5 魔王の気持ち、人の気持ち
ゴールデンウィークの中日に当たる今日は、天気にも恵まれ、絶好の行楽日和となった。
そしてこの日、クロを含めた光野家一家は、正午になる少し前にマルタ公園に来ていた。その目的は勿論――
「花見だああああああああああ」
そう叫ぶ翠の声は、
「あ…………」
実際の桜を見て、途切れてしまった。
「ほとんど散っちゃってるわね」
「あの雨と風じゃあね」
弱ったように言う葵に、茜はそう相槌を打った。
桜流しというやつだろう。先日雨が降ったのに加えて風まで吹いたせいで、マルタ公園の桜は耐え切れなかったように花を散らしていた。こうなると、花見の当日になって晴天を迎えたのが皮肉にさえ思えてしまう。
「〝花に嵐のたとえもあるぞ。「さよなら」だけが人生だ〟」
胡郎がそんな詩を吟じる。その隣では、卯月が「残念ねー」と気を落としたような表情を浮かべていた。
ただクロ一人だけが、平然とした態度のままだった。
「しかし、元々花を見るという口実で騒ぐ行事なのだろう?」
「そうなんだけど……」
茜は口ごもる。クロの主張も分からないではないが、やはり周りが華やかかどうかで、場の雰囲気も変わってくるのではないか。
だが、よく考えてみれば、桜が散るのを一番心配していたのはクロである。先程の主張は、盛り下がらないように気を遣ってのことかもしれなかった。もしそうなら、周囲が残念がってばかりもいられないだろう。
だから、茜は言った。
「まぁ、それもそうか」
◇◇◇
「じゃーん」
そう言って、葵がふたを開ける。
おにぎり、サンドイッチ、ミニハンバーグ、唐揚げ、マカロニサラダ…… 弁当箱の中身を一目見た途端、そのラインナップと出来映えに、家族から「おおーっ」と歓声が上がる。それから、一家は逸るように「いただきます」と手を合わせた。
「せっかくの帰省なんだから花見の時くらいは」と、今日の弁当は葵が用意したのだった。ただそれだけに、今になって仕上がりが不安になったらしい。
「お母さんみたいに上手く作れたかどうか分からないけど……」
「大丈夫。私より美味しいくらいよ」
卵焼きを一口食べて、卯月はそう微笑む。同意するように、他の家族もうんうん頷く。これに、葵は照れたようにはにかんだ。
それでもまだ気恥ずかしかったのか、葵はうやむやにするようにこちらに話題を振ってきた。
「茜ちゃんも何か作ってたわよね?」
「作ったってほどじゃないけど……」
喜んでもらえるか不安なのは茜も同じだった。遠慮がちに弁当箱を差し出す。
「何これ?」中を見て、翠は首を捻る。「何の刺身?」
たっぷりの保冷剤で冷やされた茜の弁当箱。その中には、鮮やかな赤色の切り身が並べられていた。トロに少し似ているが、色がもっと濃いし、肉質も魚のそれではないから、翠が不思議に思うのも無理はない。
翠の疑問には、胡郎が答えた。
「これは馬刺しだよ」
そう言いながら、箸を伸ばす。
が、茜がその手をはたき落としていた。
「えっ? 何?」体以上に心が傷ついたとばかりに、胡郎は何度も手を擦る。「反抗期?」
「ああ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
娘の仕打ちに胡郎が困惑する一方で、茜もしどろもどろになっていた。否定はしておきたかったが、本心は口にしたくなかったのだ。
ただ、結局その本心は、葵によって明かされてしまった。
「クロちゃんに食べて欲しかったのよね」
そう言いながら、無邪気に笑顔を浮かべる葵。茜が睨みつけても、気にする素振りはまるでなかった。
対して、胡郎は「ああ」と合点がいったように声を上げる。
「生肉が好きなんだっけ?」
「うん。馬肉は生でもわりと安全みたいだから」
気恥ずかしさを押し殺しながら、茜は馬刺しを選んだ理由をそう説明した。
牛や豚などと比べて馬は細菌や寄生虫に感染しにくく、生食しても比較的安全らしい。それで茜は、今日の為に通販で取り寄せたのである。
「そうだったのか」
驚いたようにそう言うと、クロはこちらに顔を向けてくる。
「ありがとう」
「私は別に」
照れくさくなって、茜はついぶっきら棒に答える。実は他にもクロの為に用意してきたものがあるのだが、おかげで出しづらくなってしまった。
その上、卯月は更に照れくさくなるようなことを言い始める。
「茜ちゃんは本当にクロちゃんのことが好きなのねえ」
母の一言に、茜はクロから目を逸らすと、馬刺しについての説明を続けた。
「それに馬肉は桜肉とも言うから、花見にちょうどいいかと思って」
「あ、誤魔化した」
揶揄するような翠の言葉に、家族から笑い声が起こって、それで茜はますます顔を赤くするのだった。
◇◇◇
そうして花見が行われ、宴もたけなわという頃だった。
「ちょっとトイレ」
そう断って、胡郎が立ち上がる。
これを聞いて、卯月は「それなら、私も」と夫にならった。子供たちも、ぞろぞろと付き従うように腰を上げる。
しかし、そんな中、クロだけは違った。
「私はいい」
そう言って、その場から動こうとしない。
それだから茜も、
「じゃあ、私もいいや」
と答えて残ることにした。
馬刺しの一件が念頭にあるせいか、この返答に家族たちは何か言いたげな顔をする。茜は追い払うように、「さっさと行きなよ」とトイレに急かした。
それで、茜とクロの二人きりになった。
クロは空を見上げると、太陽の眩しさに目を細める。
「今日は暖かいというより暑いくらいだな」
「そうだね。ずっと寒かった反動かな」
そんな相槌を打って、茜も視線を上げてみる。
すると、桜の木が目に入った。
雨風もあるが、気温も影響しているのではないか。散り際の花を押しのけるようにして、青々とした葉が芽吹いていた。その緑の鮮やかさを前にしては、半端に残った花の方がかえって見苦しい。
次の季節が、もう近づいてきているということなのだろう。
「クロってさ」
せっかく二人きりになったのである。茜は意を決して切り出す。
「やっぱり、いつかは魔界に帰るつもりなの?」
クロの故郷はここではない。だから、帰りたいなら止めるつもりない――そう考えていたはずだった。
しかし、クロが虹の橋を探していたのではないと分かった時、それまでの茜の考えは、別の感情にいとも容易く覆されてしまった。
まだしばらくの間は、クロと離れ離れにならなくていい。
まだしばらくの間は、シロとの死別の際に感じたような、あんな思いをしなくていい。
あの時、茜の胸中はそんな安堵の感情に満ちていた。
こんなことになるのなら、クロとはもっと距離を置いて付き合うべきだったのではないか。いや、そもそも翠が家に連れてきた時に、居候させるのに反対するべきだったのではないか。
いずれ別れなければならないのなら、いっそ出会わなければ良かったのかもしれない。
勿論、クロがずっと人間界にいてくれるというのなら、こんな不安はただの杞憂に過ぎないが――
茜の質問に対して、クロは一拍間を置いてから答えた。
「無論、いつかは帰るさ」
◇◇◇
全員が用を足し終わるまでの、その待ち時間。
花の散ったはずの桜を、葵は一人遠い目をしながら眺めていた。トイレのすぐそばだから、いまいち様にならないが。
「あお姉、何黄昏てんの?」
「うん。ちょっとね」
翠はからかい半分に尋ねたつもりだったのだが、葵は反論しなかった。
「〝花に嵐のたとえもあるぞ。「さよなら」だけが人生だ〟だったかしら?」
そうして胡郎が口にした詩を諳んじると、物憂げな表情のまま続ける。
「何だか寂しいわね……」
「…………」
翠も桜の木を見上げてみる。花はほとんどが既に消え去り、それに代わるように葉が生い茂っていた。なるほど詩にある通り、何事も嵐を前にした桜の花のようなもので、ただ散っていくのを待つばかりなのかもしれない。
が、それを否定したのは教えた当人だった。
「違う、違う」
トイレから出てきたばかりという、やはり様にならない状態で胡郎は訂正する。
「『勧酒』って言う中国の詩を訳したものでね、全文はこうだよ」
そう前置きして、再び吟じた。
「〝この杯を受けてくれ。どうぞなみなみ注がしておくれ。花に嵐のたとえもあるぞ。「さよなら」だけが人生だ〟」
前半に二文が加わったことで、別の解釈が可能になったようにも翠には感じられる。葵はそれをもっと具体的な言葉にしていた。
「いつか終わりがくるからこそ、今を目いっぱい大切にしよう……ってこと?」
「多分ね」
胡郎はそう言って微笑んだ。
一体いつから話を聞いていたのか。翠たちが何か答える前に、これまたトイレから出てきたばかりの卯月が真っ先に反応していた。
「胡郎さんは物知りねー」
「そうかなぁ」
胡郎は照れたようにそう笑う。それから、気取った風な顔つきになって続けた。
「でも、一番知りたいのは君のことだよ」
「いやだわ、胡郎さんったら」
胡郎の言葉に、卯月は頬に手を当て体をくねらせていた。
茜がいないので、代わりに翠が言った。
「イチャつくな」
◇◇◇
「無論、いつかは帰るさ」
そう答えて、クロはその理由を明かす。
「せっかく人間界の進んだ知識を得られたのだ。これを魔界に持ち帰らない道理があるか」
「そ、そっか」
思い起こせば、前にも似たようなことを言っていた。ある意味でとてもクロらしい回答に、茜は困り顔をする。
続いて、クロはその人間界で得たという知識を披露した。
「電子レンジを使えば魔法のように簡単に野菜を茹でられることを知ったし、TVゲームは喧嘩になるくらい夢中になったし、神社やデパート、銭湯といった施設は興味深かったし、ハンバーグやミートローフは美味しかった」
そこまで言ってから、クロは微笑を浮かべる。
「土産話になるような思い出がこんなにもたくさんできるとは、人間界に来たばかりの頃には想像もしていなかったぞ」
「そっか……」
茜はただそう答えた。そう答えるのが精一杯だった。
桜が散りやすい花だという雑談を覚えていたように、クロは他にも色々なことを覚えていたのだ。些細で、ちっぽけで、日常的で、忘れてしまっても構わないようなことを、一つ一つ細かに覚えていたのだ。
それは些細なように見えても、クロにとっては大切な思い出だったからだろう。
「何の話をしてたの?」
いつの間にか戻ってきていたらしい。二人の会話に割り込むように、葵がそう尋ねてくる。
これに、茜はこう答えた。
「カエル様まんじゅう美味しかったね、って話だよ」
先程クロが話したようなことなら、茜も全て覚えていた。それは茜にとっても、全て大切な思い出だったからである。
確かに、クロと出会わなければ、その別れに苦しむことはなかったかもしれない。
しかし、クロと出会わなければ、かけがえのない大切な思い出ができることもまたなかっただろう。
「ね、クロ?」
「……うむ」
茜が呼びかけると、その真意を察したようにクロはゆっくりと頷く。
そうして互いの気持ちを確かめると、二人はもう何も言わず、ただ見つめ合った。
しかし、途中から話を聞いたせいで、家族には言葉通りの意味としか受け取られなかったようである。
「あれ、つぶあんが美味しいのよね」
と葵が言えば、
「いや、こしあんでしょ、こしあん」
と翠が反論を始める。
一方、卯月はまず夫に尋ねていた。
「胡郎さんはこしあん派だったわよね」
「そうだけど……」
胡郎は一旦頷くようなことを言った後、格好つけた声で答え直す。
「でも、君が作ったくれたものだったら、何でも美味しく感じちゃうよ」
両親のことはもう無視するように、姉妹は言い争いを続けていた。
「ていうか、一番は芋でしょ」
「それがありなら抹茶じゃないかしら」
翠の意見に、今度は葵がそう反論し返した。
そんな家族の会話を受けて、茜はクロに確認を取る。
「クロはやっぱりチョコ?」
「そうだな」
首肯するクロ。こんなことなら、花見の前に店に寄ってくればよかったかもしれない。
「じゃあ、その代わりと言ってはなんだけど……」
茜はもぞもぞとバッグを漁り、中から水筒を取り出す。それを見て、クロは怪訝な表情を浮かべた。
「……何だ、それは?」
「何って、ココアだけど」
「作ってきてたのか」
「うん」
そんなやりとりをして、互いに微苦笑を浮かべ合った後、茜は本題に入る。
「飲んでくれる?」
茜がそう尋ねる。
「うむ」
クロがそう頷く。
それでクロはコップを差し出し、茜はそれにココアを注いだ。
◇◇◇
ちょうどその時、散歩中の須美が公園の前を通りかかった。
距離があるせいで、詳しい内容までは聞こえてこない。だが、賑やかな話し声から、光野家一家が笑い合っているのはよく分かる。
だから、須美は思わず呟いていた。
「今日も平和だねぇ……」
これに返事をするように、「わん」とショコラが吠えた。
(了)