咲き乱れる花のような華やかな衣装を眺め、艶やかな笑い声を聞きながら、朱華は彼女たちとは全く違う女のことを思い浮かべる。すらりとした長身に男の服を纏い、髪も男の形に結って化粧もしない――彼女の夫のことを。
(男の姿の方が似合うのよね。幸か不幸か分からないけど)
炎俊皇子は、秀でた容姿を持ってはいる。けれどそれが女性らしく優美なものかというとまた話は別だ。仮にあの女がこの場の妃たちと同じように装いを凝らしたとしても、同じように花に喩えることはできなかったかもしれない。天遊林の女たちは、他の者の容姿には辛辣だ。背ばかり高く、柔らかさに欠ける女など――顔かたちそのものが整っていることへのやっかみもありつつ――案山子のようだ、とでも言われていたのかもしれない。世に対して恐ろしいほどの大罪を犯しながらしれっと立つその姿こそ美しいのは、皮肉というか何というか。朱華としては、その心の裡を計り知ることができなくて怖いのだけど――
「ご夫君のことをわたくしたちにお聞きになるの……? 不思議なこと」
「不思議ではないわ。雪莉様は遠回しな自慢をなさりたいのよ」
「うふふ、そうね。あの御方を謗る言葉など出るはずがないとお分かりなのでしょう」
でも、妃たちは、いわば義弟にあたるかの皇子のことを概ね好意的に評しているようだった。もちろん、噂話の体で朱華に探りを入れようという肚ではあるのだろうけど。それでも、色とりどりの扇や衣装の袖、それに映える白い手をひらめかせては笑う美姫たちは、確かに楽しそうではあった。
「四の君様はいかにも涼しげなお姿でしょう。だから、どなたかに夢中になるところなんて想像できなかったわ」
「書物を友となさるような……? でも、真面目一辺倒という方でもありませんわね」
「剣を持たれても舞いのように優美でいらっしゃる。勇ましさよりも、見蕩れてしまうような」
「雪莉様はご覧になったことがあって?」
誰かが何かしらを語る度に、朱華にも意味ありげな一瞥が投げられる。書なり武なり、特別な興味を示すのではないかと試されているかのよう。炎俊と彼女の間に、特別に通じ合うものがあれば、それが第二第三の妃を送り込む手掛かりになるとでも考えているのかもしれない。
「いいえ、残念ですけれど」
「本当に。なんだか申し訳ないくらい」
「そうねえ。わたくしたちの方が星黎の方に詳しいようで」
いかにも気の毒そうな流し目は、もしかしたら挑発のつもりだったのだろうか。夫のことを何も知らないと言われることで、朱華が何かしら激したところを見たかったのかも。といっても、本当のことだから朱華としては腹が立つこともない。だから、気恥ずかしそうに目を伏せて微笑むことだってできた。
「まことにお恥ずかしいことですわ。我が君のことですもの、一日も早く御心を解して差し上げたいと思っておりますの」
朱華の殊勝な表情に、居並ぶ妃たちの唇からほう、と溜息が漏れた。上手く切り抜けた、と思ってくれたのだろうか。
本音を見せないのに業を煮やしてもいるのかもしれないけれど、それはお互い様と言うものだ。朱華が真実を語らないのと同様に、妃たちにもそれぞれの目的があるはず。最終的には自身の夫や実家に利するためだとしても、その過程で何を企んでいるのか知れたものではないと思う。
とはいえ、この天遊林が名にそぐわない恐ろしい場所だというのは分かり切っていたこと。昊耀の名家と呼ばれる者たちの権力欲も、陶家の例で身をもって知っている。だから、朱華は不思議と競争相手である妃たちには敵意を感じなかった。
(ほんと、あいつってば何を考えてるのかしら!?)
朱華が憤るとしたら、他ならぬ彼女の夫に対してだ。同様の大罪に手を染めている身が言えることではないのかもしれないけど、世を欺いて平然としていられる神経は分からない。女の癖に妃を娶り、帝位を狙う、なんて堂々と言ってのけるのも。ふたつの秘密を背負わせた朱華を、女の戦いの場に送り込んだ理由も。
何も、分からない。知らされていない。仮にも妃として迎えた者に対して不実ではないだろうか。そう思うと、ある意味ではあの峯というクソババア以上に、炎俊の涼やかな笑みが憎たらしくて仕方ないのだ。
あの声が耳に蘇ると、それだけで朱華の腹の奥が怒りと苛立ちで熱く煮えたぎる。
『私にはそなたしかいないのだ。頼りにさせておくれ』
忘れもしない初夜の翌日のこと、朝食を囲んだ席で、炎俊は朱華にそう囁いた。彼女の手を取って、艶然と微笑みながら。並の娘ならころりとやられてしまうに違ない美しい笑みだった。けれどもちろん、朱華が騙されることはなかった。炎俊は、秘密で縛り合える名家の娘は非常に珍しいと言っているだけ。自身の秘密を決して洩らさないと信じられる女を逃したくないだけなのだ。
第一、炎俊は頼りにしている、とは言わなかった。朱華は一応の条件――隠し事がある身で、一応は名家の姫の肩書を持ち、遠見の《力》を備えている――を満たしているだけなのだ。それだけでも、世にふたりといないのではないかという厳しい条件ではあるけれど、あの女はそれでは足りないと暗に言っていた。自身が求める妃に相応しく、働いて見せろと命じたのだ。
(これくらい上手いこと切り抜けろって、それくらいは、分かるんだけど!)
妃同士の付き合いくらい、軽くこなせないようでは頼れない。よって、今日のこの席を無事に終えない限り、炎俊の真意も狙いも知ることはできない。それくらいの理屈は、分かる。けれど、そのように一方的な物言いを簡単に呑み込めるかどうかはまた別の話。朱華だって、夫の器には大いに疑念を抱いているのだ。陶家が罪に問われるのはどうでも良いけど、彼女自身が心中する気は毛頭ないし、何より本物の雪莉を危険な目に遭わせるのは忍びない。
(バレたら困るんだから、大人しくしていれば良いのに!)
母妃の企みによって性を偽って育てられたところまでは、分かる。そこまでなら炎俊だって権勢争いの被害者ということになるのだから。でも、あの女はもう幼い子供じゃない。自分の頭で考えられる良い大人だ。どうしていまだに母君の偽りを塗り固めようとするのか、さっぱり訳が分からない。
それは、今さら公主だと名乗り出ることはできないかもしれないけれど、田舎の領地にでも引きこもっていれば兄弟皇子たちから追及される恐れはぐんと減るだろうに。わざわざ星黎宮を賜る必要などないし、妃を娶って秘密を知る者を増やしてしまうのだって不可解だ。朱華だってそんな大それた秘密は知りたくなかった。
「大姐がたには、妃としての心構えを教えていただきたいと願っておりますの。後から来た方とも、姉妹のように仲良くできたらどんなに良いでしょう」
「まあ、雪莉様は寛容なお心持ちでいらっしゃるのね」
皇子の唯一の妃であることは望まない、何なら他家の女も受け入れる――そう、へりくだってみせると、女たちの中には幾らか安堵の表情を見せる者もいた。敵ではないと認めてもらえれば、もっと立ち入った話もできるようになるだろうか。朱華としては、炎俊よりも同じ妃たちの方がよほど理解しやすいような気さえしていた。少なくとも、同じ女の衣装を纏い、同じ舞台で競い合っているのだから。炎俊のように何もかも分からない存在とは違うのだ。
朱華がまたひとつ菓子を摘まんだ間を縫うように、冗談めかした声が上がる。この場も、少しは打ち解けてきただろうか。
「でも、折角の新婚なのですもの。独り占めの気分を味わわれるのも良いのではないかしら」
「それなら、佳燕様のお話が参考になるでしょう」
「佳燕様……?」
妃たちの注目が、自身ではない誰かに集まったのを感じて、朱華は彼女たちの視線を追った。その先にいたのは、儚げな印象の佳人だった。ほっそりとした顔立ちに、切れ長の目が軽く伏せられて。もちろん贅を凝らした装いだろうに、どこか自信なげにも見えるのが不思議だった。
ひと通り紹介されたはずの妃の名前を思い出そうとする――までもなく、朱華の隣に座った女が囁いて教えてくれる。
「白家の佳燕様。三の君様のご寵愛を一身に受けていらっしゃるの」
「ええ……まことに、もったいないと存じておりますわ……」
名を呼ばれた佳燕なる妃は、慎ましく目を伏せて同輩からの紹介に応えた。
(ふうん、色んな宮があるのね……)
どの皇子も複数の妃を持っているのだと、朱華は何となく思っていたのだけど。第三皇子はどのような狙いでひとりに決めているのだろう。他の皇子たちの宮、そこに住む女たちの人数と力関係も、知らなくてはならないようだ。
(自分で課題を見つけて来いって、そういうことでもあったのかしらね……?)
復習のつもりで、妃たちの顔と名前、どの宮にいるかを頭の中で唱えてみる。表では和やかな歓談に興じ、茶菓を楽しんでいるように見せかけながら。やはり、話題に出たばかりの佳燕という妃は特に気になってしまうけれど。
皇子の唯一の妻であることを、他所の妃たちに対して勝ち誇っても良いだろうに、その佳人の微笑みはどこかぎこちないような気もした。夫婦の間に割って入ろうとする他家の圧力がそんなに辛いものなのかどうか、朱華にはまだ分からないけれど。炎俊のようにやむにやまれぬ事情によってではなく、愛ゆえにたったひとりの妃しか娶らない皇子がいるのだとしたら、天遊林にしてはかなりまともな男なのではないかと思えた。




