4 身体/体力/知能測定
「ふー……」
一息つくクロの声が、茜の耳に入った。
昼食後、茜の部屋で二人はそれぞれの勉強を行っていた。茜は中一の総復習となる春休みの宿題を進め、クロは先日買ったばかりの理科の教科書を読んでいたのだ。
ちょうど自分も一区切りついたところなので、茜はクロに声を掛ける。
「ちょっと休憩しようか?」
「うむ」
そう頷くクロ。それで二人は一緒にリビングへ向かった。
リビングでは翠が一人、だらだらとバラエティ番組を視聴していた。最前までやっていたのか、コタツの上には携帯ゲーム機が置いてある。
茜は続いてキッチンの方に視線をやる。しかし、ここにも葵の姿はなかった。
「お姉ちゃんは?」
「晩御飯の買い出し」茜の質問に、翠はテレビに目をやったまま答える。「今日はシチューだって」
茜は「へー……」と思案顔で相槌を打つ。自分の記憶違いかもしれないが、何か足りない材料があっただろうか。
「何を買うか聞いてる?」
「えっと、確か……」
そう前置きすると、翠は指折りしながら諳んじる。
「ひき肉と、たくあんと、しおからと、ジャムと、にぼしと、大福と……」
「本当にシチュー作るって言ったんだよね?」
茜は思わず確認を取っていた。
それから翠の話を受けて、茜はこんなことも口にする。
「でも買い出しに行ったんなら、ついでに布団も買ってこないかなー」
クロの生活必需品を揃えにデパートに行った時、ずっと何かを忘れているような気がしていたのだが、布団を買うのを忘れていたのだった。食品の買い出しなら行き先は近くのスーパーに違いないから、そんなついではありえないだろうが、茜はつい期待してしまう。
そんな茜の呟きを聞いて、翠は意地悪く笑う。
「一緒に寝れてよかったじゃん」
「よくない」
茜は言下に否定した。
やはり葵が奇跡的な天然ボケを起こして布団を買ってこないかと、そんなことを考えながら茜はキッチンに立つ。リクエスト通りクロにはココアを、甘いものの気分ではなかったので自分にはそのまま牛乳を用意した。
そうして飲み物で一服して、二人は休憩を取る。その最中に、茜は休憩ばかりという様子の妹を尋問した。
「で、翠は春休みの宿題は終わったの?」
「もうちょっと」
「この前聞いた時もそう言ってなかった?」
「じゃあ、もうほんのちょっと」
不安になる言い草だった。果たして新学期に間に合うのだろうか。あまり口うるさいことは言いたくなかったが、それでも茜はやんわりと注意する。
「学校始まるまでに、ちゃんと終わらせときなさいよ」
「はいはい」
翠はおざなりにそう返事をすると、逃げるように話題を逸らした。
「そういえば、魔界にも学校ってあるの?」
「あるにはあるが、正直なところ、あまり機能しているとは言いがたいな」
思いつきのような質問だが、答えるクロはあくまで真面目だった。
「富裕層は個人で教育係や家庭教師を雇うし、貧困層は幼い頃から働きに出るからな」
魔王というからにはクロは富裕層の方だろう。そう思って、茜は確かめる。
「じゃあ、クロも?」
「ああ。私も学校には行ったことがない」
行ってみたいのだろうか。そう答えた後、クロは一層声のトーンを落としていた。
「人間界が羨ましいな」
しかし、現実的に考えて、クロが学校に通うのは難しいだろう。
書類関係はどうにかするとしても、実際の学校生活が問題になってくる。人間界の常識に疎いクロが、上手く正体を隠したまま毎日を過ごせるだろうか。外国人転校生という外面で余計に注目を浴びそうなことも考慮すると、露見する可能性は相当に高いのではないか。
人間界を羨むクロは、憂いを帯びた表情のまま続ける。
「まさか、ここまで教育制度を充実させられているとはな」
「あー、そっちかー」
相変わらず魔王視点、為政者視点に立って物事を考えるクロに、茜はホッとしたような、気の抜けたような心持ちになった。
そんな話をしている内に、茜はふと視線を感じて翠の方を見る。
「何?」
「いや、学校始まったら身体測定があるなぁ、と思って」
その言葉に、茜は隠すように腕で胸を覆った。
「言っとくけど、お姉ちゃんがおかしいだけで私は普通だからね」
「まだ何も言ってないじゃん」
「〝まだ〟って言う気はあったの?」
翠に限っては言葉じりとは思えないので、茜はついそう問い質していた。
この話題に、ワンテンポ遅れてクロが反応する。
「ああ、胸の話か」クロは得心いった顔をすると、他人事のように尋ねてきた。「人間界では大きい方がいいのか?」
「まぁ、基本的にはそうだよ」
そう答えた後、クロの「人間界では」という言い方が気になって茜は尋ね返す。
「魔界にはそういうのないの? 背が高い方が格好いいとか、角が大きい方が可愛いとか」
「魔族は人間より姿形が多様だからな。嗜好も多様化していて一概には言えん」
これを聞いて、翠もクロに質問する。
「じゃあ、クロみたいなちんちくりんでもモテたりするんだ?」
「…………うむ」
「あ、嘘だ」
いやに長く空いた間から、翠はそう判断した。
翠はまた、再び茜の方へと視線をやる。
「あと、胸もそうだけど、身長も欲しいなぁ」
茜の頭頂部の位置に合わせた手を、翠は自分のそれに持ってきて身長を比較する。年が三つも離れている上、翠が同年代の中で小柄な側ということもあり、結構な差があった。
有言実行するように、茜はコップを手に取って言う。
「牛乳を飲みなさい、牛乳を」
「ベタだなぁ」
「でも、他に何かあったっけ?」
「えーっと……」
翠は返事に迷うと、コタツの上に置かれたスマートフォンを手に取る。
「じゃあ、ちょっと調べてみる」
そう言って、生意気にも――と感じるのは、茜は中学に入るまで買ってもらえなかったせいだが――慣れた手つきで検索を始めた。
それを尻目に、茜は話を続ける。
「ああ、ヨーグルトは?」
「それ牛乳の範疇でしょ」
「じゃあ、チーズ」
「だからさー」
呆れたように翠は反論した。
これに、横からクロが口を挟む。
「そういえば、身長を伸ばすには、エスト地方のグランの実がいいと聞くな」
「それは初耳だわ」
翠はそう答えた。
茜とクロが「グランの実って何?」「こう、赤くて、トゲトゲした殻に覆われていて……」などと喋っている間に、検索結果が出たようだった。
「あー、あったあった」
そう言ってから、翠は内容を読み上げる。
「何かバナナがいいみたいだよ」
「バナナかー」茜はローソファから立ち上がると、キッチンへと向かう。「ちょうど買ってあったよね」
次いで、翠は他のものも挙げていく。
「それから、納豆、ひじき、切干大根……」
そして、そこまで読み上げると不満げな顔をした。
「これさー、子供に好き嫌いさせない為に、わざとまずいもの挙げてない?」
「単に好き嫌いは体に良くないって話じゃないの」
翠の偏食を直すのに、ちょうどいい機会だろう。茜が冷淡にそう答えると、翠は「えー」と余計に不満を募らせたような声を出した。
翠の読み上げは更に続いた。
「あと、食べ物じゃないけど、骨を刺激するとかでジャンプするのも効くんだって」
バナナを片手に、茜は今までの話を反芻するように思い返す。
「バナナ、ジャンプ……」
その結果、頭に閃くものがあった。
「じゃあ、こういうのはどう?」
◇◇◇
スーパーでの買い物を終えて、葵は家に帰ってきた。
他の家族は全員リビングに集まっているようだ。三人の声が玄関からでも聞こえてくる。
一体、何の話で盛り上がっているのだろう。自分も早く混ざりたくなって、葵はリビングに続くドアを開いた。
「ダメだなぁ」と茜。
「もう少しなんだがな」とクロ。
「ていうか、あか姉が無理なら全員無理じゃないの?」と翠。
その光景を、葵は理解しかねていた。
「…………?」
リビングには、天井から紐でぶら下げられたバナナに向かって、ひたすらジャンプを繰り返す三人の姿があったのだった。
こちらに気付くと、茜は「おかえり」と挨拶した後で誘ってくる。
「お姉ちゃんもやる?」
「え、ええ」
戸惑いながらも葵はそう頷いた。
自分は「お姉ちゃん」なのだ。姉として三人の手本とならなくてはいけない。
葵は実演しながら妹たちに説明する。
「こうやって、棒と台を使えば取れると思うんだけど」
「違う、そうじゃない」
三人は声を合わせてそう言った。