オカルトを証明することはできるのか。
注意。読むのは多分疲れます。
これはあくまで個人的な考え方と見解を示しているに過ぎず、思慮が浅い部分もあるだろうが、その時は指摘とご意見を戴きたい。
オカルト現象。
おおよそ現段階での科学で証明できない現象をそう呼ぶことが多い。世間一般の認知としては、『有り得ないこと』で十分だろう。
この作品では、この現象を証明できるかということについて考察をしていきたいと思う。
所謂『科学の時代』である現代では、それで証明できないこと=存在しないという考えが一般的だ。ある側面から見てもそれは正しい。
物事を考えるには、それに関連する事柄の最も基盤となりうることを定め、それを絶対的なモノとして盲信しなければ始まらない。
それは数学にとっての1+1=2であり、日本語にとっての五十音である。
この時代の一般的な考えはそれが科学というだけであり、なんら責められるものではない。
そのままいけば、オカルトは科学で証明できない、もしくは科学で再現できる。つまり存在しないということになる。
これも一つの終わりなのだが、それでは元も子もない。なので、もう少し掘り下げよう。
本当に証明できないのか。
どうして世間一般で『証明できない』とされるのか、これを考える。
科学とは、ある一定の知識さえあれば、習熟度の差はあれど、万人が等しい認識ができ、同じ結果を出せる。つまりは、個人の適性などの要素の影響が低く、安定している。
対してオカルト。霊能者や霊感の有無などという認識がある以上、個人の適性は強く影響する。
認識できる者は限られており、認識できない者は、認識できる者の証言を否定することも肯定することもできない。本当に見えている可能性もあり、虚言、妄想である可能性も存在するからだ。
この二つは根本的に相容れない。だがそれはあくまで現段階においては、だ。
科学の進歩によって変わるかもしれないし、飛行機を不可能だ、と科学者達が断じていた時代があったように、100年後にはオカルトはオカルトでなくなっている可能性もある。
オカルトは科学によって再現できる。ならば、本当の意味でのオカルトは存在しない、という主張もある。が、それは間違ってるとは言わないまでも、まだ不十分だ。
廃墟や心霊スポットなどでオカルトを見た者がいたとする。そのオカルトは科学で再現できるものであるとしよう。
オカルトと誤認されているとされる科学は、多くがプラズマだろう。だが、プラズマでは表せないこともある。また、そんな頻繁に、そんな多数に、偶然そのスポットで、偶然人が見ている時に、偶然オカルトと見間違えるほどのプラズマが発生するのだろうか?
確率的に考えれば、有り得ないだろう。ならば、考えられる可能性は、それが人為的なものであるということだ。
だが、プラズマを発生させるのに何の準備もなしには不可能だろう。そして、それが人為的であることがバレない程度の位置から発生させるのも難しいのではないか。
仮にできたとしても、費用や人材、時間。
オカルトを否定する科学側の人間が、一日そこに張り込んでまで、オカルトと誤解されるような現象を引き起こすだろうか。
このような点を考えると、人為的という可能性は消える。
これで、科学によってオカルトを存在しないとすることはできないだろう。だが、オカルト側にも不自然な点は多々ある。
まず、霊などはどうやって存在しているのか。
死後も存在できるのならば、人は死を恐る必要はない。
死を恐れるのは単純に、死というものが『終わり』だからだろう。その個体としての終わりだからだ。
幽霊の存在を信じるには、その辺りの矛盾が邪魔だ。幽霊は身体という入れ物がなくなったわけであり、どのようにして存在を保っているのか。入れ物が必要ないのなら、何故人間は入れ物に固執するのか。
二つ目に、幽霊は何故強い力を持つのか。
基本的に、多くの怪談で語られる幽霊は強い力を持っている。どのようにして強い力を持つのか。
怨念などの感情をエネルギーにしている、と言われる場合もあるが、それがどうしてエネルギーになるのか。
生きている状態において感情が意味を持つのは、あくまで身体と精神が密接に関係しているからであり、決して感情をエネルギーに変換しているわけではない。リミッターが外れたり、自己暗示によって一時的に疲れが感じられなくなったりすることによって、身体の動きがよくなるだけだ。
怨念によって霊のリミッターが外れ、強大な力を発揮したとしても、それは一瞬だ。エネルギーの総量が変わるわけではないので、霊はそのまま消えてしまうことになる。
これ以上は歯止めが効かなくなるのでここで終わりにするが、両者共に問題が多い。よって、その存在は二つの意味で証明できないということになる。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。
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