3 ま or か
二階からリビングへと向かう最中、葵は困り顔をしていた。一緒に歩く翠が、ぷりぷりと不機嫌そうだからである。
苛立ち交じりに、翠はもう一度言い聞かせるように繰り返す。
「だから、フィーチャーだって」
「ふゅーちゃー?」
「フィーチャー!」
葵の返事に、翠はそう怒鳴った。
昼下がり、そんな風に普段通りの他愛もない会話を交わす二人。だが、リビングのドアを開けた時には、その非日常的な光景に言葉を失ってしまった。
茜はクロの頬に手をやると、触れてしまいそうなくらいに互いの顔を近づけていたのである。
茜には当初、葵たちが固まってしまった理由が分からなかったらしい。
「ああ、これ?」
そう言ってようやくクロから離れると、あっけらかんと訳を話し始めた。
「この子、見た目がこれでしょ? だから、ご近所さんに聞かれたら、どう説明したらいいかと思って」
今のはクロの容姿を詳しく観察していたということのようだ。茜はまた、「散歩の最中に気付いて焦ったよ」と自分の迂闊さを笑った。
話を聞いて、葵はホッと一息つく。むしろ、茜の行動にこそ焦っていたからである。
「ああ、そういうこと」
紅潮する頬を両手で隠すようにしながら葵は続ける。
「私はてっきり……」
「てっきり、何?」
言いよどんだ瞬間にも、茜がじっとりした目で睨んできた。
すると、葵に代わって翠が答えた。
「それは勿論、あか姉がクロをおそっ――」
「言わんでいい」
茜は慌てたようにそう制止した。
◇◇◇
「でも、そうね」
妙な誤解をされかかったが、発言自体は真面目に受け取ってもらえたようである。葵はそう言って話を切り出した。
「確かに、魔王や魔族とは言えないわよね」
これに翠は、小生意気な笑みを浮かべる。
「あか姉の中二病が再発したと思われるもんね」
「やめて」
茜はそう訴えた。
それから、茜は改めてクロに視線を向ける。
「やっぱり、外国人かハーフってことになると思うんだけど……」
黒い髪や縦長の瞳孔はともかく、褐色の肌は純粋な日本人というには少し無理があるだろう。姉妹も同意見のようで、これに対する反論は出なかった。
茜の話を受けて、翠がふざけ半分に提案する。
「お父さんの隠し子とかどう?」
茜は日頃の両親の様子を思い返す。そうすると、この際世間体は度外視するとしても、翠の案が致命的なまでに破綻していることが分かる。
「あのラブラブっぷりで?」
「あー、確かに不自然か」
「不自然過ぎるよ」
苦笑いする茜。あの夫婦仲で浮気していたら、軽く人間不信にでもなりそうである。
「それじゃあ、親戚の子を預かることになったとか?」
今度は葵がそんな提案をした。
「外国人の親戚かー」と翠。
「今時、珍しくないかもだけど」と茜。
実際にいるという話は聞かないが、最悪遠縁ということにしておけば言い繕えるかもしれない。基本線としては間違っていないのではないか。
そう考えて、茜は詳細を詰めることにする。
「それで、外国って具体的には?」
「ヨーロッパ」
「まだ大分曖昧だよ」
葵の返答に、茜は眉根を寄せた。これなら相談するより自分で考えた方が早そうだ。
対して、翠はもっと根本的な問題を指摘する。
「ていうか、どこの国出身だとしても、地元について聞かれたらアウトじゃないの?」
「それもそうか」
今更になって茜も気付く。何しろクロの本当の出身地は魔界なのだ。イギリスやフランスについて聞かれたところで答えようがない。
「かといって、日本育ちでも同じことだろうしなぁ……」
その場合も、同様に知識不足が問題になるだろう。むしろ、日本で生活する分、日本育ちという嘘はボロが出やすくなるだけではないか。
茜がそんなことを呟くと、翠は物は試しとクロに尋ねる。
「クロ、日本で一番高い山は?」
クロはこれに、少し考えてから回答した。
「日本一高山」
「日本人のネーミングセンスひどいな」
大真面目なクロの表情も合わせて、茜は呆れてしまう。やはり、この方向性で考えるのは無理があるようだ。
にもかかわらず、葵はもう一度尋ねた。
「第二問、日本で一番高い山といえば富士山ですが、では日本で二番目に高い山は?」
「それは日本人も知らないんじゃあ……」
少なくとも茜は知らない。しかし、そんな懸念をよそにクロは堂々と答えた。
「富士山の次に高山」
「ネーミングセンス!」
叫ぶように茜は言った。
あれもこれも、つつけば矛盾や問題が出てきてしまう。かといって、その解消の為に、外国や日本の知識を一から叩き込むというのも手間が掛かり過ぎるだろう。
それだけに、葵は悩ましい顔をする。
「なかなか難しいわね」
すると、これに対して翠が逆転の発想をした。
「じゃあさ、相手がプライベートを詮索しにくくなるようにすればいいんじゃないの?」
「……言いたいことは何となく分かるけど、どうやって?」
茜がそう質問すると、翠は事もなげに答える。
「説明するのが憚られるような、悲惨な境遇があることを匂わせるとか」
「一体どんな事情があるっていうのよ」
「どんな事情があったとしても、クロは光野家の大事な家族だよ」
「何でいい話したの?」
茜は思わずそう尋ねた。
そうして四人が話し合いをする、その最中のことだった。茜はふと庭の方から気配を感じて視線をやる。
「おばあちゃん!?」
にこやかに手を振ってくる須美とは逆に、茜は顔を引きつらせていた。
「おばあちゃん」といっても、小比賀須美は実の祖母というわけではない。家が近所で、子供の頃から付き合いがある為、そう呼ぶのが半ば習慣になっていたのだ。
そして親交が深いだけに、インターホンで家人を玄関へ呼び出すのではなく、庭の方から直接リビングに回るのも別段珍しいことではない。
が、今だけは遠慮して欲しかった。
茜は「アンタはこっち」と手招きして、クロをリビングの外へ連れ出そうとする。二人が「え?」「いいから早く」と手間取っているのを見て、翠は力ずくでクロの体を押していく。
須美は一瞬呆気に取られた顔をしたが、ひとまずは用件を伝えてくる。
「これ、作り過ぎちゃったからどうかと思って」
「いつもすみません。ありがとうございます」
一人リビングに残された葵は、そうお礼を言ってタッパーを受け取った。
作った料理を譲ってくれたり、貰った旅行土産をおすそ分けしてくれたり、こうしたことは以前からちょくちょくあったのだが、姉妹三人で暮らすようになってからは更に頻度が増えていた。須美は何も言わないが、きっと心配して様子を見にきてくれているのだろう。茜はそう解釈して感謝していた。
この日も須美は、表面上は姉妹を心配するような素振りを見せなかった。
「タラが安かったから、今日はアクアパッツァを作ってみたんだけどね」
(アクアパッツァて)
リビングの外から覗き込むようにして様子を見ていた茜は、内心でツッコミを入れる。
一方、須美の発言に対して、葵はこう返した。
「わー、ハイカラですね」
(ハイカラて)
茜は再びツッコミを入れた。
そうして須美の用件は終わったようだが、二人の話はまだ続いた。
「それにしても、今年は冬が長いわねえ」
「本当ですね。もう四月になるのに」
「うちのショコラなんて、今朝も気付いたら布団に潜り込んでてねえ」
「そうなんですかー」
そんな風に何気ない雑談をする須美と葵。これに茜は胸を撫で下ろす。
(よし、このまま話が逸れてくれれば……)
と、茜がそう思った、まさにその瞬間だった。
「それで、さっきの子は?」
(フェイントかよ!)
思いがけない須美の言動に、茜はつい声を上げそうになる。
案の定、葵も返答に窮していた。
「えーと、その……」
(頑張れ、お姉ちゃん)
茜はひたすらそう祈る。自分が今から出ていって説明するのは不自然だろう。第一、自身も上手い説明が思い浮かんでこないのだから、姉を手助けできるとは思えなかった。
「ええと……」
散々迷った末、追い詰められた葵が発した答えは次のようなものだった。
「魔族です」
(ア、アホー!)
茜は心の中で叫ぶ。頭が真っ白にでもなったのだろうか。さっきまで外国人だの、親戚だのと話し合っていたことが、まるで活かされていない。
これに対して須美は――
「そうかい」
ちょっと驚いたような顔をした後、そう頷いていた。
『まぞく』と言われても、彼女の日常から遠い『魔族』という言葉に繋がらなかったらしい。
「家族かい」
須美は語感が近く、文脈からも外れていないものとして、その言葉でクロのことを認識したようだった。
「え?」
一瞬戸惑いを見せたが、これ幸いとばかりに葵は話を合わせにいく。
「ええ、まぁ、最近新しく家族になったというか……」
「そうかい」再び頷くと、須美は微笑を浮かべる。「それじゃあ、さっきの子にもよろしくね」
そう言い残して、彼女は光野家を後にするのだった。
須美が帰ったのを確認してから、茜たちはしずしずとリビングへと戻る。
「何とかなった……のかな?」
「そうだったらいいんだけど」
緊張を緩める茜に、葵は冷や汗を浮かべながらそう答えた。
その一方で、翠は一人したり顔をしていた。
「ほら、やっぱり〝光野家の大事な家族〟で通じたじゃん」
「そんな強引な……」
茜は呆れて二の句が継げなくなった。