1 マイマイカブリ?
「お姉ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど……」
夕方、帰ってくるなり玄関でそう話を切り出した妹に、光野茜は次のように答えた。
「ダメ!」
「早っ!」
とりつくしまもない返答に、妹の翠はそんな声を上げる。それから、なお食い下がった。
「話聞くくらい、いいじゃん」
「ダメダメ」
問答無用と、茜は切り捨てるように言う。
「アンタが私のことを〝お姉ちゃん〟って呼ぶ時は、大体ろくでもないお願いをする時って決まってるんだから」
「むー」
〝お姉ちゃん〟の反論に、翠はふくれっ面をした。
進級間近の小学四年生だから胸がないのは仕方ないとしても、翠は背丈も同年代と比べてやや小柄である。だから、中一の茜とはそれなりに身長差があった。
しかし、今日はその身長差を活かすように、翠は上目遣いをする。普段はいかにも生意気そうな、切れ上がったような目をしているはずが、やたらにしおらしく、また可愛らしく見える。
「話を聞くくらいならいいでしょ、お姉ちゃん」
今はまだ春休み――三月末である。今年は冬将軍が粘闘している影響もあって、夕方ともなると冷え込みが厳しい。玄関の戸口でいつまでも押し問答を続けるような季節ではないだろう。
だから、決して妹の媚態に惑わされたわけではないのだ。と、そう自分に言い訳して、茜は引き下がる。
「……じゃあ、聞くだけ聞いてあげる」
だが、こうして茜の了承を得たにもかかわらず、翠は何故か言いよどんでいた。
「何ていうか、その……」
姉に対して効果的だと思ったのか、それとも単に言い出し辛い用件なのか。翠はしおらしい態度のまま続ける。
「ある生き物を拾ってきたんだけど……」
「その生き物をうちで飼いたいのね?」
「う、うんっ」
話を継ぐような茜の言動に希望を感じたらしい。翠の顔がパッと明るくなる。
これに、茜はこう答えた。
「はい、ダメー」
そして、念を押すように、こういう時のお決まりの文句を言う。
「今すぐ元の場所に返してきなさい」
またもやあっさりと却下されたせいだろう。翠は「く、くそう」と悔しげな表情を浮かべると、先程までの可愛い子ぶったうわべを捨て去った。
「あか姉のケチっ」
「何とでも言いなさい」
「アホ、バカ、マヌケ、オタンコナス、人間の屑、貧乳」
「本当に言う奴があるか」
茜は思わずそう抗議していた。
また、言われっぱなしは気に入らないと、応戦するように説教を始める。
「生き物だよ? 命があるんだよ? それを飼うっていうことがどういうことなのか、翠は分かってないでしょ」
そういう意味で翠には前科がある。だから、茜の口調はだんだんと愚痴をこぼすようなトーンに変わっていった。
「いっつもすぐに飽きて、私が世話することになるんだから」
一方、対する翠の口調は、ごく淡々と事実を答えるような風だった。
「別に飽きたわけじゃないよ。ただ、一番文句言ってたはずのあか姉が、なんやかんや一番気に入ってノリノリで世話しだすから、私のやることがなくなるだけなんだよ」
「…………」
「ミケの時も、シロの時も、ハト子の時も、バッ太郎の時も――」
「そ、それは今関係ないでしょ」
指折り数え始める翠を見て、薮蛇だったと茜は慌てる。そういえば、一時期は怪我を負った蛇を『ミーちゃん』と名付けて保護していたこともあった。あの時も散々「飼う」「飼わない」で揉めたが、結局は翠の言うような顛末を辿ったのだった。
形勢が不利になったのを感じて、茜はもう一度繰り返す。
「とにかくダメなものはダメだから」
これを聞いて、翠も対抗するように同じ台詞を繰り返してきた。
「あか姉のケチっ」
「何とでも言いなさい」
「アホ、バカ、マヌケ、貧乳、ペチャパイ、まな板、絶壁」
「胸を重点的に攻めるのはやめろ」
つい隠すように、茜はさっと胸を腕で覆っていた。
「胸ならアンタの方がないでしょ」「私はまだ伸びしろがあるもん」「そんなの私だってあるよ」と、そんな二人の不乳な、いや不毛な言い争いは、第三者にまで届いていたらしい。家の中からもう一人が現れて、話に加わる。
「どうしたの? 玄関で大きな声出して」
「あっ」
二人は同時にそう声を上げた。
「お姉ちゃん」と続ける茜。
「あお姉」と続ける翠。
話に加わったのは、長女の葵だった。
年齢は翠(小四)の三つ上の茜(中一)の、更に三つ上の高校一年生。しかし、身長は茜より四つ五つ上だろう。今し方話題になっていたばかりの胸囲について言えば、数えるのに両手が必要なくらいに差がついてしまっていた。
また体つきと同様に、葵は顔つきにももう大人びてきたようなところが見受けられる。もっとも、垂れがちの目だけは若干頼りなさも感じさせるが。
「翠のやつが、また何か飼いたいとか言い出してさー」
見た目はともかく年長者である。分かってくれるだろうと、茜はそう不満をこぼす。
対照的に、翠は媚びるような甘い声を出していた。
「お願い、お姉ちゃん」
この妹二人の主張に対して葵は、
「いいわよ」
と、翠の方を見て微笑した。
全く、翠も翠だが、葵も葵である。茜の不満は溜まる一方だった。
「えー」
「いいじゃない、それくらい」
「いや、良くないでしょ」
妹のわがままに流されるばかりの姉を、茜が注意する。
「お姉ちゃんは翠に甘過ぎるんだよ」
「私は茜ちゃんにも甘いわよ?」
「否定するのはそこじゃないから」
どういう訳か真面目な顔で反論してくる葵に、茜はそう言い返した。その手の返答を期待していたわけではない。
とはいえ、葵が自分にも甘いのも事実ではある。
「でも、ありがとう」
「どういたしまして」
茜の返礼に、葵は満面の笑みで答えた。
妹たちへの分け隔てない愛情を示せて満足したらしい。葵は話を本題に戻す。
「それで、翠ちゃんは何を飼いたがってるの?」
「えっと……」
口ごもってしまう茜。その理由を説明するかのように、翠が代わりに答えた。
「まだ言ってない」
「…………」
茜は完全に黙り込んでしまう。これは流石に失策だったのではないか。
案の定、葵の表情にも険が差していた。
「茜ちゃん、そう頭ごなしに否定しないで、話だけでも最後まで聞いてあげたら?」
この発言に、翠が「ふふーん」と勝ち誇る。逆に、茜は「ぐぬぬ」と唇を噛んだ。
「分かったよ」
確かに何でもかんでも「ダメ」の一言で片付けたのは良くなかったかもしれない。反対の立場を変える気は更々ないが、葵の言うことにも頷けるところはある。
それだから、茜は改めて尋ねた。
「で、何拾ってきたの?」
「ま……」
「ま?」
何故か今度も翠が言いよどむので、茜は「ま」から始まる生き物を思い浮かべてみることにする。マントヒヒ、マングース、マナティ、マンタ…… どれも日本で拾えるような生き物ではない。ありえないだろう。
しかし、翠が口にしたのは、もっとありえない生き物だった。
「魔王」