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裏野ハイツへようこそ

『裏野ハイツ』


 バス・トイレは別。

 独立洗面台。ベランダ。駐輪場が有り。

 家賃は四万九千円。最寄り駅までは徒歩七分。

 近場にはコンビニや郵便局等、生活に必要な店は一通り揃っている。

 間取りは1LDK。リビング九畳に洋室が六畳。木造六戸の二階建て。

 築三十年の敷金なしを差し引いてもなかなか破格な物件だと個人的には思う。

 件のハイツに辿り着いた僕が思ったのは、そんなとこだった。

 少なくとも、学生が一人暮らしする分には充分すぎる広さだ。ただ問題は……。

「……何か感じる?」

「今のとこはなーんにも」

 入り口の簡素な門を潜り、そこから建物の全体像を見上げたままメリーに問い掛けると、そんな返事が帰ってくる。

 身構えてきてみれば、そこは拍子抜けするくらい普通の集合住宅だったのだ。勿論、事故物件なんてものが外から見ただけで分かる訳はないのだが、そこは事前にあんな情報があったので、着けば何らかのとっかかりは感じるだろう。……なんて考えていたらこれである。

 結局その場で油を売るわけにもいかず、兎に角入ってみよう。という形で話は落ち着いた。

 踏みしめる度に微妙に嫌な音を奏でる階段を昇り、昼間なのに妙に薄暗い共用廊下の奥へ進む。

 203号室。二階の一番奥が、僕らに宛がわれた部屋だ。預かった鍵を鍵穴に差し込むと、少しだけ回しにくいものの、問題なく解錠が完了する。銀色のドアノブに手をかけるとき、やけに緊張したのは仕方ないと思いたい。これから一ヶ月住む場所とはいえ、当然ながら普段使っている自分の部屋ではないのだから。

 チラリと傍らに立つメリーを見る。彼女もまた、多少なりとも唇を震わせているのがよくわかった。ホラーやらオカルト好きなら幽霊や超常現象は平気になる。それは偏見だ。

 そういう類いの性質は実に多種多様。だからこそ戦場に慣れはしても、緊張は欠かさぬ兵士のように。僕らもまた、未知なるものへの畏れと興味で、身が適度に強張っていた。

 何かあっても大丈夫なようにそっと手を繋ぎ、小さく深呼吸。


「行くよ」

「オーライ」


 扉を開く。その瞬間、お香だろうか。あまり嗅ぎ慣れない臭いが鼻腔を満たしていく。眼前には、がらんとした九畳分のリビングが広がっていた。

 思わずその場にて、メリーと顔を見合わせる。ごくごく普通の部屋。そんな感想しかなかった。女性の部屋にしては簡素な感じがする。

 テレビ。ローテーブル。冷蔵庫。パソコンの置かれたディスク。小さめの本棚。本当に必要最低限のものしか置いていない。そんな印象を受けた。

「……湯坂先輩だっけ? 依頼してきた人。そういえば、今はどこに?」

「友達の部屋を転々としてるらしいわ。私物は元々少ない人らしいから。荷物も大事なものは既に倉庫とかに預けてるんですって」

 なんて用意周到な。と思うが、裏を返せばそこまで恐怖したという事にもなる。見たところそれらしきものの気配が感じられない。

 時刻は既に夕方六時を回っている。夏場ということもあって日はまだ高いが、妙にこの裏野ハイツは薄暗いようにも感じられた。

 そのまま扉を開け、隣にある六畳の洋室へ行く。ベッドにクローゼット。小さな棚にぬいぐるみやバービー人形が飾られているくらいで、やはり、変わったものは何もない。耳をすませてみても、何かが聞こえるという事はなかった。


「……どうなってるんだろ?」

「まぁ、確かに。こうも何もないと不気味ね……」


 大丈夫と判断し、いつの間にか手を離していた。メリーは窓枠に近づき、外を眺めている。

 僕もそれに習えば、ハイツをぐるりと囲む塀と電柱が見えるのみだった。

 時間だけが過ぎていく。特にやることもなく。ただこれからここに住むという事実があるのみ。そう考えたら、何だか気の抜けるようだった。


「ああ、そうだ。言い忘れてた」

「何を?」


 窓に寄り添っていたメリーが此方を向く。黄昏に沈み行く空を背景に首をかしげる姿は、一枚の絵画のようで……。


「不束ものですが、一ヶ月間宜しく」


 少し照れ臭いのが辛い。夕焼けでよかったと思う。

 彼女もまた、一瞬だけポカンとしたものの。やがて嬉しそうに頷いた。

 今にして思えば、この一時こそが、何も抱えずにのんびりと出来ていた唯一の時間だった。


 ※


『202号室と201号室』



 部屋の探索で得たのは、湯坂先輩が依頼引き受けてくれてありがとう。という気持ちと共に作り置きしてくれていた、ハヤシライスのみだった。

 メリーと一緒にそれに舌鼓を打ち。充分に味わった後で、僕らはせっかくだからと隣人や近所に挨拶に回ることにした。

 たかが一ヶ月とはいえ、元からここに住んでいた人の代わりにここに来るのだ。顔見せくらいはしていた方がいいだろう。そんな判断である。

 だが……。


「あれ、留守かな?」


 すぐとなり。202号室をノックする。どうにも裏野ハイツにはインターフォンはなく、今どき珍しい、ノッキングの金具が付いた扉らしかった。洒落てるなぁなんて思いながら、僕は呼び出しを続ける。コン、コン、コン。と、軽快な音が響き渡るが、やはり反応はなかった。


「てか、ここ誰一人として表札出してないのね」

「最近のマンションやらは出さない人が多いって聞くよ?」

「……確かに。じゃあ、別に珍しい事じ訳じゃないのね。どうする?」


 出直しましょうか? そう言いかけたメリーのすぐ近くで物々しい音が響いた。ギィーという生理的に呼びかけてくるような甲高いそれに僕らがぎょっとしていると、「ヒェッヒェ」という嗄れた笑い声が聞こえてきた。

 202号室のそのまた隣。201号室の扉から、白髪頭を一つに結わえた七十代くらいの女性が、いやに芝居がかった仕草で身を乗り出した。

 老婆。そう言っていい風体の女性は、僕とメリーを爪先から頭のてっぺんまでジロジロと見渡して、ニタリと破顔した。


「あんたらが、恵那ちゃんの言ってた大学生二人組かい? 夏休み中に旅行している間に、留守を預かるっていう」


 ああ、そういえばそんな話だったなぁと思い出しながら曖昧に頷く。だが、その直後に小さな疑問が浮かび上がった。それは確か湯坂先輩が大家さんに話した事ではなかったか。

 顔に出ていたらしい僕の態度に、その人は再び「ヒェッヒェ」と笑う。とってつけたような。まるでわざと演出するような笑い方だった。


「簡単さ。あたしが今は大家代理なのさ。何せ二十年位はここに住んでるからねぇ」

「二十年……結構長いんですね」


 相槌を打つメリーに、その人は「おうともさ」と、得意気に頷く。笑うと分かるが、前歯が欠けていた。


「あたしは……マサエ。あたしは知らないことなんてないよ。そんなあたしから言える事といえば、そこの住人は多分出て来ないよ。そもそもここ数年、誰も姿すら見ちゃいないからね」

「空き部屋ってことですか?」


 僕がそう問えば、マサエさんは「うんにゃ」と頭を振る。皺だらけの手で頭を掻きながら「一応入居はしてるさ。出入りすら見れないのは、部屋に寄り付かないからじゃないかい?」とだけ答えて、それっきり僕らを見つめるだけに留めてしまう。


「関わりなさんな。何と言ったかな。ほら、ぷらいばしぃというやつだ。心配しなくても悪いもんじゃあないよ。それだけは保証する。だから止めときな」


 言葉の端々に、詮索するなという空気が読み取れて。マサエさんの瞳に暗いものが混じるのを感じた瞬間、傍らのメリーは僕の小指の爪をこっそりと引っ掻いた。

 拗れても嫌だし、この辺にしておこう。そんな所だろうか。そんな相棒の提案を受け入れて、僕は一先ず引き下がる事にした。


「わかりました。じゃあ、マサエさん。一応お隣さんとマサエさんの分で二つ。一ヶ月程ですが、宜しくお願いします」

「ありゃ、ご丁寧にありがとうね」


 歯抜け笑いを浮かべるマサエさんに、メリーと一緒に揃って一礼し、僕らはそこを去る。

 無意識に足早になっていたのは、マサエさんの虫でも観察するような視線に当てられたからか。それとも……。


「姿は……見えない。部屋には寄り付かない。ね……じゃあ、ドア越しに聞こえてた息遣いはどう説明するのかしら」


 どの部屋にも一つは、覗き穴が付いている。そこからの視線は、間違いなく外にいる僕らを捉えていたのだろう。少しだけ身震いしながらそう語るメリーの一言が、最後まで僕の耳にこびりついて離れなかった。そんな中、マサエさんは部屋に引っ込む直前に、最後にもう一つだけ。と呟いて。


「ああ、今の時間は、103号室は止めておきな。行けば……男の方。特にあんたは後悔するよ?」


 ……不吉な予兆を畳み掛けるの、止めてくれないかなぁ。


 ※


『103・102・101号室』


 二階だけで早くも引き換えそうかという気持ちになりかけたが、気を取り直して僕らは次は下の階へと赴いた。

 まずは止めといた方がいいらしい103号室。理由もわからないなら住人の警告に従った方がいいのだろう。だから正直、ここは素通りしようか。二階から一階への階段を降りる道すがら、そんな話がメリーと僕の中では成立しつつあった。

 この時間はという事は、別の時間なら大丈夫という事なのだろう。そう納得し、僕らはその扉の前に差し掛かり……。

 マサエさんが言っていた止めておけ。を、僕らは知ることになった。


「……っ! ……ん、……あっ」


 そうきたか。最初に浮かんだ感想はそれだった。

 微かに聞こえる、くぐもった女の嬌声と、何かが断続的に軋む音。それなりに古い建物だからか、壁も戸も薄いらしい。

 日は沈んでいるとはいえども……。


「……こ、こんなに壁薄いのね」


 ひきつった顔を見せるメリー。僕らの間には、何とも言えない気まずさが漂う。確かにここでノックする勇気は僕にはない。出てこないだろうし、出てこられたら出てこられたで困りそうだ。


「ああ、そこね。仲がいいというか、色々あった夫婦らしいからさ」


 次行こうか。僕がメリーの手を引こうとした瞬間。すぐ近くから朗らかな間延びした声がする。

 マサエさんの時みたいなデジャブを感じて僕らがそちらに目を向ければ、そこには五十代くらいだろうか。スーツを着た男性が、部屋の扉前にて苦笑いぎみに佇んでいた。

 番号は101号室。恐らくはそこの部屋の住人だろうか。見たまんま、帰宅したサラリーマンといった感じだ。


「お盛んなようで羨ましい限りだよ。私も同居人がいるが、こうはいかなくて……っと、イカンイカン女性の前なのに申し訳ない」


 おどけたように手をヒラヒラさせるサラリーマン。そう言うわりには、メリーを下から上まで舐め回すように見るのはどういう了見か。最終的に胸へ視線は固定される。男性の僕ですらここまで分かるのだ。当の彼女が気づかぬ筈がない。隣でメリーが少しだけ不快そうに目を細めたのが感じられて、僕は思わず、持っていた菓子折りを手に、然り気無くメリーと男の間に立つ。


「どうも。一ヶ月だけ、上の203号室に滞在するものです。ご挨拶にと思いまして。つまらないものですがどーぞ」

「おやまぁ、ありがとう。てか恵那ちゃんはいつの間に引っ越したんだなぁ」


何故か残念そうに肩を竦めながら、サラリーマンは「後藤です。宜しく」と会釈して、菓子折りを受け取った。


「全部屋に渡してるのかい?」


 僕の咎めるような視線に気づいたのか、今度は目を泳がせながら問うてきたので、僕が「ええ。まぁ」と頷けば、後藤さんは意味ありげな笑みを浮かべた。


「殊勝な心掛けだけど、ここに関してはご近所付き合いはこれっきりにした方がいい。隣、102号室なんて、四十代くらいで引きこもりだ。上のばぁさんだって何だか胡散臭いし。あ、私は違うよ? 困ったことがあったら、言ってくれ」


 そう言って、にこやかに片手を差し出す後藤さん。僕はそのまま彼の手を軽く握る。妙に。いや、かなり乾燥した、ザラザラした感触がした。


「ありがとうございます。改めて宜しく」


 後藤さんの目線は最後まで、僕と合うことはなかった。



 ※


「疲れた」

「ホント。こうなるなら止めておけばよかったわね」


 部屋に戻り、二人揃って脱力したようにため息をつけば、一気に疲れが襲ってきた。結局102号室は無反応。用意した菓子五つのうち、三つが渡せないという、散々な結果となった。


「お風呂にしない? もう今日は出掛けないでしょう?」

「賛成だ」


 お先にどーぞとメリーを促せば、一緒に入る? なんてジョークが飛んで来る。止めてくれ。僕は少なくとも君の信頼を裏切りたくないんだ。と返せば、メリーがどういう事? と言わんばかりに不思議そうに首をかしげたので、僕はそのまま話を切り、彼女を脱衣所へ押し込んだ。


「流石に……なぁ」


 ジョークと分かってはいても、何も感じない訳じゃない。僕だって一応男なのだ。湯煙の中にいるメリーを少しだけ想像し、ハザードマークが点灯した気がして、僕は思考を断つ。

 テレビでも見よう。それがいい。何故か心の中で何度もそう言いながら、おもむろにリモコンへ手を伸ばし……。




 直後。ガタンと乱暴に、脱衣所のドアが開けられた。


「メリー? どうし……っ!」


 流石にカラスの行水過ぎやしないかな? なんて思考は、彼女のバスタオル一枚だけの姿にて、一撃で吹き飛んだ。

 何故に? と、言葉を僕が発するより早く、メリーはツカツカと僕に歩みより、「来て」と、短く囁いた。

 その瞬間、僕はあからさまに身体が強張るのが分かった。

 メリーの手は、手汗でしっとりと濡れ、その顔面は彼女が色白な方という事情を抜きにして、明らかに蒼白だった。


「……どうしたの? 何があったの?」


 僕が問えば、メリーは無言で僕を連れて脱衣所へ。そのままお風呂場へと足を進めた。

 扉が開かれ、一度湯気がもうもうと立ち込めるも、やがてそれはすぐに消え、視界がクリアになっていく。そこには……。

 


「お湯、入れたわよね? でも、そこからは私も貴方も使っていない筈。なのに……何でかしらね。これ」


 心なしか震えた声で、メリーは浴槽を指差す。

 お湯がはられたそこには、明らかに僕やメリーのものではない長くて黒い髪の毛が……絨毯のように大量に浮かんでいた。


 

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