3 懐郷
「そろそろかしらね」時計を見ながら葵が言う。
「そうだね」茜も同じようにして頷いた。
休日の午後、二人はリビングでそんな会話を交わす。これに、翠は「二人とも落ち着きなよ」と大人ぶったようなことを口にした。
ちょうど、その時だった。
玄関の扉が開く音と、それに続く声。
「ただいま」
三姉妹は部屋を飛び出して、二人のことを出迎える。
「おかえりなさい」
ゴールデンウィークが始まり、両親が久しぶりに家に帰ってきたのだった。
◇◇◇
長身痩躯、細面に眼鏡を掛けたエリート風の父・胡郎。
長女に輪をかけてスタイルのいい、まだ若奥様という雰囲気の母・卯月。
こうして直接顔を合わせるのは正月休み以来だが、二人とも変わらず元気そうだった。
「おかえり、魔王に殺されたと思ったら実は生きてたけど、なんやかんやあってやっぱり死んだお父さん」
翠の挨拶に、胡郎は面食らった顔をする。
「何の話?」
「ゲームの話でしょ」
横から茜がそう説明した。
胡郎は「ああ」と得心いったように相槌を打つ。続いて、自分がプレイした時の記憶を元に翠に尋ねた。
「でも、あれって生き返らせる方法なかったっけ?」
「あの面倒くさいやつね」
「面倒くさいって……」
娘からの手ひどい扱いに、胡郎はショックを受けたようにそう呟いた。
それを脇目に、葵も挨拶する。
「お母さんも、おかえりなさい」
「ただいま」
卯月はそう答えた後、娘たちから彼女へと視線を移した。
「その子がクロちゃん?」
「ええ」
葵もクロに目をやりながら頷いた。
考えてみれば、クロと両親が対面するのはこれが初めてのことである。自然、皆の視線がクロに集まる。
すると、クロは隠れるように茜の背後に回った。
「何照れてんの?」
「照れとらん」
人見知りでも起こしたのだろうか。からかうように茜が声を掛けると、クロはそう虚勢を張ってやっと出てきた。
しかし、これはむしろ逆効果だったらしい。
「話には聞いてたけど、本当に可愛いわねぇ」卯月はそう言ってクロの頭を撫でる。「よしよし」
「ね? そうでしょう?」母に自慢するように答えて、同じく葵も撫で始めた。「よしよし」
その結果、どんどんとクロの髪はくしゃくしゃになり、表情もしかめっ面になっていった。
「……二人とも、そのへんにしとかないとクロが」
「ああ、ごめんなさい」
茜が止めに入ると、卯月は慌てて手を離した。
「ついついやり過ぎちゃった」
「卯月は昔から可愛いものに目がないからなぁ」
胡郎は困ったようにそう笑う。それから、気取った風な顔つきになって続けた。
「でも、一番可愛いのは君自身だよ」
「いやだわ、胡郎さんったら」
胡郎の言葉に、卯月は頬に手を当て体をくねらせていた。
だから、茜は険のあるトーンで言った。
「イチャつくな」
◇◇◇
「いただきます」
夕食の席に着いた六人は、そう言って手を合わせた。
「せっかくだから、今日はみんなの好きなものを作って、ビュッフェみたいな形式で食べようと思って」
卯月はそう前置きすると、テーブルにずらっと並べた料理を一品一品紹介し始める。
「葵ちゃんの好きなタマゴサンド、茜ちゃんの好きなカルボナーラ、翠ちゃんの好きなお寿司、クロちゃんの好きなローストビーフ、胡郎さんの好きな鯖の味噌煮……」
「色々とバランスが悪い……」
茜は思わず眉を顰める。見た目はどれも美味しそうだし、母の作ったものだから味も間違いないだろう。ただ、種類も量も多過ぎるし、何より全体としての統一感がない。
しかし、葵はそれとは別のことが気掛かりらしかった。
「せっかくの帰省なのに、作らせちゃってごめんなさい」
そう謝られると、卯月は「いいのよ。私が作りたかっただけなんだから」と微笑む。実を言えば、準備の際にも葵と茜は手伝うと申し出たのだが、その時も同じような台詞で断られていたのだった。
一方で、翠はマイペースに鯛の寿司を口に運んでいた。
「本人がこう言ってるんだから気にすることないじゃん」
「アンタはちょっとは手伝いなさい」
普段の翠の生活態度を振り返って、茜は忠告しておく。
「料理くらいできないと、嫁の貰い手がないよ」
これを聞いて、葵がからかうように尋ねる。
「お父さんは貰い手がない方がいいかしら?」
「いや、そんなことはないよ」
苦笑する胡郎。そのまま笑いながら話を続けた。
「収入は少なくてもいいから安定した職についていて、もしもに備えて再就職がしやすいように経歴が立派だったり資格を持っていたりして、経済観念がしっかりしていて老後の生活のことまできちんと考えており、誠実で浮気するようなことはなく、いつも家族のことを一番に考えているような、そんな人と結婚して欲しいと思ってるよ」
「地味に難易度高いなぁ……」
茜はそうぼやく。結局のところ、嫁がせる気などないのではないか。
次いで、翠本人から直接反論が来た。不躾にも箸でこちらを指しながら言う。
「今時、女が料理って時代でもないでしょ。あか姉は考え方が古いんだよ」
それから、翠は自身の考える理想の結婚相手について語った。
「私は、収入は少なくてもいいから安定した職についていて、もしもに備えて再就職がしやすいように経歴が立派だったり資格を持っていたりして、経済観念がしっかりしていて老後の生活のことまできちんと考えており、誠実で浮気するようなことはなく、いつも家族のことを一番に考えている上に、家庭的で料理の上手い人と結婚するよ」
「難易度更に上げてきたな」
茜は再びぼやいた。
茜に同調するように、卯月も困り顔を浮かべる。
「そんな人、なかなかいないわよね」
かと思えば、卯月はいきなり笑顔に変わって、自分の結婚相手を見た。
「私は胡郎さんと出会えてよかったわ」
「それは僕の台詞だよ」
「イチャつくな」
互いに見つめ合いだした両親を、茜は間髪入れずにそう制止した。ちょっと気を抜くと、すぐにこれだから嫌になる。
久々に家族が集まって、そんな風にいつも以上に会話が弾んだが、しかしその内に、
「…………」
と、考え込むように葵の箸が止まった。
この様子を、卯月が不思議がる。
「どうかしたの?」
「料理がいっぱい並んでるの見て思ったんだけど、そういえば今年はお花見しそびれちゃったなぁ、って」
光野家では、毎年春に近所の公園で花見をするのが恒例になっていた。昨年も、両親の転居前に、送別会を兼ねて行ったくらいである。ただ、今年は春先に両親が帰ってこなかったので、なし崩し的に花見も取りやめになっていたのだ。
それで卯月も残念そうに「そうね……」と相槌を打つと、駄目元という風に尋ねてくる。
「流石にもう散っちゃったわよね?」
「いや、最近まで寒かったせいかまだ咲いてたよ」
茜は散歩でマルタ公園に寄った時のことを思い出しながら答えた。その後、確認の意味で同行者に話を振る。
「ね、クロ?」
「うむ」珍しげに味噌煮をつついていたクロも、手を止めてはっきりと頷く。「スリジエの樹によく似ていた」
これに卯月は「そう。それなら、できそうね」と微笑を浮かべる。葵も笑みをこぼした。
事のついでのように、胡郎は質問する。
「ところで、スリジエの樹って?」
「食事中にするような話じゃないと思うよ」
いつだか聞いたことがあったから、茜は渋い顔をして忠告する。
だが、クロは構うことなく説明を始めた。
「殺傷性のある棘の生えた樹で――」
「出だしがもう不穏だ!」
胡郎がそう言うと、それで食卓に笑いが起こる。
勿論、クロも笑っていた。
◇◇◇
就寝直前――それこそ電気を消して布団に入った後で、茜は思わず声を漏らしていた。
「はー、今日はどっと疲れたなぁ……」
これを聞いて、クロは意地の悪い笑みを浮かべる。
「なかなか愉快な御両親だな」
「何か恥ずかしいなぁ」
家族の話を持ち出されて、茜は自分のこと以上に照れくさくなってしまう。それで、つい自虐するように親の愚痴をこぼしていた。
「あの二人、いつまで経っても新婚気分が抜けないんだよねー」
「夫婦仲が円満なのは悪いことではあるまい」
「それはそうだけど」
思いがけずクロの返答が真剣な風だったので、茜はそう引き下がる。
そして、今度のクロの言葉は真剣そのものだった。
「私が知らないだけで、実は父上と母上もああだったりしたのだろうか」
「…………」
以前クロに聞いた話によれば、父親とは仕事が理由でほとんど会えず、母親とは幼い頃に死に別れているのだという。だから、光野家夫妻、あるいは光野家一家を見た後では、特に思うところがあるのではないか。そう考えると、茜は何も言えなかった。
そして、クロはその思うところを口にする。
「でも、流石にあそこまでは嫌だな」
「ですよねー」
茜もそう同意した。
それからしばらくして、横から寝息が聞こえてくる。クロはもう眠ってしまったようだ。
しかし、疲れていたはずの茜はなかなか寝付けずにいた。
「…………」
暗く静かな部屋の中、茜は一人考え事に耽る。
クロとその父とは、もうずっと会っていないようだが、その理由はあくまでも仕事が多忙な為である。本当のところ、父は娘に会いたいのではないだろうか。今日再会した自分の両親の嬉しそうな様子を見ていると、茜はそんな気がしてならなかった。
また、茜も今日両親と再会できて嬉しかった。家族関係は人それぞれだというのは重々承知の上だが、やはりその結びつきというのは強いものなのではないか。
だから、茜が親に会いたかったのと同じように、おそらくはクロも――