第1話
「あの人が逝って、もう10年以上が経つのね」
尋常小学校の校門をくぐる際に私は思わず呟いていた。
私が産んだ4番目の娘、末娘の顔を見ることなく、夫は先の欧州大戦の際に、地中海で海軍士官として名誉の戦死を遂げた。
夫が戦死した時、末娘は私のお腹の中にまだいたのだ。
そして、今日はその末娘の尋常小学校6年生の学芸会だ。
更に言うならば、私の義父母、夫の両親もこの10年余りの間に亡くなってしまった。
歳月の流れの早さを想うと、私は何故か目に涙が浮かぶのを覚えた。
夫は海軍士官らしからぬ人柄だった。
ハーモニカを吹くのが好きで、本当は音楽家になりたかったらしい。
だが、網元をしてきたそれなりの素封家の出である以上、家業の網元を継ぐか、軍人になれ、と両親に迫られた末に海軍士官の路を歩んだ人だった。
だが、海軍士官になった後も、家にいて暇な時にはハーモニカを演奏して、子どもと一緒に過ごすのが好きな人でもあった。
ちなみに私は魚市場の仲買人の娘で、親同士の商売の付き合いから、夫とお見合いをして結婚した。
跡取り息子が欲しいと夫(と義父母)の要望もあって子作りに励んだが、皮肉なことに娘ばかり3人できてしまい、義父母から息子の嫁は女腹だと陰口を叩かれる始末だった。
今度こそ男の子が欲しいと思って4人目を妊娠したが、その子が産まれる前に夫は地中海に出征して、そこで戦死した。
夫の遺体は海の底で、夫の墓に入っているのは遺髪だ。
それを想うと更に涙が浮かんでくる。
いけない、いけない。
今日は末娘の尋常小学校最後の学芸会ではないか、そんな日に泣いてはいられない。
私は自分を叱咤して、学芸会が行われる講堂に入って、父兄席に座った。
事前の末娘の話や案内書によれば、6年生は合唱をするとのことだった。
なお、伴奏はピアノの予定だったが、末娘等、何人かのハーモニカが上手い児童がハーモニカで伴奏をしたいと言ったところ、先生が認めてくれたとのことで、ハーモニカが伴奏をするとのことだった。
私は末娘の伴奏を期待して学芸会の進行を待ち望んだ。
6年生という事もあり、最後の登場に末娘はなった。
末娘の通っている小学校は、決して大きくはない。
1学年1組、全校児童約200人といったところで、入学から卒業まで同じ組だ。
それもあって、末娘の同級生同士は男女を問わずに極めて仲が良いらしい。
(もっとも、逆に同級生間で仲が下手にこじれると6年間がえらいことになる。
次女の同級生間では仲がこじれて、親が乗り出す事態が何度か起きてしまった。)
末娘の同級生は30人余り、その内の末娘を含む6人がハーモニカを持っていて伴奏役だ。
私は末娘以外の5人が持っているハーモニカを何の気なしに見ていて、目が点になった。
5人の1人、男の子の持っているハーモニカは見覚えがある。
あれは夫が愛用していたハーモニカだ。
見間違いではないか。
私はあらためて、そのハーモニカを観察した。
だが、あのハーモニカの微かな傷、あれは確かに私がうっかりつけてしまった傷に間違いない。
夫婦喧嘩のとばっちりで、あのハーモニカを私は傷つけてしまったのだ。
夫婦げんかが収まった後、私は夫に謝り、夫も許してくれたのだが。
そのことは私の心の中でうずいていた。
そして、そのハーモニカは夫が地中海への出征の際に持って行き、そのまま地中海の海の底に夫の遺体と共にハーモニカは沈んだ筈なのに。
何で、あの男の子、確か冬木という男の子が、夫の遺愛のハーモニカを持っているのだろうか。
冬木という男の子は、夫とどういう関わりがあるのか。
まさか夫の隠し子なのか。
末娘の伴奏どころではなくなり、私の心は千々に乱れてしまうことになった。
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