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case101号室『誰にも言わないで』

 これは、僕らが裏野ハイツに調査の名目で入居して、一週間ほどたった時の話だ。


 毎日起こるラップ音に辟易しながらも、僕らは気を抜くことなくあの白づくめを追い返していた。

 しつこい輩は、僕らの心に慣れや緩みが生まれるのを待っている。そう感じられたからだ。

 そんな中で僕とメリーは、ヤマもオチもない日常を過ごしていく。蓋を開けてみれば、あまりにも自然に僕らは生活を共にしていた。味噌汁に入れる豆腐を巡って戦争が起きたり。ベッドが一つしかないから布団を買ってこようと提案したら、その日の夕食がオクラのフルコースだったり(僕はオクラが苦手)。バイト上がりにお風呂に行こうとして、今まさに服を脱ぎかけたメリーに遭遇する。なんてベタベタなイベントがあったりと、色々あれども、基本的には概ね穏やかな日々だったと言っていいだろう。

 朝起きて、顔を洗ったら日課になってる軽い筋トレとストレッチで身体を動かして。程よく眠気が覚めたら交代制……時々一緒に準備する朝御飯を堪能し。その後はアルバイトに駆り出すか、二人揃って読書に勤しむ。

 片方がいるときはそれなりに手の込んだ。いないときは適当に作る昼食を経て、午後は気分によっては出かけたり、サークル活動の計画を練る。また読書になることもしばしば。

 日が沈んだら買い出しへ。夕食の後は見張りを立てつつお風呂に入り、ラップ音を退け、二人揃ってベッドに入る。微妙に非日常が入り混じった一夏限定の新生活はそんな感じに過ぎていく。

 そんな中で今日はというと……。


「辰兄ぃ、遊べ」

「あそべ~」


 日曜日午後のおやつ時。元気よく叩かれた203号室の扉を開けると、そこには活発そうな瞳に黒髪短髪の男の子と、ふわふわした栗色のショートヘアに、垂れ目が印象的な女の子が並んで立っていた。


「ああ、幹太(かんた)君、(こずえ)ちゃん、いらっしゃい」


 僕の出迎えに、二人の笑顔が花開く。二人とも近所に住む小学生で、近くのデパートで揃って迷子になっていた所をメリーと一緒に保護したら、妙に懐かれたのが縁の始まりだった。

 僕らが自宅から近いとこに住んでいるのを知るや、こうして度々遊びに来るようになったのだ。……主に裏野ハイツのそれなりに広い庭地でボール遊びをするのと、メリーの作るおやつを目当てに。


「メリー姉ぇは?」

「メリーはぁ?」

「台所でホットケーキ焼いたとこだよ。食べるだろう?」

「食べるっ!」

「たべりゅっ!」


 ドタドタとリビングに上がり込み、二人はそのまま台所のメリーに突撃する。

 エプロン姿で両手を広げ、子ども二人をふんわりと受け止めるメリー。花咲くような笑みを見ていたら、幼稚園の先生とか似合うんじゃないか。なんて電波を受信して、想像した僕が一人で身悶えていたのは……内緒である。


「手、ちゃんと洗うこと。いいわね?」

「わかった!」

「はーい」

「うがいもしようか。そうしたら生クリームをつけよう」

「よっしゃ!」

「わーい!」


 嵐のように洗面所に走る子ども二人を見送って、僕らは顔を見合わせるなり、少しだけ吹き出した。ここ数日は、こんな光景が日常になりつつある。それが何だかくすぐったかったのだ。


「今日はサッカーかしら?」


 玄関に放置された白黒のボールを見ながら、メリーが呟く。

 ゴールも何もないから、ドッジボールの可能性もあるが、どちらにしろ、おやつから日が沈むまではお相手するのだろう。もっとも、故郷の妹を思い出して悪い気はしないし、どうせ今日は予定もない。ただ……。


「暑いんだよなぁ……夏だし」


 どちらかといえばインドア派な僕には、わりとこの暑さが深刻だったりするのである。


 ※


 塀で囲まれた裏野ハイツの敷地面積は、実はそれなりにある。

 入り口の門からハイツまでの丁度間にちょっとした公園を狭くしたような空き広場と、申し訳程度の梅林があり、遊び場なり、憩いの広場に出来なくもない。正直……公園に駆り出した方が絶対にいいとは思うけど。ここを使うのは一重に僕らそれぞれの家が近いからなんて理由だけである。

 そんな訳で、僕らと幹太君梢ちゃんの遊び場と化したそこにて、今日も童心に返り、僕らは走り回る。事故物件の調査は? と言われたらなかなかに痛いのだが、肝心の手がかりが夜に来る白ずくめ以外になく、メリーのアンテナも無反応。周辺での事件も、ハイツの経歴も調べたが、ピンと来るものもなし。八方塞がりだ。つまりもう、夏休みを満喫するしかないという事だ。

 因みに競技はまさかのラグビーだった。炎天下の元でひたすら幹太君のタックルを受け止めたり、キックで放たれたボールをキャッチしたりと、なかなかにハードな午後を過ごす。

 一方のメリーと梢ちゃんは「女の子ですから~」と、梅の木の陰にシートを敷いて花遊び。涼しげで羨ましい限りである。


「OK、幹太君。少し休まない?」

「え~しょうがねぇなぁ」


 エネルギーがまだ有り余ってるらしい幹太君だったが、僕の方のギブアップ宣言に、しぶしぶ了承する。それにホッとしながらメリー達の方へ戻れば、二人はこちらに背を向けてしゃがみ込んでいた。


「メリー?」

「梢? 何やってんだよ?」


 僕らが近づいても未だそのままで、何かをまじまじと見る二人。何だろう? と、僕と幹太君が顔を見合わせながら二人の背中越しに覗いてみる。そこには……。


「ニィー」


 高い間延びした可愛らしい鳴き声。黒い小さな猫が、梅の木の根本でゴロゴロと喉を鳴らしていた。


「かわいい……」


 目を輝かせながら、食い入るように猫を見つめる梢ちゃん。その視線は僕やメリーにチラチラと向けられている。


「梢ちゃん?」

「飼いたい。辰くん。ダメ?」

「……い、いや。僕に言われても……ねぇ?」

「メリーはぁ?」

「うん、私より、お母さんに頼んでみましょう?」

「うぅー……」


 僕らの返答に、梢ちゃんは唇を尖らせながら項垂れる。すると横から幹太君が、「梢の母ちゃん、猫ダメだって言ってた」と困ったような顔で僕に耳打ちする。……ああ、そういう事か。何となく察した僕は、さてどうしたものかと首を捻る。隣を見れば、メリーも少しだけ複雑そうな顔で猫を見ていた。

 首輪もない。多分野良猫だろう。身体がまだ小さいので、親猫でも近くにいそうなものだが、生憎とその影も見えない。「お母さん猫、いないのかな……?」と、梢ちゃんが不安げな声を出したその時だ。

 不意に黒猫は、ピンと両耳を立て、脱兎のごとく駆け出した。

 稲妻のような早さに、僕もメリーも。幹太君や梢ちゃんも反応が遅れてしまい……。


「あっ……ま、待って! どうしたの?」

「お、おい! 梢!」


 最初に反応したのは梢ちゃん。続けて幹太君が慌ててその後を追い掛ける。一瞬身体が強張った僕らだったが、その行く先がハイツの出口ではなく、ハイツの方へと入り込んでいくのをみて、取り敢えず安堵した。車道に万が一飛び出されでもしたらと考えればぞっとする話である。

 猫を追い掛けていく少年少女の背を見ながら、僕とメリーは少しだけ緩慢に立ち上がる。


「凄く小さい頃、猫を拾って帰ったのを思い出したよ。飼えなかったんだけどね」

「あら、動物は厳しかったの? それとも、家族に猫アレルギーがいたとか?」

「……その猫が幽霊だって気づかずに連れて帰っちゃったんだ。あの日の父さんと母さんの目は……今でも忘れられないよ」


 幼少期の黒歴史という奴だ。顔をひきつらせたメリーに苦笑いを返しながら、僕は二人の後を追おうとし……。その姿が、猫もろとも忽然と消えているのに気がついた。


「おっと、いけない。早く連れ戻そう。確かハイツはペット禁止だし、変な揉め事があっても困るしね」

「猫は……どうするの?」

「……追い付いてから考えようか。今は上手い折り合いが思い付かないよ」


 僕が少しだけ小走りになると、そこへメリーが並走する。時間にして数十秒。僕らはあっという間に裏野ハイツにたどり着き……そこで思わず眉を潜めた。

 ハイツ側に行けば、外に出ることは叶わない。つまり必然的に、そこで二人と一匹は見つかる筈だったのだ。だが、僕らが見たのは水をうったかのように静まり返った共用玄関と……。


 半開きの自室のドア前で、困ったような顔で立ち尽くした、101号室の住人、後藤さんの姿だった。


「ん? やぁ辰君、メリーちゃん。こんにちは。デートの帰りかい?」


 片手をヒラッと上げながら、後藤さんはにこやかに挨拶する。手には大きめのスーパーや薬局の袋がいくつか握られていた。大盛りナポリタンと、ボンゴレビアンコ。サラダが二つに一リットルペットボトルのお茶。お徳用の使い捨て髭剃りに、シェービングジェル。あと銀色の袋らしきもの。外から確認できたものは、それくらいだった。

 僕らもまた挨拶を返した上で、もう一度辺りを見渡す。幹太君と梢ちゃんは、影も形も見えなかった。


「あの、小学生くらいの男の子と女の子を見ませんでしたか? 猫を追い掛けて来たと思うんですけど」


 僕がそう問えば、後藤さんは目を見開き、そのままばつが悪そうに頬を掻いた。目を泳がせ、何故か周囲を確認するような素振りを見せてから、彼はゆっくりと口を開いた。


「ああ、見たよ。というか、私もそれについて困っているんだ。今まさに部屋に入ろうと扉を開けたら、見知らぬ猫、女の子、男の子と、続けざまに飛び込んでいかれちゃってね。どうしたものかと」


 誘拐犯にされるの嫌だしさぁ。と、渋い顔をする後藤さんに、そんなホイホイ冤罪被される訳ないでしょうと言いかけて、僕は口を噤んだ。

 このご時世だ。ちょっとしたことがいざこざの火種になりうる故に、後藤さんがそういった事案を危惧するのもわからなくはない。


「あの、すいません。知り合った近所の子達で、とんだご迷惑を……」

「え? あ、ああ。いいんだよそれは。知り合いなら連れていってくれればいい。ただ……その、なんだ。僕の〝同居人〟が……ねぇ。びっくりしてなければいいんだけど」


 とにかくどうぞ。と、扉を開けて僕らを促す後藤さん。すえた臭いとギリッと冷えた風が一気に押し寄せて、僕は一瞬だけたじろぐが、ままよとばかりに玄関へ足を踏み出した。

 玄関先から覗くリビングは薄暗く、カーテンが締め切られているようだ。僕はそのまま靴を脱ぎ、リビングへ上がり込もうとし……すると不意に服の袖が引っ張られた。メリーだ。


「どうしたの?」

「事情が事情とはいえ、他人の家よ」


 彼女はそう言って僕を制止し、そのまま玄関先で声を張り上げた。


「二人とも! 戻ってきて! ダメじゃない、人の部屋に勝手に入っちゃ!」


 よく通る声がこだまする。目を凝らせば、洋室に続くドアが開いていた。二人と一匹は、そこに入ったのだろうか。


「ああ、上がってくれて構わない。多分二人ともびっくりして動けないんだろう。人を招くとよくあるんだ。同居人を紹介すると、何故か皆その場で固まってしまってね」

「……びっくり? 固まる?」


 一体何のことだ? と、僕が首を傾げても、後藤さんは薄ら笑いを浮かべるだけだった。


「……仕方ないわ。入りましょう。それにほら、空気も澱んで、しかもエアコンも強いし。あまり二人にも良くなさそうだわ」


 顔をしかめながら最後の方は小声でメリーは僕に耳打ちする。声の端々にどんよりしたものが滲んでいる。出来る限りはここに上がりたくなかったのだろう。理由は、何となく察せないこともないけれど。


「……お邪魔します」


 二人揃って靴を脱ぎ、そのまま幹太君と梢ちゃんの名を呼ぶ。返事はない。少なくとも、リビングにはいないようだ。

 僕らはそのまま、慎重にリビングから隣の洋室へと足を踏み入れる。視界の先に、小さな二つの人影が見えた。


「幹太君? 梢ちゃん?」


 こちらの声かけに微動だにしないばかりか、梢ちゃんはペタンと床に尻餅をついていた。一体何が? その答えは、はっきりと見え始めた洋室の全体像で、否応なしに思い知らされた。


 最初に認識したのは、無数の目。それが僅かな光源の下で硝子の輝きを放っていた。

 目が慣れていけば慣れていく程に、それらは僕らに姿を見せつけた。


 無数の身体があった。

 ゴシック調の服。ガーリーな服。ボーイッシュな服。セクシーなドレス。和服に洋服。ラフな部屋着まで、ありとあらゆるもので着飾った身体がある。

 その上には、あらゆる顔があった。

 髪形はロングヘア。ショートヘア。ウェーブ、シニョン、お団子ヘアから名称不明なものまで。色も黒から金、桃色等様々。そして皆が恐ろしく、整った顔立ちをしていた。


 非日常かつ、作り物めいた世界がそこにある。

 徹底的なまでの自己が見えるそこには、確かに同居人達がたくさん存在した。


 部屋の中心で足をすくませ、震える小学生と、驚愕に目を見開く僕らを取り囲むようにして出迎えたのは……。


 肘と膝の先がない、人形達の群れだった。


「……ひっ」


 僕らの入ってきた音で現実に立ち戻ったのか、幹太君が短い悲鳴を上げる。

 無理もない。そこにいた人形達は、質感から造形まで、あまりにも本物の人間と酷似しすぎていた。

 僕が人形だと判断できたのも、一重に彼女達の瞳や身体が全く動かなかったからに過ぎない。それほどまでに、そこにいた同居人達は精巧だった。


「ごめんね、びっくりしたろう? 迷い込んでしまっただけみたいなんだ」


 芝居がかった動作で、後藤さんは人形の一体に話しかけ、愛しげにその髪を撫でる。瞳には偽りない、真っ直ぐな恋慕の情が浮かんでいた。

 僕らの何とも言えない視線には目を向けず、後藤さんはギュッと人形を抱き締めた。


「休日とはいえ、お客さんをもてなす準備はしていなくてね。ああ、君はそこで見ていてくれるだけでいい。気にするな。後は私がやるよ。ティーカップは……人数分あったかな?」

「……あ、あの」

「えっ? 二人きりがよかった? ハハッ、こ~ら。お客さんの前だよ? 照れることは言わないでくれ。ああ、彼女については心配しなくていい。メリーちゃんと私は何でもないよ。当然だろう? 人形のように……身体の形が美しいことは認めるけどね」

「……っ、すいません、いいですか?」


 一瞬だけ、後藤さんの目がメリーの〝手足を除いた部位〟に注がれたのを目撃し、うすら寒いものを感じつつ。僕は後藤さんに会話を試みる。彼はやはり、人形達に目を向けるばかりだった。


「ああ、そうだとも、私は君が一番だ。ああ、愛してるともさ。誰にも渡しはしない……」

「あの! 後藤さん!」


 声を張り上げる。それにより、ようやく後藤さんは僕に目を向けた。……形だけは。

 何かね? といった目を向ける彼に、僕は一礼する。背後では、その視線から逃れるように、メリーが震える幹太君と梢ちゃんを抱き上げていた。


「あの、僕らはただ迷い込んだ二人を迎えに来ただけなので……。これで失礼します」


 然り気無く一緒に固まっていた猫をつまみ上げる。多分コイツもビックリしたに違いない。

 そのまま、行こう。とメリーを促し、足早にその場を後にする。背中にこびりつく視線を確かに感じてはいたが、僕らはそれを無言で振り切った。

 後藤さんもまた、最後まで呼び止めることはおろか、言葉を発することもなく。斯くして僕らは、重い扉を閉める音と共に、101号室から脱出した。


 ※


 状況が状況なので猫を離してやり。誰もが一言も話さずに、自室たる203号室へと帰還するや否や、僕は腰の辺りに重い衝撃を受けた。梢ちゃんだ。

 彼女はブルリと大きく震えた後、やがて、堰を切ったかのように大声で泣きはじめた。それに釣られるようにして、顔を青ざめさせていた幹太君もまた、エグエグとしゃくり声をあげて泣き出してしまう。


「怖かった」

「なぁにあれ」

「あのおじさん、何?」

「彼処にいたの、何?」

「嫌だ。嫌だ。何で皆手や足がないの?」


 そんなまとまりのない質問が矢継ぎ早に紡がれる中。僕とメリーは玄関先で座り込み、二人を挟むような形で抱き締めて、無言で頭を撫でてあげる事しか出来なかった。


「もう大丈夫よ」

「あれはただの人形だから」

「少し、おかしい人だったのかも」

「人形だよ。本物じゃない」

「気にしなくていいわ」


 そんな気休めの言葉をメリーと交互に投げ掛けながら、僕はついさっき見た光景を考える。

 恐怖が行きすぎれば、声が出なくなる。二人はまさにそんな状態だったのだろう。深刻なトラウマにならないことを祈るしかない。他に僕らに出来る事は……。


「幹太君、梢ちゃん。ココア、飲む? あったかぁいココア」


 優しく、慈しむように二人の髪をときながら、メリーがそう提案する。涙目で彼女を見上げる二人にメリーはにっこりと笑顔を浮かべた。


「お人形なんか忘れちゃいましょ。ゴミ箱にポイッてね」


 そう言ってメリーは立ち上がり、台所へ歩いていく。幹太君はまだグスンと鼻をすすり上げながら、彼女のロングスカートを掴んだまま、ちょこちょことついていった。

 あっちは任せて大丈夫かな。僕はそう思いながら、未だに抱きついたまま離れない梢ちゃんに手を回し、ポンポンポンと、優しく背中を叩く。


「メリーのココア、凄く美味しいからさ。暖まったら、一緒に帰……」

「人形だったの? 彼処にいたの……本当に?」


 僕の言葉を遮って、梢ちゃんは震えた声を出す。それに対して僕はもう一度、勿論だよ。と答える。あの場の異様さは、確かに相当なものだった。咄嗟に幽霊くらいはいるかもしれたいと思える程に。でも、少なくとも彼処には何も感じなくて……。


「じゃあ、じゃあ、彼処で梢に話しかけてきた女の人は何だったの? あれも……人形?」

「……え?」


 まるでハンマーで殴られたかのような衝撃が僕を襲う。

 今、この子は何と言っていた? 話しかけてきた? あの場で? ……誰が?


「こ、梢ちゃん、ちょっと待って! いつ……」

「お部屋に入ったの。びっくりして、転んじゃって、周りを見渡したら……あれが、いっぱいで……一人だけ、動いていて……」


 ゾワゾワした寒気が、背中を上ってくる。あの場に……僕らと後藤さん以外にも人が、いた?

 じゃあ。じゃあ後藤さんが言っていた同居人とは……人形の事ではなく。


「目が合ったの。とっても綺麗な女の人が……悲しそうに笑って、それでこう言ったの……」


 唇を噛み締めて、涙を滲ませながら、梢ちゃんは囁いた。



『〝私達〟のこと、誰にも言わないで』

 



 ※


「……江戸川乱歩の小説に出てきそうな人が、実際にいるなんてね」


 幹太君と梢ちゃんを返した後、何の気なしにソファーで寛いでいた時。メリーがぽそりと呟いた。


「人形に恋って言ったら……『人でなしの恋』……だっけ。子どもの頃読んだな。衝撃的だった」

「そう、それ。乱歩ので私が一番怖かったのは、『芋虫』とか『人間椅子』ね。暫く眠れなくなったのを覚えているわ」


 そんな思い出話に花を咲かせた所で、僕らは現実に帰る。考えるのはそう、梢ちゃんの言っていた事。あの中には、本当に……。


「幽霊の類いはいなかった。それは明らかよ。だから私達は、見落とした。身近な狂気か、狂愛を」

「……梢ちゃんの錯覚って線は?」

「あんな状況だとそれも考えられなくもないわ。けど、私はその可能性は低いと思ってる」


 深い青紫が虚空を射る。真実を引きずり出す視神経は、オカルトだけではなく、そこにある見えない何かを今暴かんとしていた。


「思い出して。後藤さんの手荷物を。〝二人分〟の食事が入っていたわ」

「……大食漢だったのかも」

「そうね。そうかもしれない。じゃあもう一つ。彼が持っていた銀色の袋、覚えてる? 薬局とかで特定の商品を買うと使用されるものよ」

「特定の? それだけで断定できるの?」


 僕の疑問に、メリーは確定ではなくても、ほぼ。と、頷いた。


「あの中身……多分生理用品よ」


 少しの沈黙。固まった僕の気持ちを代弁するかのように、メリーはシニカルな笑みを浮かべていた。


「加えて、後藤さんのあの行動。まるで私達の視線を自分へ釘付けにしているように見えなかった? あるいは、私達が逃げ出すのを期待したのか。まぁ、あくまで全部想像だけれども……」


 そう言って話を締め括るメリー。掘り進めるのはこの辺で止めておきましょう。そう雰囲気が語っていた。それに関しては、心底同意する。彼処には、踏み込んでくることを拒むような、独特の空気が流れていて。


 その時僕は、唐突に、最後に感じた視線を思い出した。

 そうだ。後藤さんは、一度たりとも〝僕ら〟を見なかったではないか。つまり、僕らに向けられたあの視線は……。



 私を見つけないで。誰ががそう囁いたような気がした。

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