4 四番目の子供
伏せられたトランプをクロがめくる。その表はダイヤのクイーン。すると、迷うことなく二枚目もめくった。
今度はハートのクイーン。ペア成立である。
「あっ、また取られた」
思わず声を上げる翠。今日は昼食後に二人で神経衰弱をしていたのだが、勝負は中盤から既に差がつき始めていた。このペア成立で、またその差が広がってしまう。
「クロは記憶力いいなぁ」
「……記憶力というより集中力の問題だと思うが」
早くもテレビに視線を戻した翠に、クロは呆れたようにそう言った。
二人がリビングでそんなやりとりをしていると、玄関の戸の開く音が聞こえてきた。茜が腹ごなしの散歩から帰ってきたようだ。
「おかえりー」「おかえり」
翠とクロがそう声を掛けると、
「……うん、ただいま」
と、茜は力なく答えた。
劣勢をうやむやにする意味もあって、翠は「あか姉もやる?」と神経衰弱に誘ってみる。しかし、茜はこれにも「今はいいや」と力なく首を振るだけだった。
そうして、茜はリビングを通り過ぎて二階へ上がると、その後は自分の部屋から出てくることはなかった。
これに、クロが不審げな顔をする。
「アカネのやつ、何か様子がおかしくなかったか?」
「ああ、それは……」
翠はそこまで言って口を閉ざす。姉に元気がない理由は想像がつく。ただ、それをクロに勝手に話していいのか、という躊躇いはあった。
しかし、その理由というのは、翠に限らず他の家族も皆知っていることである。それなら、クロにだって知る権利はあるのではないか。
もっとも、当の茜は(仮に口先だけだとしても)家族だとは認めないかもしれないが――
そんな風に考えた後、翠は最終的に打ち明けることに決めた。
「多分、シロのことを思い出したせいじゃないかな」
「…………?」
知らない名前に、クロは戸惑うような表情を見せた。
◇◇◇
「シロっていうのはあだ名ね」
クロの質問に、葵はそう答えた。
「本当は〝光野家の四番目の子供〟って意味で、四郎って名前だったの」
年齢からいって自分より詳しいと思ったのだろう。翠は姉から話を聞くよう勧めたらしい。それで自室で勉強中の葵のところに、クロが訪ねてきたのだった。
シロのことを話すべきかどうかについて、葵はあまり悩まなかった。茜を一人にしておくと、余計に鬱々とした感情を溜め込んでしまいそうだからである。以前茜が散歩に出かけた時に、クロを連れて行くよう提案したのも同じ理由によるものだった。
説明を聞いて、クロはごく当然の疑問を口にする。
「で、そのシロとやらがどうしたんだ?」
「実は二年前に病気で……」
葵は目を伏せ、そう言葉を濁した。
ただ、現在一緒に暮らしていないこと、今まで話題にも上がらなかったことから、クロも予想はしていたようだ。葵の返答にも表情を変えることはなかった。
だから、自分が落ち込んでも仕方ないと、葵は話を先に進める。
「茜ちゃんが一番可愛がってたから、一番辛くもあったんでしょうね。死んじゃった時にはわんわん泣いてたし、しばらく元気がなかった時期が続いたし」
シロの死も辛かったが、妹の沈みようも葵には耐え難かった。今思い出すだけでも、胸が締めつけられるようである。
それで、葵はつい付け加えていた。
「今考えると、中二病になったのも、あれが原因だったのかもしれないわね」
ほんの冗談のつもりで言ったことである。しかし、クロはこれを真面目に受け取ったようだった。
「チュウニ病? それは恐ろしい病なのか?」
「もう治ったから平気よ」葵は苦笑いする。「本人としては治ってからの方がきついみたいだけど」
「?」
ちんぷんかんぷんと、クロは怪訝な顔をした。
冗談はそこまでにして、葵は話を本筋に戻す。
「茜ちゃん、クロちゃんがうちで暮らすのをなかなか認めようとしなかったでしょう?
あの子、昔から家で生き物を飼うのには反対することが多かったんだけど、シロちゃんが死んでからは特に猛反対するようになってね」
そうして、これまでのことを総合して考えてみると、自ずと見えてくるものがある。
「だから、反対する理由の一つには、いつかお別れしなきゃいけないのが辛いからっていうのもあるんじゃないかしら」
「…………」
最後まで話を聞くと、クロはそう押し黙ってしまった。
◇◇◇
「シロとやらのことは聞いたぞ」
部屋に来たと思うなり、クロにそんなことを言われた。茜は困り笑顔を浮かべる。
「アンタは直球だなぁ」
「腹芸は好かんからな」
「魔王向いてないんじゃないの」
「そうかもしれぬ」
ふざけ半分に、二人はそんなことを言い合った。
その後で、茜は漏らすように呟く。
「……いつまでも引きずってちゃダメだとは思うんだけどね」
あまり褒められたことではないだろう。こうして周りにまで心配を掛けてしまっているだけに尚更そう思う。
これに、クロは「そうだな」と頷く。
「そのシロとやらもそんなことは望んでいないだろう」
けれど、ただ頷いたばかりではなかった。
「だが、しかし、たまに思い出して悲しむくらいならいいんじゃないか」
そう手綱を緩めるようなことを言って、クロは更に続ける。その表情は、茜に同調したように沈んだものになっていた。
「忘れられてしまうよりは幸せだろう」
その言葉で、茜は改めて思い出す。
「そういえば、アンタんところはお母さんがいないんだっけ」
「……ああ」
クロは瞑目して、そうとだけ答えた。
先程の言葉も、おそらくクロ自身の死別の体験から来たものなのだろう。だから、こちらを慰めるつもりで言ったことなのは間違いないだろうが、死んだ母を忘れられない自分を一種正当化したい気持ちもあるのではないか。茜はそんな風に思った。
しかし、そのことでクロを非難しようなどという気は更々なかった。というより、茜もまるきり彼女の言う通りであって欲しいと考えたくらいである。
茜はクロの境遇に思いを馳せた。
おそらく、クロも茜に対して同じことをした。
だから、しばらくの間、会話が途切れたにもかかわらず、その沈黙はむしろ心地良いくらいだった。
その内に、クロが口を開く。
「それで、そいつはどんなやつだったんだ?」
「可愛かったよー!」
茜は真っ先にそう言った。
「それで頭は良いんだけど、意外と寂しがりやで」
「アオイのやつが、私に少し似ているというようなことを言っていたが……」
「そうかもね」
一旦認めてから、茜は真顔で付け加える。
「シロの方が100倍可愛いと思うけど」
「……まぁ、いいだろう」
何か言いたげだったのを飲み込んで、クロは不承不承と引き下がった。
それから、クロは茜に先を促す。
「それで?」
「目がきりっとしてて」
「うん」
「名前の通り、色が白くて」
「うん」
「尻尾がよく動いて」
「うん?」
「あとは散歩が好きで、芸が上手くて――」
「ちょっと待った」
そう言って話を遮ったかと思うと、クロは訝しむように尋ねてくる。
「そいつは一体何者なんだ?」
「何って、犬だけど」
茜はこともなげにそう答えた。
シロは衰弱して道端にうずくまっていたところを、翠が見かねて拾ってきた犬である。野良犬なので犬種は不明だが、獣医によれば紀州犬あたりの雑種ではないかという話だった。
翠や葵からは聞かされていなかったらしい。クロは唖然とした顔をする。
「い、犬?」
そして、呆れたとばかりに言った。
「犬が死んだくらいで落ち込んでたのか?」
茜にとっては聞き捨てならない言葉だった。
「はぁ?」
ケトルだったらヒット商品になっただろう。怒りは一瞬で沸点に達していた。
「アンタだって、お母さんが死んじゃって悲しかったでしょ?」
「他人の親を犬と一緒にするな」
今度はこちらが相手の逆鱗に触れたようだった。クロは返す刀でまくしたててくる。
「というか、さっき私がシロとやらと似てると言ったよな。何で親子二代で犬なんかと比較されなきゃならないんだ」
「犬なんかって何さ、犬なんかって」
「犬は犬だろ。所詮はペットじゃないか」
売り言葉に買い言葉。こちらの怒りを煽るようなクロの発言を受けて、茜も煽り返すような言い方をする。
「ペットじゃありませんー。大事な家族ですー」
「子供か!」
◇◇◇
急に騒がしくなった二階の様子を、リビングでは翠が不思議がっていた。
「あか姉、元気になったの? 何で?」
「何ででしょうね」
葵はそう言って、ふふっと微笑をこぼした。