第八十七話
二人は木々が生い茂る森の中を進んでいくが、一向に怪しい気配は感じられなかった。
「なんにもなさそうだなあ。むしろ空気が澄んできている気がするくらいだ」
「確かに気持ちいい空気が漂っているような気がします……」
二人は魔物の気配ではなく、むしろ森の良い変化を感じ取っていた。すぅっと息を吸い込めば新鮮な空気が入ってきて心地よささえ感じる。
「……これは、そうなのかもしれないな」
だが次第に二人は森の奥にいるであろう何かの気配を徐々に感じられるようになってきていた。
「聖獣、と呼ばれる存在なのかもしれませんね。それなら、この変化も理解できます」
聖獣とはその名のとおり、通常の魔物とは異なり、聖なる存在であると言われている。
「それでも、俺たちに対して好意的とは限らないから慎重に進んで行くぞ」
「わかりましたっ」
そっとアタルに注意されたキャロはこくんと頷き、耳を立てて周囲を探りながら進んで行く。
更に奥に進むと少し開けた場所に到着する。そこが例の巨大な狼のような魔物が目撃された場所だった。
「このあたりか……何かいたような感じはするが」
「もうここにはいないようですね。ですが、アタル様こちらです。気配が続いています」
アタルは感じ取れなかったが、しゃがんで地面に触れていたキャロは気配がさらに奥に続いていることを感じ取っていた。
そのまま導かれるようにキャロが先導し、二人はどんどんと奥に進んで行く。道なき道をかきわけるように進んで行くと、先ほどと同じように広場のような場所に辿りついた。
そこは一面の花畑であり、たくさんの花々が穏やかに降り注ぐ日の光の下で美しく咲いていた。そして、中心には目撃情報のとおり、巨大な狼のような魔物が身体を丸めて眠っている姿があった。一枚絵のような荘厳な雰囲気にアタルとキャロは一瞬見惚れてしまう。
だがその姿をアタルとキャロが視認した瞬間、魔物はむくりと身体を起こし、二人の姿を視線で射抜いた。実際にはただ見ただけだったが、まるで何かを撃ち込まれたかのような感覚に陥る。
「な、なんだ!?」
「ぐうっ!」
その衝撃にアタルは驚き、キャロも思わず自分の身体を守るかのように手で顔を防いでしまう。
『何用だ』
低く響くその声は魔物から聞こえるものだった。その間もびりびりと二人の身体に威圧感が襲いかかっている。
「……魔物がしゃべるのか?」
純粋に浮かんだ疑問をアタルは口にするが、その隣で身をすくませているキャロは何も言えずに耐えている。
『ふむ、我の威圧に耐えるとはなかなかやるものだな。……それで何用だ?』
魔物は合格だと言わんばかりに今度は威圧を抑えて質問する。
「はあ……落ち着きました。よかったです……」
「キャロは大丈夫みたいだな。あんたの質問に答えよう。俺たちはある人物からの依頼でこの森の調査に来たんだ。巨大な狼のような魔物の目撃情報があってな。正体と危険かどうかの調査だ」
淡々としたアタルの言葉にゆっくりと魔物は目を細める。
『我のことか……して、お前の判断は一体どうなんだ?』
「俺の判断としては、別段危険だとは思わない。そして、あんたの正体はそうだな……聖獣と呼ばれるような存在なんだろ?」
その答えに魔物は満足げに口角をつりあげ、ニヤリと笑う。
『くっくっく、そのようなモノと同じにされては困るな。我はフェンリル、神獣と呼ばれるものだ!』
腹の底から可笑しいと笑ったフェンリルは大きく口を開けて歯を見せるように再度威圧を放った。今度はアタルがキャロを背中に隠すことで、彼女への威圧を防いだ。それでもキャロは本能的に感じた怖さに耳を垂らして震えている。
「おい、止めろ。キャロが苦しくなるだろ!」
そして、今度はアタルがフェンリルに向けて怒り交じりに威圧を放った。彼も負けず劣らず強い威圧で押し返す。
『ぐ、ぐむむむ、わかった、わかった、こちらも止めるからお前もそれを止めてくれ!』
しばらくにらみ合ったのち、フェンリルはアタルの放った威圧に気圧され、とうとう根をあげた。
「わかればいいんだ。神獣だというのがすごいのだろうというのは言葉の響きでわかる。だが、お前……完全じゃないだろ?」
威圧を抑えたアタルは威圧を放った時の反応を見てそう判断する。
『むむむ、よくわかったな。私はもう長くない、こんな場所にいるのも少しでも長らえようとしたためだ』
ぱっと見ではフェンリルは強さが満ちていたが、目のいいアタルからすればどこか儚ささえある弱さを感じていた。
「そうか……だったら危険はないとだけ報告しておこう」
「そうですねっ。フェンリルさん、お大事にして下さい……」
あれだけ威圧を放たれたにもかかわらず、キャロは気遣いを込めてフェンリルに声をかける。だがどこか残念そうな雰囲気を隠しきれていなかった。
二人がその場を立ち去ろうとすると、その背にフェンリルが声をかけてきた。
『待て、お前たち調査以外に何か用事があったのではないか?』
フェンリルはキャロの表情の変化を感じ取ったのだろう。
「ん、あぁ、まあな。でもいいんだ、大した用事じゃないさ」
「ですですっ、フェンリルさんはゆっくり休んでいて下さい」
いいと言いながらもどこか歯切れの悪い返事をするアタルに不快そうにフェンリルは目を細める。
『誤魔化すのが下手なのにもほどがある。言ってみろ、聞くだけ聞こう』
呆れたようにため息をついたフェンリルは自分のことを恐れずに、むしろ自分を脅かすほどの威圧を放ちながらも何もせずに帰るという二人にすっかり興味を持っていた。
アタルとキャロはフェンリルの言葉を受けて顔を見合わせる。
しばしどうしたものかという表情で互いの顔を見ていたが、決心がついたのかキャロが頷き、そっと口を開いた。
「あの、実は私たちは契約のために来ました。特別な魔物や聖獣や霊獣と呼ばれるような存在との契約です。珍しい目撃情報を聞いてここまで来たのですが……今のあなたを私たちの契約に付き合わせるわけにはいきません」
ひとつひとつ言葉を選ぶように話すキャロは悲しそうだが、それでも笑顔でフェンリルに答えた。
『ふむ、そういうことだったのか。……であるならばお前たちと契約をするのも悪くない……』
あっさりと頷いたフェンリルの言葉を聞いてアタルとキャロは驚く。
「いや、そんなものに先が長くないと言っている相手をそんな契約で縛ることはできない。それは俺もキャロも同じ考えだ」
大丈夫だというようにアタルはなぜ自分たちがフェンリルと契約しようとしないかを改めて説明する。
しかし、そんな二人の気遣いを理解していたフェンリルは笑顔で返答する。
『ふっふっふ、そんなことはわかっている。契約してもらいたいのは私ではない。老い先短い私と契約してもお前たちに利がないのはわかっている。……契約してほしいのはこいつだ』
そう言ってフェンリルがゆっくり右前足をあげるとそこからぴょこんと小さな狼が現れた。
『この子は私の子でな、私が亡くなったあとをどうするか悩んでいたのだ。フェンリルといえども誰の助けもなく一人で過ごすのは難しいであろう。……だから、この子をお前たちに託したい』
フェンリルからしてみれば、死が近づいている今、出会ったアタルたちに運命的なものを感じていた。穏やかな雰囲気で語るフェンリルからは懇願の気持ちすら滲んでいた。
『母さま、僕一人になっちゃうの?』
寂し気な声音で子フェンリルが自らの母に問いかける。
『あぁ、だけど彼らがお前と一緒にいてくれるはずだ。これからはこの二人と行きなさい。子どもだが聖獣よりも霊獣よりも格の高い神獣だ。不満はあるまい』
その小さな頬をなだめるように自身の頬を擦りよせて母フェンリルは言い聞かせた。そしてアタルたちの方へ視線を流す。
そう言われて断れる二人ではなかった。
「わかりました、この子は私が契約してともに歩みます。……あなたは安心して残りの生を営んで下さい」
子フェンリルをそっと抱き寄せたキャロは真っすぐ母フェンリルの目を見てしっかりと答えた。強い彼女の気持ちを感じ取った母フェンリルは嬉しそうな雰囲気を出して頷く。
そして彼女は子フェンリルを優しく一度撫でたあと、すぐに契約魔法の準備に移っていく。
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