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第一章



あの日は蒸し暑い、ある夏の日だった。彼女を見つけたあの日、僕は大学生で、いつものように欠伸を噛み殺しながら講義を受けていた。

「安東。安東宏堂(あんどうひろたか)。講義が終わり次第私のところへ来ること。」

やっと終わった、と安堵してテキストを仕舞った僕の耳に、名指しで信じられない言葉。なんだよ、これからお昼なのに…とぼやきながら向かった先、しかめ面の教授の口からは、信じられない内容が飛び出した。

「安東、お前、今までのレポートひとつも出してないだろう。お前だけだぞ。来週までに全部出さなきゃ単位やれないからな、頑張れよ」

先生、そんな…!虚しい反抗は聞き入れられず、あえなく僕には大量の課題が課せられることとあいなった。

「おーい、ひろ、ひろたか、先生なんだって?」

先に教室を出ていた友人の(りょう)が、僕の姿を認めるや否や大声で僕の名前を呼ぶ。

「今までのレポート全部出せだって…あんないっぱい、絶対無理だよ」

「あーあ、お前、俺たちがやってる時全然進んでなかったもんな。いっつも間に合わなくて諦めててさ。あ、でも、やりかけがパソコンに残ってるんじゃないのか?」

「…あ!そうだ!残ってるかも。じゃあ頑張れば終わるな。帰ってすぐやるわ!」

「その前に学食行こうぜ…俺は腹が減ったんだ」

と、大袈裟に腹を押さえてみせる涼。

「あ…ごめん」



涼と別れた僕は、家を目指すべく一目散に食堂を出る。心なしか小走りで大学の門まで向かう途中、僕は、彼女と出会った。


涼しげな瞳。端整な横顔。どこか物憂げな表情。しなやかな肢体。どれをとっても愛らしく、また美しい。そのあまりの美しさに、僕はつい足を止め、しばし彼女に見惚れた。

全身黒ずくめの出で立ちで、大学内を悠々と歩く彼女の姿に、周りは微かにざわめき、ちらちらと遠巻きに彼女を窺う者もあった。

綺麗な子が、いるもんだな。そう思いながら立ち去ろうとした僕の耳に、彼女に話しかけたのであろう人の、彼女を呼ぶ声が聞こえた。

「あすかちゃん、––––」後は聞き取れなかったが、僕はそれだけで充分だった。足早にその場を離れながら、心の中で反芻する。

(あすか、あの子の名前は、あすか…)


大学を出たところで、急に降り出すどしゃ降りの雨。「今日から三日間、午後は雨となるでしょう。お出かけは傘を忘れないでくださいね」と言うニュースキャスターの笑顔を今更のように思い出す。もちろん僕の手には、傘などない。軽い絶望に襲われながら、僕は鞄を頭にあてがい、地面を蹴って走り出した。



昨日雨に濡れ、さらに徹夜でレポートを仕上げた疲れか、やけに体が怠い。心なしか、目の前がふらつく。涼の話によれば、「あすかちゃん」と呼ばれていた彼女は、気紛れで有名らしい。たまにふらりと大学に現れる程度で、ほとんど姿を見せないようだ。そんな話を聞きながら、僕はきょろきょろと辺りを見渡す。––––ほんの一瞬、目の端に、ちらりと黒い影が走った。

「…あ、ごめん、涼、先教室行ってて」

そう言い残すが早いか、僕は今見えた、彼女の後姿を追いに駆け出した。


ひどく息が切れ、走っていられなくなって、僕は足を止める。彼女の姿はもうどこにもない。

「もう一度、会いたかったなあ…」

そうつぶやきながら、踵を返して涼のもとに戻ろうとしたその時。

急に走ったせいか、視界がぐらりと歪む。少しずつ周りの音が小さくなっていく。目の前に霧がかかったような感覚に襲われて、僕は思わず膝をついた。

意識がとぎれるその瞬間に、僕のかすんだ目に映ったのは、


探し探していた彼女の姿だった。



気がつくとそこは、見慣れた僕の家の天井。

「…お、宏堂、起きたか。大丈夫なのか。お前な、急に走ってったと思ったら、そこら辺がなにやら騒がしくなって、行ってみたらお前が倒れてるし。何があったんだよ。ここまで運ぶの、大変だったんだぞ。お前ん家、大学のすぐそばだからまだマシだけどなあ…」

僕の目が覚めたとみるや、涼が堰を切ったように喋り出す。これでも一応、彼なりに心配してくれているのだろう。そう思うと笑みがこぼれた。

「あ、お前、なに笑ってんだよ。救急車呼ぶところだったんだぞ。救護の先生来て、ただの風邪と貧血だって言うから、運んでやったんだぞ、まったくお前は…」

「ごめんって。助かったよ、ありがとな。ちょっと眩暈はするけど、もう大丈夫だから。

…あ、ねえ、僕が倒れた時、周りにこの前話した女の子居なかった?僕、その子を探してて」

「女の子?どうだったかな…」

「思い出して、その子、あすかって名前じゃなかった?」

「名前?そんなの分かるか、俺だって必死だったんだよ。でも、いたような気はするかな」

それは。それはきっと彼女だ。倒れた僕を助けてくれたのもきっと彼女だ…。



その日の夜。一人ベッドに体を横たえながら、僕はぐるぐると回る思考の渦に巻き込まれていた。涼に連れて行かれた病院で、申し訳程度に出された薬を飲んだからか、少し体調は落ち着いていた。それでも、眠りたいのに、眠れない。そんな時だった。

コツコツ、と、玄関から音がした。

「ん…誰?涼?」

そうぼやきながら、ふらつく足で玄関に向かい、ドアを開ける。


僕を見上げる彼女が、そこにいた。


「えっ…どうしたの、急に。どうして、僕の家を…それより、僕のこと知ってるの?倒れたとき、助けてくれたのは君?」

矢継ぎ早の質問に、彼女は困ったように首をかしげる。そこで僕は、初めて彼女がずぶ濡れであることに気づく。

「…ごめん、喋りすぎたね。タオル、貸すから。もしよければ、雨宿りでも」



あの雨の日から、彼女と会うようになって、しばらく経つ。気づいたことがいくつかある。まず、彼女はとても無口な子だということ。近くで見ても、第一印象と違うことなく綺麗だということ。そして、気紛れという噂は本当だった。彼女はいつも、ふらりと僕の家にやって来て、しばらく過ごすと出ていく。特に話をするでもないが、家にいるときの彼女はやけに居心地が良さそうで、僕はなにも言えずにいた。

僕は不安だった。彼女はどこへ行っているのか。僕の家にいない間、よもや違う奴の家に行っているのではあるまいか。不安でたまらなくなった僕は、その日もふらりと出て行った彼女に吸い寄せられるように、その後をつけた。

路地をいくつか曲がったところ。彼女が立ち止まっている姿が見えて、思わず身を隠す。彼女に話しかけるのは、知らない男。悲しみがこみ上げてくるのを感じながら、僕はじっと堪えて二人を伺った。

様子がおかしいことに気づいたのは、それからすぐだった。男が、しきりに彼女に絡む。逃げようと彼女が身を引いた瞬間、男の腕が伸び、小柄な体を無理矢理抱きすくめた。彼女はいやいやをするように顔をしかめ、手足をばたつかせている。その光景を目の当たりにした僕は、見境もなくその場に飛び出した。

「やめろ!僕の、あすかを…離せ!」

そのあまりの剣幕に、男はたじろぐ。その隙を狙って、僕は男に飛びつき、その腕の中の彼女を引き寄せた。

「あ…おい!それは…」

男の声を背に、僕は必死で、彼女を連れて家へと駆け戻った。



「あすか。どうして、こんな…でも、怪我はないみたいで、良かった」

部屋に戻った僕は、へたり込むと彼女を抱きすくめる。よほど怖かったのか、普段は触られるのを嫌がる彼女が、大人しく僕に身を寄せる。

「あすか…」

ゆっくりと手を、伸ばす。さらりと頰を撫でると、彼女は心地好さそうに目を閉じた。

「…あすか」

そっと顔を引き寄せ、頰にくちづける。彼女の頬は柔らかく、温かかった。唇が離れてからも僕は、その綺麗な横顔を見つめ、彼女が僕の腕の中にいるという幸せを、ただ噛み締めていた。



それからの日々は、幸せだった。二人の距離は日に日に近くなり、朝、目を覚まして隣を向けば、すやすやと眠る彼女の寝顔を見ることができた。

僕は本当に幸せだった。しかしその幸せも、長くは続かなかった。


その日も僕は遅刻ぎりぎりに起きて、隣で眠る彼女の頭をひと撫ですると、ばたばたと荷物をまとめて大学へと走った。

いつものように授業を受け、いつものように涼と昼食をとり、帰りに図書館とコンビニに寄って、家に帰ったのは夜もだいぶ更けた頃だった。

電気が消えている。そのことに不審を抱きながらドアを開け、電気のスイッチをパチリと押した。


蛍光灯に白く照らされたのは、ぐったりと床に横たわった彼女の姿だった。その頭の側には、赤い水溜りが広がっていた。


「あすか…あすか!」

彼女の名を呼ぶ僕の声は、悲鳴のように高く響き、その声にぴくりと、彼女の体が動いた。

まだ、生きている…。僕は夢中で彼女を抱き上げた。この前僕が行った綜合病院、そこが一番近い。靴も満足に履かずに、僕は部屋を飛び出し、病院へと駆け込んだ。

「あの!すみません、この子を…あすかを助けてください!お願いします…」


出迎えた医者が、困り果てた顔で僕を見た。



何軒か病院をたらい回しにされ、やっと診てもらえた病院のロビーで、僕はぐったりと座り込んでいた。医者が戻ってきたのを見て、慌てて立ち上がる。

「あの、あすかは…」

「大丈夫ですよ。頭の傷だから出血は派手ですが、浅く切っただけのようですな。入院の必要もありませんが、数日間は安静にお願いしますね」

「そうですか…よかった」

安心した途端に力が抜け、僕は椅子に崩れ落ちる。

しばらくして連れてこられた彼女は、かなり怯えていた。どうしたの、何があったの、と聞いても、びくりと体を震わせるだけ。彼女を落ち着かせてあげたい一心で、僕はじっと彼女を抱きしめていた。

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