1.力試し
朱華の頭の後ろで目隠しが結ばれた。優雅に結い上げた髪を崩さないように、けれど隙間など許さぬとばかりにしっかりと。朱華の閉ざした目蓋に触れる裏地は黒い絹で、ひんやりとした滑らかな感触は心地良いほど。ただし表面には黒く塗られた革が使われ、さらに同じ色で精緻な刺繍がほどこされ、一切の光を通すまいとする意志が窺える。
とはいえただ目を塞いだだけで朱華の視界が奪われることはない。彼女の脳裏には周囲の光景がはっきりと映っている。
名家の姫君が集められるこの天遊林の、煌びやかな建物や整えられた庭園。咲く花の鮮やかさ、陽光に輝く緑の眩さ。彼女が座る卓上に並んだ青磁の茶器、様々な菓子。――それに、同じ卓を囲んだ女たちの、意地悪げな微笑みも、全て。
「陶家の姫君とお会いできるのを楽しみにしていましたの」
「噂通り、美しい方。御髪も肌も輝くようで――でも、《目》の方はどうなのかしら、雪莉様」
「どうぞお力を見せてくださいませ」
雪莉と呼ばれた朱華は、少しだけ口の端を持ち上げて微笑んだ。戸惑いを装って、内心の呆れなどおくびにも出さないように。目隠しをした姿で首を傾げて見せれば、気弱な風に見えるだろうか。
「さあ、ちゃんと当てられるかしら……心配ですけれど」
「あら、誰だって常に必ず視えるものではありませんでしょう?」
「ただの余興ですもの、どうぞお気を楽になさって」
言い訳めいた言葉に、女たちが食いつくのも確かに視えた。朱華の失敗を待ち望むかのように笑みを深めるのも、扇の影で何事かを囁き合うのも。これが天遊林に集められた妃候補とは、まったく信じがたい。
(もう、本当に楽しそうね……?)
朱華は内心笑いを堪えるのに苦労した。この女たちだってそれなりの《目》を持っているだろうに、自分が相手からどう見えているかはまるで想像しないのだ。
昊耀国の帝都の中心に位置する皇宮、さらにその奥の後宮の大半を占めるのが天遊林だ。天上に遊ぶ心地が味わえる美しい園、という意味でもあるし、天にも等しい皇族たちが戯れる園、という意味でもある。そう、天遊林は後宮の中にあって皇帝のためだけのものではない。代々の皇帝の建物や庭の好み、后妃の人数によって天遊林に居処を与えられる妃もいたけれど、この園は基本的には次代の帝位を争う皇子たちのための場所だ。
天遊林には、名だたる家が年頃の娘を送り込む。美しく着飾った姫たちこそが、この園を彩る本当の花。皇子たちは、表の政治の舞台でも競い合う一方で、奥の天遊林でも競い合う。咲き乱れる花を見比べ見極め摘み取って、自身の帝位を支える閥を作るのだ。もちろん、天遊林の名の通りに、単純に快楽を求めてこの園を訪れることもあるだろうけど。
皇子たちが姫を選ぶ基準は様々だ。実家の権力や財力の程度、本人の容姿や気性。それにもうひとつ、重要な条件がある。
卓の上を指先で探って――もちろん視えてはいるからその振りをして、ということだけど――朱華は薄い板を手の中に収めた。指先の感触からして、紙のように薄く切って磨いた木の板だ。縁に触れれば、二枚を張り合わせて一枚にしていることも分かる。四隅がごく小さな螺子で留められているのは、合わせた板の内側の絵柄が外から見えるのを防ぐためだ。目隠しをした朱華はもちろん、控える侍女やらが何らかの符丁で伝えることを防ぐために。螺子で封をされた中身を知っているのは、それを用意した者だけだ。――普通なら。
「螺子の頭にまで彫刻が施されて……なんて細やかな……」
「雪莉様、そのようなことはどうでも良いでしょう?」
「ええ、触れれば誰にでも分かることですもの」
「肝心なのは何が描いてあるか、ですわ。陶家の《力》を見せてくださいませ」
朱華が木の板を弄んでいると、女たちの笑みはいよいよ深まった。あからさまな嘲笑の声を上げないようにするのに、苦労さえしているかのよう。中身を視ることができないで、時間稼ぎをしているとでも思っているのだろうか。この女たちにとっては、できなくて当然の難しいことだとしたら、少々問題がある。朱華の内心の呆れに、今度は疑問が加わった。
(天遊林にいる癖に、そんなに視えないものかしら?)
実家の権勢よりも姫たちの容姿よりも、この天遊林で重視されること――昊耀の国を支える皇家に、捧げられる《力》を持っているか、ということだ。
昊耀が長きに渡って栄えるのにも、皇帝や皇族が神になぞらえられるのにも理由があるのだ。広大な帝国を支えるために、天は昊耀の開祖に幾つかの《力》を与えたという。彼方の出来事を見通す遠見、来るべき災害や外敵の襲来を予見する時見。水を御す水竜の加護は治水を大きく助け、戦場にあっては闘神の《力》は並の将兵を寄せ付けない。
昊耀の皇帝は代々《力》を受け継ぎ、そして時代が下るにつれて仕える諸家にも婚姻によってその恩恵が分け与えられてきた。そして今では、《力》の継承こそが昊耀の皇族と貴族に課せられた最大の義務とさえ言えるようになっている。子が父母の《力》を必ず受け継ぐとは限らないけれど、その可能性はかなり高いとされているから。
各家に下賜された《力》が、天遊林で再び皇室と交わる。新たに《力》を持った御子を育む。そうして、昊耀の国は今日まで繁栄を続けているのだ。
天遊林に集められた女たちも、当然の前提として何らかの《力》を持っている。そうでなければこの場所にいる意味がない。だから、遠見の《力》を持つ女が入ったとなれば、こんな遊びが催されることもある。競争相手の力の程度を測るのは、誰にとっても重要なことだから。
(貴女たちも、試されてるんだけどね?)
今日の場に集ったのは、遠見を得意とする者たちだという。この後も順番に、別の者が用意した絵柄を言い当てていくのだ。朱華としては視えて当然のものだから、受け答えで礼儀作法や教養を見せる場なのかと思っていたけれど――でも、この分では本当に力試しをさせているつもりなのかもしれない。
(しばらくは大人しくしてようと思ってたのに!)
この女たちは、朱華の敵ではないようだ。そしてそんな連中をつけ上がらせておくのは面白くない。だから朱華は目を凝らす。目蓋も目隠しも越えて、閉ざされたのではない遠見の目で、視る。
「――池のほとりに、朱の屋根の建物。晴れた……夏の風景ですわね。睡蓮の花がたくさん描かれています。誰が描いたのかしら、とても精密な絵……小さな蝶まで描き込まれているのですね。この建物、池の形……ああ、天遊林の南庭の一角ですね。夏になるのが楽しみですわ」
すらすらと淀みなく、朱華は並べ立てた。封じられた板の絵柄を当てれば良いところ、必要以上に詳細に、余計なことまで踏み込んで。少々嫌味にも見えるかもしれないが、《力》を見せつけるなら徹底しないと。天遊林に召されたばかりの朱華のことを、きっと誰もが注目している。真っ先に呼び出したこの女たちだけでなく、その他の家の者たちも、彼女の目的である皇子たちにも。妃候補になり得る娘が現れたと、華やかで恐ろしい女の園に雷鳴を轟かせなければならない。
(私は、妃になるのよ……本物の、雪莉様のためにも……!)
しゅるり、と目隠しを外して目蓋を開けると、女たちの呆けた顔を直に見ることができた。もう笑っても良いだろうと、くすりと口元をほころばせる。でも、女たちは笑われたことにも気づいていないようだった。それほど、朱華の完璧すぎる答えに度肝を抜かれてしまったのだろう。
女たちが絶句している隙に、朱華は木の板を留める螺子を外し、内側の絵を表にして卓に置いた。彼女が述べた通りの夏の庭園の絵が描かれているのが、控える者たち、遠見の《力》を持たない者にもはっきりと見えるように。
《力》を試すだけなら子供の落書きでも良いだろうに、夏の日を切り取ったかのような見事な一幅なのが面白い。これも、天遊林で家の力を示す方策のひとつなのだろうけど。余興の道具のひとつにも、どれだけ趣向を凝らすか、という。
「呂家は良い絵師をお持ちなのね。さすが、良いご趣味でいらっしゃる」
勝者の余裕で、鷹揚に相手の家を褒めてやる。その頃になってやっと、卓を囲む女たちは我に返ったようだった。
「あ、あの……雪莉、様……? もう、南庭にいらっしゃっていたの……?」
「いいえ。でも、とても綺麗なところだと伺っていましたから、あちこち視させてもらいましたの」
艶然と微笑みながら、朱華はまた《力》のほどを仄めかしておくのを忘れない。寝起きする場所の様子をさっさと調べておくのは、彼女にとっては当然のことだった。陶家に引き取られてから教えられたことでもあるけど、そもそも彼女の生まれ育った場所では当然の用心だった。面倒や危険が、どこに潜んでいるかもしれないのだから。この女たちは、権力争いの只中に飛び込んできた割に、今ひとつ緊張感が足りないのではないだろうか。
(まあ、私も油断はできないけど……!)
朱華は、突き刺さるような視線を感じながら、それでも笑顔を保って茶器を口に運んだ。目の前の女たちのことだけではない。どこかから、誰かに視られている。彼女のことを利用しようとする者か、それとも排除しようというのか――いずれにしても、心構えはしておかなくては。
「色々と案内してくださいませね? とても、楽しみにしておりましたから」
表向きはあくまでも無邪気に、心の裡など覗かせないよう。ただ、淑やかで麗しいだけの姫に見えるよう。にっこりと、朱華は微笑んで見せた。