2 銭湯へ行こう!
「うーん……」茜は渋い顔をする。
「困ったわねぇ……」葵も眉じりを下げていた。
夕食後、リビングでクロとレースゲームをしていた翠は、そんなことを言い合う二人を見て、一旦勝負を中断する。
「どうかしたの?」
「お風呂の調子が悪いみたいで、お湯が沸かないのよ」
葵がそう説明した。
自動湯張りで風呂の用意をしたつもりが、実際に出来上がったのは水風呂だった。どうも給湯器が故障したようで、浴槽の循環口からは水しか出てこなかったのである。
だから、明日業者を呼んで修理してもらうとして、今夜はどうしようか二人は話し合っていたのだ。
「コンロでお湯沸かして浴びる?」
考えた末の茜の提案に、翠が真っ先に文句をつける。
「えー、寒いのにシャワーだけ?」
「そんなこと言われてもさぁ」
四月に入っても、まだ春とは言い難いような寒さが続いていた。特に夜の冷え込みは、冬のそれと変わらない。茜だって風呂に入れるものなら入りたかった。
「あ、そうだ」
名案を思いついたとばかりに葵は手を打つ。
「それじゃあ、銭湯に行きましょうか」
これに、翠は「おー」と驚きの声を、茜は「あー」と納得の声をそれぞれ上げていた。
「セントウ……」クロは人間界に関する知識を振り絞る。「確か、公衆浴場のことだったな」
「ええ」
頷いてから、葵は詳しい説明に入った。
「日本では、みんなで一緒にお風呂に入って裸の付き合いをすることで、気持ちを一つにするっていう文化があるのよ」
「そういう偏った知識を植えつけるのはどうかと」
茜がそう注意する。
にもかかわらず、翠は補足するように続けた。
「入浴後は水分補給の為に、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳を飲むことが強く推奨されているんだよ」
「偏ってるどころか、かなり誇張されてるから」
茜は再び注意した。
◇◇◇
「相変わらず人いないなー」
脱衣所の中を見回しながら、翠は不躾な感想を口にする。
「これ儲かってんのかね?」
「コラコラ」
茜はそうたしなめた。
日常的に利用しているわけではないから確かなことは言えないが、茜たちが来店する時、銭湯『辰の湯』は毎度のように空いていた。そもそも比較的近所の光野家ですら大して利用していないというのが、客入りの少なさを物語っているのではないか。経営しているのが老夫婦ということも考えると、道楽でやっているのかもしれない。
服を脱ぎながら葵は言う。
「貸切みたいでいいじゃない」
「それはそうだけど」
同じく、服を脱ぎながら翠は返答した。
そんな会話の途中、翠の顔が硬直する。
「……あか姉何やってんの?」
まだ膨らみの小さな、未発達な体のライン。反対に、光を照り返すような艶かしい褐色の肌。その肌は全身隈なく、普段は秘されている部分にまで伸びており――
茜はクロの裸を凝視していたのだった。
翠の質問に、茜は慌てるでもなく答える。
「刺青禁止だから、一応チェックしといた方がいいかと思って」
「ああ、そういうことかー」
合点がいくと、翠はほっとしたような声を漏らす。
「私はとうとう性犯罪に手を染めたのかと」
「とうとうって何だ、とうとうって」
姉にどんなイメージを持っているのかと、茜は翠を睨んだ。
異文化ということだろう。このやりとりにクロは疑問符を浮かべていた。
「刺青が入っていると何かまずいのか?」
「日本では、刺青というと犯罪者やそれに近いイメージがあるのよ。だから、他のお客さんが怖がったりしないように、入浴を断ってる場合が多いの」
葵がそう解説した。
翠と茜が「あか姉は入れないの?」「誰が性犯罪者だ」と言い合う間にも、葵は話を続ける。
「最近は外国人のお客さんが来るし、日本人もファッションで入れる人が増えてきたから、そうじゃない銭湯も出てきたけどね」
説明を受けてクロは言う。
「となると、体に特有の模様がある魔族も、刺青を入れていると思われて怖がられてしまうかもしれんな」
「それは魔族の時点でアウトなのでは」
茜は思わずツッコんでいた。
その後で、茜は内心安堵もする。クロが魔族だとバレる可能性は、今日について言えばまずないからである。
しかし、茜が内心で留めた安堵を、翠は平気で口に出していた。
「そういう意味じゃあ、今日も人がいなくて良かったね」
「コラコラ」
◇◇◇
「ほう……」
浴室を一目見て、クロはそう声を上げていた。
『辰の湯』は客入りこそ少ないが、その設備は決して他店に劣るものではない。水風呂、電気風呂、ジャグジー…… 通常の風呂だって、家のものに比べればずっと大きかった。
特にクロにとっては初めての銭湯である。それだけに、驚きや感動を覚えているようだ。
と思いきや――
「なかなかの大きさだな」
「さすが魔王様」
上から物を言うクロを、茜はそう讃える。この程度の大きさの風呂は、クロにとっては見慣れたもののようだった。
これに、葵が横から声を掛ける。
「気に入った?」
すると、途端にクロから先程までの冷静さが吹き飛んだ。目は見開かれ、頬は紅潮し、すっかり興奮を覚えているようだった。
それは声を掛けてきた相手が相手だったからである。
「で、でかい」
葵の胸を見ながら、クロはそう答えた。
クロが何に対して「でかい」と驚いたのか、言われた本人は全く気付いていないらしい。葵は満足げに続ける。
「ふふ、びっくりだったかしら?」
「ああ、大きいとは思っていたが、まさかこれほどとはな」
冬服を着込んでいても分かるような、豊かな体つきをしているのだ。裸になれば、その豊かさが一段と強調される形になる。クロの視線は完全に葵の体に奪われてしまっていて、もはや銭湯どころではない様子だった。
翠は平らに等しい自分のそれに目を落とす。
「同じ姉妹なのに、何でここまで差がつくかなぁ」
「私を巻き込まないでよ」
同世代の中でなら私は普通、と茜は自分に言い聞かせた。
◇◇◇
四人は湯船の前にまず洗い場に向かう。その際に、茜が切り出した。
「クロ、背中洗ってあげようか」
「いいのか?」
「うん。代わりに、次は私の番ね」
「分かった」
クロがそう頷くので、茜は早速作業に取り掛かった。
そんな二人の様子を、葵が横から羨ましそうに見つめていた。それで彼女も妹に声を掛ける。
「翠ちゃん、翠ちゃん、私たちも洗いっこしない?」
だが、提案された方の反応は、茜たちの時とは真逆だった。
「えー、やだよ」
翠はあっさりとそう断る。
「洗う面積大きくなるんだから、私にメリットないじゃん」
「メリットって……」
葵は言葉を失っていた。
それから二人は、「あのね、メリットとかデメリットとかじゃなくて、こう心の交流的なものをね」「はいはい、もう分かったから」とそんな会話をして、結局翠が折れることになったのだった。
片や、既にクロの背中を洗い始めていた茜は、その美しさに改めて感嘆を覚えていた。水に濡れた褐色の肌は、一層てらてらと輝いて官能的でさえある。更に実際に触れてみると、その感触は柔らかくなめらかで、手にしっとりと吸いつくようだった。
一方、洗われる側のクロは、こんな感想を口にしていた。
「こうしていると、何だか魔界にいた頃を思い出すな」
これを聞いて、茜は思わず尋ねる。
「洗ってもらってたの?」
「うむ」
懐かしむように、ゆっくりとクロは頷いた。
茜はこれまでのクロの話を思い返しながら考える。その洗ってもらった相手というのは、父親か、兄弟か、それとも死んだ母親か……
しかし、クロの返答はそのどれでもなかった。
「侍従たちにな」
「他人を侍従扱いするな」