3 銭湯へ行こう!②
翠が珍しくゆったりした口調で感想を漏らす。
「あったかいねー」
葵も気の抜けたような声でこれに同意する。
「そうねー」
開放的な広い浴槽に、なみなみと張られたたっぷりのお湯。『辰の湯』の湯船につかって、二人はすっかり寛いでいる風だった。
その傍ら、クロも静かで落ち着いた様子だった。
「…………」
しかし、ただ単純に寛いでいるわけでもなさそうだった。クロは黙ったまま、ひたすら浴室の壁を見つめていたのだ。
その行動を不思議に思って、茜は声を掛ける。
「どうかした?」
「面白い趣向だなと思って」
クロの言葉に後ろを振り返り、茜も「ああ」と気付く。浴室の壁にはペンキ絵――日本の名所の風景画が描かれていたのだった。
これに関心を持ったようで、クロが尋ねてくる。
「こうして絵を飾るのは、銭湯ではよくあることなのか?」
「そうじゃないかな。絵柄は違うかもだけど」
茜も詳しくは知らないが、そういう話は聞いたことがあった。『辰の湯』のペンキ絵は一般的な題材を用いているが、それでも構図などに様々なパターンが存在しているはずである。
クロは重ねて尋ねてきた。
「それで、これは一体何という山だ?」
「富士山だよ」
茜の返答を聞いて、クロは「そうか」と得心いったような顔をする。
「これが件の日本一高山か」
「それつけたのアンタだからね」
茜はそう訂正した。
これもクロが人間界に溶け込む為に必要なことだろう。茜はそう考えて、知識の限り富士山について説明を始める。
その裏で、翠たちの会話も続いていた。のぼせたようなボーっとした表情を浮かべる葵を見て、翠は改めて言う。
「あお姉はお風呂好きだよね」
「そうねー」
葵は締まりなくそう答えた。
続けて翠は質問する。
「何がいいの? リラックスできるから?」
「そうねー」
葵の返事を聞いて、翠はからかうように笑う。
「でも、あお姉って普段からぼんやりしてるじゃん」
「そうねー」
翠はこれに文字通り閉口すると、無言で葵を睨んだ。
「…………」
「そうねー」
◇◇◇
唐突に、翠が湯船から立ち上がった。
「飽きた」
まだ言うほどには入っていないはずだがそんな宣言をする。シャワーだけでは嫌だと駄々をこねたのは誰かと、茜は小言の一つも言いたくなる。
しかし、翠に反省する様子はなかった。近所に遊びに誘うような口振りで尋ねる。
「クロ、サウナ行かない?」
魔界にはないのだろうか。クロは怪訝な顔をしていた。
「さうな?」
「すごく蒸し暑い部屋でね」
翠は訳知り顔で解説する。
「このサウナに長く入っていればいるほど偉いんだよ」
「また偏見を……」
クロが銭湯について誤解しやしないかと、茜は渋面を作った。
姉の言うことは無視して、翠は話を続ける。今度はまるきり遊びの誘いだった。
「だから、どっちが長く入っていられるか勝負しよう」
「いいだろう」
受けて立つとばかりに、クロも立ち上がった。
そうして対抗意識を燃やす二人に、葵は事前に注意する。
「あんまり無茶しないようにねー」
これに、クロは「うむ」と、翠は「あお姉もね」と、それぞれ赤い顔の葵に答えて、サウナ室へと入っていった。
のぼせているのか、リラックスのし過ぎなのか、普段より間延びした調子で葵が尋ねてくる。
「どっちが先に出てくると思うー?」
「うーん、どっちだろ……」
茜は少し悩んだ。
翠はサウナが苦手なようで、入った次の瞬間に出てきたという笑い話がある。ただし、今より更に幼かった頃のことなので、どこまで判断材料として信用していいかは分からない。
対するクロの実力はもっと未知数だった。堪え性のない翠よりずっと辛抱強そうだが、初体験というハンデは想像以上に大きいのではないか。
こうして整理してみると、両者共に一長一短で、勝敗予想はなかなか難しそうである。
それで茜は閃いた。
「そうだ。せっかくだし、私たちも賭けで勝負しようか。負けた方が明日の洗い物を全部やるとかどう?」
「いいわよー」
葵が面白がって承諾したのを見て、茜は改めて考え始める。
「それじゃあ、私は――」
と、その時、サウナ室のドアが開いた。
「あっちー」
「早っ!」
もう飛び出してきた二人に、茜はそう叫んだ。
◇◇◇
「初銭湯はどうだった?」
風呂上り、休憩室で翠がそう尋ねた。
「単に湯船が大きいだけでなく、壁に豪壮な山容が描かれていたり、サウナや電気風呂などが併設されていたり、様々な趣向が凝らされていて興味深かった」
クロは相変わらず、要人の視察のような答え方をする。気に入ったらしいことは確かなので、茜はその点では安堵していたが。
「そうでしょう?」
クロの反応に、翠は上機嫌という表情になる。
「平たい顔族の偉大な発明だよ」
「平たい顔族って、アンタもそうでしょ」
他人事のような自慢げなような翠の言い草に、茜は呆れてそう反論した。日本人を偉大と言うなら言うで、翠にもそれにふさわしい言動を取ってもらいたいものである。
そんな姉を見て、翠は言った。
「あ、平たい胸族だ」
「だから、アンタもそうでしょうが!」
茜は今度、怒りを込めて反論した。
そんな二人のやりとりを耳にして、クロが突然声を上げる。
「そうだ、牛乳!」
それから、毒されたようなことを口走った。
「入浴後は何とか牛乳を飲むことが推奨されているんだったな?」
「……まぁ、いいけど、今の話の流れで思い出すのはどうなの」
ぶつくさとそう文句を言った後、茜は仕方なしに受付へ向かった。
「フルーツ牛乳二本ください」
コーヒー牛乳と迷ったが、より甘くてクロ好みではないかと考えて、茜はフルーツ牛乳を選んだ。これが正解だったようで、「美味しい?」と聞くと、「うむ」とクロは頷いた。
茜に続いて、教えた当人である翠も注文を行う。
「アイスココアを一つ」
「!?」
クロは物凄い速さで翠の方を振り返っていた。
なかなか風呂から上がりたがらなかった葵も、遅れて脱衣所から出てくるとフルーツ牛乳を注文する。
汗をかき、また火照った体には、冷えた牛乳がぴったりだった。それで四人はそのまま休憩室でしばし寛ぐ。
その最中、クロがポツリとこぼす。内容はまた毒されたようなことだった。
「裸の付き合いで、気持ちを一つにか……」
そう教えた当人である葵は、微笑を浮かべながら尋ねる。
「なったかしら?」
これに、三人はそれぞれ異口同音に答えた。
「なったといえばなったな」とクロ。
「なったかもね」と茜。
「なったなった」と翠。
そして、最後に三人は声を揃えて言う。
「巨乳死すべし」
「そんな……」
葵はショックで唖然としていた。