1 魔王?
「……何やってんの?」
驚きと戸惑いから、茜は思わずそう尋ねた。
クロが家に来たその翌日。朝食後に、洗濯物を干そうという時のことだった。茜はクロが庭で例の黒い炎を出現させているのを発見した。
空に向かって撃ち出した昨日と違い、今日は規模が小さく、両の手の平からたき火ほどの大きさの黒炎が上がるだけだった。とはいえ、見過ごすわけにはいかない。
これに対して、クロのそばに控える翠が答えた。
「魔法使ってんの」
「いや、それは大体分かるんだけど」
あっけらかんとした態度に、茜は渋面を作る。
結局、詳しいことはクロ本人が説明した。
「毎日使わないと、どうも落ち着かなくてな」
「ふーん……」何とか理解できる範囲の話かな、と茜は思う。「スポーツマンが毎日体動かさないとダメみたいな感じかな」
要するに、クロが日頃の習慣から魔法を使い、それを面白がった翠が近くで観察していた、ということのようである。
そのこと自体については、茜はとやかく言うつもりはないが――
「何でもいいけど、燃え移らないように気を付けてよ」
重要なことである。ついでに洗濯物を乾かして欲しいとまでは言わないが、火事を起こすのはいただけない。
「あと、ご近所さんに見つからないように」
これも重要なことだろう。正体が魔王だと世間に知れたら、クロは勿論、光野家もどんな扱いを受けるか分かったものではない。
「それと、怪我しないようにね」
「いちいちうるさいなぁ」
あれこれ口出しする茜に、翠は煩わしそうにしかめっ面をした。
一方で、クロは茜の注意に素直に従っていた。昨日よりずっと小さな黒炎が、もう一回り小さくなる。
ただ、いくら力を抑えても魔法は魔法なのだろう。昨日見た角と尻尾は、今日も生えたままだった。
だから、魔法そのものと、魔法を使う際のクロの姿に、茜は改めて思う。
(やっぱり、魔王なんだなぁ……)
◇◇◇
魔法で出せるのは炎だけではないらしい。
クロはその後、風を巻き起こしたり、水を生み出したり、冷気を振り撒いたりと種々の魔法を披露した。それをそばで見ていた翠は、その都度「わー」だの「おー」だの歓声を上げる。トレーニングというより、ある種のショーのようだった。
しばらくするとそれも終わって、二人が庭から上がってくる。かと思えば、翠は開口一番キッチンの茜たちに尋ねた。
「お昼ご飯何?」
「パスタだよ」
この会話を聞いて、今度はクロが翠に尋ねる。
「パスタとは?」
「簡単に言うと麺だよ」
「ほう……」
クロは分かったような分からないような、曖昧な相槌を打った。
茜と同じく、葵も魔法を運動の一種のように捉えたのだろう。トレーニング後のクロに、水分と糖分の補給を勧める。
「そうだ。クロちゃん、ココア飲む?」
「うむ。せっかくだからいただこう」
クロが喜びを隠し切れない様子で頷くのを見て、葵は急いでココア作りに取り掛かる。といっても、牛乳に専用のパウダーを溶くだけなので、急ぐまでもなくあっという間に完成したが。
葵からココアを受け取ると、昨日と違ってすぐさま口をつけるクロ。しかし、何故か二口目はなかなか飲もうとしなかった。
「分量おかしかった?」
「いや、冷たいことに少し驚いただけだ」
不安がる葵にそう答えると、クロは今まで牛乳のしまわれていた場所を見た。
「冷蔵庫と言ったか?」ありふれた家電に対して、クロは怪訝そうに眉根を寄せる。「中に物を入れれば、あとは勝手に冷やしておいてくれるらしいが、一体どういう仕組みなんだ?」
「…………」
ちょっと考え込んだ後、姉妹は三者三様の答えを出した。
「フロンがどうとか、イソブタンがどうとか」と茜。
「電気で動いてるんだよ」と翠。
「科学の力よ」と葵。
一見ばらけているようで、結局のところ言っていることは同じだから、クロはそれを端的にまとめた。
「お前たちが全然分かっていないということはよく分かった」
それから、クロは続けて尋ねる。今度は茜たちでも答えられるレベルの質問だった。
「お前たちは貴族か何かというわけじゃないんだよな?」
「うん。今時、冷蔵庫なんて一家に一台はあると思うよ」
これを聞いて、クロは唸る。
「このような便利なものが、そこまで広く普及しているとは…… 人間界恐るべしだな」
普段は意識していないが、言われてみればその通りである。古くは家庭用の冷蔵庫には氷を使っていた為、保冷時間は短く、内容量も小さかったという。それさえなかった時代のことまで考えると、現代の暮らしぶりは途方もないものだろう。
ただクロの話を整理する内に、茜の頭には素朴な疑問が浮かんでいた。
「でも、魔族なら魔法で似たようなことができるんじゃないの?」
天然のものを保存するまでもなく、店のものを買うまでもなく、氷くらい好きな時に好きなだけ作れるのではないか。それなら氷冷蔵庫の欠点もそこまで目立たないだろう。
この茜の憶測は間違いではなかったようだ。「それはそうなんだが……」とクロは認める。
ただ、決して全肯定はしなかった。
「しかし、魔法はどうしても個人の技量に左右されてしまうところがあるんだ。魔法の体系化や教育制度の拡大を進めてはいるが、それにも限界があるしな」
クロは多くの魔法を軽々と使ってみせたが、あれはあくまでクロだから出来た芸当ということだろうか。そういえば、昨夜クロは「王家の血筋は特に魔力が強い」というようなことも言っていた。
クロは魔法と魔界についての説明を続ける。
「だから、魔界では貴族が種々の魔法を使える使用人を揃えて豊かな生活をする一方で、生まれつき魔力が弱い為に、まともな働き口さえないような者が存在してしまっている。つまりは、魔法による格差が生じてしまっているわけだ」
そこまで言うと、話は再び科学に対する賞賛へと戻った。
「その点、科学というのは、こうして万人が等しく恩恵に与れるのだから素晴らしいな」
先程、茜は冷蔵庫の仕組みを知らなくて恥をかいた。だが、それは仕組みを知らなくても、使う分には何の支障もないということでもある。クロの言うように、特殊な知識や技術を必要としないからこそ便利なのだ。
しかし、驚いたのはクロが格差云々と言い出したことである。家電については昨日から何度か質問されていたが、魔界にないから興味を持ったというような単純な話ではなかったようだ。
だから、為政者視点で物事を考えるクロの姿に、茜は再び思う。
(やっぱり、魔王なんだなぁ……)
◇◇◇
魔法と科学についての会話は、その後も続いていた。
「魔界って科学は全然なの?」
「全然だな」
翠の質問に、クロは反復するようにそう答えた。
「魔法にもある程度の利便性は認められるわけだからな。それが科学の発展の妨げになっているのかもしれない」
「ふーん。そういうもんか」
と、翠は分かった風なことを言う。
二人がそんな話をしている傍ら、茜と葵は昼食の準備を進めていく。
その最中、高く短い音が鳴った。茜たちにとっては散々聞き慣れた音だが、初体験のクロはこれに驚いたようにびくっと体を震わせる。
「ああ、今のは電子レンジの音よ」
葵がそう教えた。貰い物で残り物のポトフを温めていたのだ。
ただ、葵の説明では、クロにはまだ不十分なようだった。
「デンシ……? 何だ、それは?」
「えーっと……」迷った末に、葵はシンプルな結論に至った。「見せた方が早いかしら」
そうして、クロに渡したコップを、葵は「ココア借りるわね」「うむ」と一度預かる。
「これを電子レンジに入れて、スイッチを押すだけで……」
数十秒後、「チン」と再び高く短い音が鳴る。
「簡単に温められるのよ」
実演を終えると、葵はコップをクロに返す。その際に、一言言い添えるのも忘れない。
「熱いから気をつけてね」
「!」
葵の注意が遅かったのか、クロが飲むのが早かったのか。口をつけた瞬間にも、クロは目を白黒させる。
しばらく時間を置いてから、クロはようやく口を開いた。
「じっ、地獄のように熱く、憤怒のように熱く、恋のように熱いな」
そんな感想は無視して、茜は冷ややかに尋ねる。
「もしかして猫舌?」
「そんなことは――」
ない、と証明するようにもう一度口をつけるクロ。しかし、結果的に証明したのは茜の推測の方だった。
「あっつ」
悶絶するクロの姿に、茜は思わず疑いの眼差しを向ける。
「……アンタ、本当に魔王なの?」