7 思い込み眼鏡(フィルター)
他の人は存じませんが、雨が降ると眠くなります。
科学的に言うと「気圧の変動により脳の血管が収縮しているから」と言う説があるらしいですが……いかがなものなんでしょうか?
とりあえず、予定が何も無ければ半日は寝ていられますね。
あれ、これも思い込み?
「先生」
何の前置きもなく、それは現れた。
とは言っても、言葉と同時に引かれていたカーテンが開かれたので中から出てきたと言うことは判ったのだが。
「これは……もう良いのですか? お体の調子は?」
「はい、少々疲労がたまっていただけですので……ベッドを貸していただき、ありがとうございました」
「スターレット」
今の今までの喧騒が嘘のような展開に、アンレーズは沈黙する。
あまりにも驚いて、アンレーズの時間が止まってしまったかの様だ。
気が付けば、思わず呼吸を止めて指先がどころか全身が小刻みに震えていたという事実がある。しかし、そこは何故か気力で踏ん張らなければならなかった……後に、ここで演技でもふらついておけばレンに抱きとめてもらえたかもしれないと言う可能性に思い当たって思い切りヒステリーを起こしたりするのだが、それは少々後の話となる。
「もう大丈夫なのかい?」
「ええ……ありがとうございます、お気遣いいただきまして」
結界の中に居たのは、事実を知らないアンレーズを除けばドーンだと言う事を二人は知っている。ただし、常の姿ではなく今は眼鏡を外し長衣を脱ぎ、髪を解いて素顔をさらしていると言う現実がある。
なので、目覚めてすぐに外の様子を伺わなかったドーンは自分自身をスターレットとレンが呼んでいるので知られてはまずいのだろう程度の事を考えた……実際には、これまでのラーカイルとのやりとりを含めて色々知ったら面倒な事になりそうではあるのだが。
「気にする事はないさ、君と僕との仲だもの……さ、送ろう」
まるで周囲の事などそよ風ほども感じさせることなく、自然にエスコートする姿は一枚の絵画のようだ。
「ああ……申し訳ないんだが、ミス・アンレーズ。
病み上がりの彼女を寮まで送り届けなくてはならなくてね……本当に申し訳ないんだが……」
「え、ええ……私の事ならば気になさらなくても大丈夫ですわ。レン・ブランドン様……あの……?」
「本当にありがとう、ミス・アンレーズ。貴方は立派な淑女の精神をお持ちのようですね
「ま、まあ……それで……」
「それでは急ぎますので、また彼女が倒れるような事があってはいけませんからね。
急で申し訳ありませんが、これで失礼します。先生も、突然現れて申し訳ありませんでした」
態度こそ礼儀正しくあろうとしているのは判らなくはないのだが、見る者が見れば明らかにレンが焦っている様子が見て取れただろう。アンレーズがそうだとは言わないが、それでも第三者目線をすればレンがアンレーズより名も知らぬ美少女……まさしく手を加えていない天然系美少女の名に相応しい少女に心を砕いているのがよく判った。
「少し待ってください、レン・ブランドン君。
お時間は大丈夫ですか? 『スターレット』さん」
「……ええ、少しでしたら」
明らかにレンの目は「余計な事を」と語っているし、ラーカイルの目は「そっち女生徒連れてとっとと出て行け」と語っている……アンレーズは状況についていけないけれど好奇心はあるらしく戸惑っているし、当の話題の中心人物は最初こそアンレーズやラーカイルの顔を見て話していたのだが、その直後にレンに囲われてしまったのでアンレーズは一瞬しか見ていない。
けれど、その一瞬で十分だった。アンレーズが呼吸すら忘れるほど固まるには。
光り輝く、艶やかな流れる金の髪。
ぱっちりと見開かれた緑黄石の様な、大きな瞳。
何かを塗ってるわけでもなさそうだが、赤くバランスの良い唇。
服はシンプルだが、それ故に特徴的なリボンタイ。
まったく日の光を浴びていないかのような、真白い肌。
服は制服だから、相手の階級は判らない。けれど性別が女性と言うのは声の高さから間違いはないだろうし、これだけの美貌をもっているのならば今まで噂にならなかった理由が判らない。
こう言う時、制服を何一つ改造される事なく着込まれると相手を認識できなくて困るとアンレーズは思う。
仕方が無いとは思うのだが、自分のようなお金持ち系のお金を出せば入れる貴族階級系の学校ではない限り顔を売る真似と言うのは商業や商売に関連する人しか存在しない。学者系の人ならば、まずは顔や家系を晒すのを避ける傾向があるのだ……ちなみに、貴族階級系の学校は入るのはお金があれば容易だが卒業するのはなかなか難しかったりする。
「眩暈や頭痛、腹痛の類はありませんか?」
「ええ、もうすっかり」
「睡眠時間はきちんととっていますか?」
「あ……ええ……一応は……」
嘘がつけない性格なのか、答える声には張りがない。もっとも、その理由の一部としてはレンに頭を抱え込まれるような状態のままだからだというのがあるのだが。
「あまりお休みになっていない様ですね……では、この薬を処方しますので服用してください。
ご存知の様に、怪我や病気と違って慢性的な体力不足は一朝一夕で治ると言うものではありません。規則正しい生活時間、バランスの取れた栄養素が必要だと言う事を心に留めて、可能な限り努力を怠らぬようになさってください」
「はい、ありがとうございます」
「何を言ってるんですかね、この医者は……僕が側に居てそんな目にあわせるわけないじゃないですか」
アンレーズは驚く。
今のは、医師から少女……スターレットとか言ったか、レンへと言葉が続いたがずいぶんと砕けた物言いだ。
もしかしたら、今この瞬間はアンレーズの存在を忘れていたのではないかと思ってしまうほどだ……それほど、レンの言葉遣いは気安そうなものとなっていたのだ。
もちろん、レンとて常に敬語を使っているわけではないだろうが……少なくとも女生徒……自分達を相手にする場合は基本的にスマートな対応を心がけているらしい事は判っていたし、それが貴族同士の相対と言うものだと理解していた……筈だった。
けれど今、アンレーズは僅かな胸の軋みと共に覚える感情があるが……そこに名をつけるのを力ずくで止めた。
「もう行きますよ、幾ら休んだとは言っても僅かでしかないのは今更ですよね?」
「仕方ないですね……きちんと送り届けて下さいよ?」
「当然ですね」
ため息をつきながら不承不承と言った感じで処方箋と思われる紙を発行するラーカイルとは対照的に、当事者には一切触れさせずに紙を勝手に受け取るレンの表情は晴れやかだ。なんとなく「してやったり」と言う感じがしないでもないのだが、その手の事にあまり慣れていないアンレーズには意味がいまいち判らない。
何にしても、この対決はレンの圧倒的勝利と言うところなのだろう。
「先生、今のレン・ブランドン様と一緒にいらした方は……?」
あまりにも自然な動作だったから、そしてレンのレアな表情を見てしまった気がした為か通常より遥かに鈍い回転をする頭を叱咤して、アンレーズは無理に口を開く。
「ああ……彼女は私の受け持っている患者さんなんですけどね、この学園都市に来る前からの。
レン・ブランドン君に比べれば体力がない為に、よく運ばれてくる人達の一人なんですよ」
「そう……なんですか……」
聞きたいのはそんな事ではない気がしたのだが、かと言って詰め寄るわけにはいかない。
アンレーズはリリィと違って学園都市の教職員の立場がどう言うものか、そして今の自分達生徒の立場がどういうものかと言うのを知っているから詰め寄ったり胸倉をつかんで揺さぶったり、ましてや実家の権力をちらつかせてどうにかなるとは思っていない。
ただ、ラーカイルの言葉の外側にある「君達がレン・ブランドンにまとわりついて日ごろから大騒ぎするものだから大変迷惑している人たちがいるんですよ」と言う意味には気が付かなかった様だ。
つまり三人娘が所構わず騒ぎ立てる、とばっちりを受けて運ばれる人は少なからず存在すると言う事だ。若干一人はそんな二人を諌め様と努力しているつもりだったりするが、それが逆に騒ぎを大きくする要因となる事も一度や二度ではなく、さりとて「あの二人は……」と無自覚だったりするので似たり寄ったりだ。
「レン・ブランドン様は……あの方と親しいのでしょうか……」
疑問符は無かったが、心のどこかでは疑問符であって欲しいし。それより疑問符すら付かなければいいと思うのは乙女心と言うものだ、出来れば知り合いや顔見知り状態であっても「この泥棒猫!」とののしってやりたいのはやまやまだけれど、そもそもレンはアンレーズのものではないので泥棒も何もない。
「親しいか否かと言われても、私は教職員ですからね……何とも言えません」
咄嗟に「嘘だ!」と叫びたい衝動にかられはしたが、アンレーズは出来うる限り最大の自制心を以って押し留める。
この医師には、医薬術関係の質問ではずいぶんと世話になっている……学園都市と言う特殊な環境下でさえなければ伯爵令嬢である自分自身を相手に尊大かつ無礼な物言いだと処罰する事は簡単なことではあるけれど……やはり、学園都市と言う特殊な環境下にある以上はリリィの様な態度ではいずれ退学にさせられても文句は言えないと言う事を理解している。
馬鹿な子といわれることが多いアンレーズではあるが、一部の状況に限って言えばそんな事はないと自負している。自信があると言っても良い。
「彼女のご両親にもくれぐれもよろしくと言われていましてね……あまりにも彼女の環境は苛酷なので、少しでも手助けが出来ればと思っています」
先程よりは小さいが、やはりため息交じりの言葉をラーカイルははく。
基本的に、教職員は全ての生徒を平等に扱わなければならないと言う不文律がある……が、一部の教職員がそうであるように絶対的効力があると言うわけではない。もっとも、筆頭に上げられるキャスリーヌ教師などは一緒にされたくないとお互いで思う事だろうが。
「まあ、そうなんですの……先生、是非私に彼女の事を教えていただけませんか?
その様な環境にあると言うのであれば、少しでも手助けをしたいと思いますの」
貴族の女子供の間では、寄付や施しと言った行為は普通に行われる。
それは暇と金を持て余した特権階級の人達のお遊びに過ぎないのは確かだが、まったく無意味かといわれるとそうでもない。逆に、奈落の底に叩き落される……一時の救いの手を差し伸べておいて、本当に一時で終わられたりしてしまうと施された側は期待してしまうものなのだ。だから、物事をよく理解出来る者は年齢を問わずに強かにならなくてはならなくなる。
「止めておいた方が良いかと思いますよ、彼女は静かな生活を望んでいます。
彼女にアンレーズさんが出来る事があるとすれば、彼女に関わらないようにすると言う事くらいなものだと思います。もし、それで彼女に何かあればきっかけとなってしまえば私も、レン・ブランド君も心を痛める事となってしまいますからね」
暗に「彼女に近づこうなんて考えを持つのはおやめなさい、我が身が可愛いでしょう?」と言う意味合いを持っているのを正確に感じ取るわけではなかったが、どこかそんな感じをしていた。
近づくとろくな目に合わないかも知れない。けれど、レンとの仲を深める足がかりになるかも知れない。
「……そう、ですか」
正直な話を言えば、アンレーズは頭をかきむしりたいくらい腹が立っていた。
レンに関わる女がいる……どんな関係かは判らない。無理に聞き出そうとするには手立てが少なすぎる……あれだけの美少女を今まで存在を知ることもなかったと言う事実に愕然としてしまう。しかも、医師はアンレーズにもぼんやりと理解出来る程度に「近づくな」と規制を敷いた。
レンに関わる女の中で、利用できる者と排除出来る者はきちんと選り分けていた筈なのに。情報が足りていなかったのが悔しくてたまらない。
「でも、私……レン・ブランドン様のお役に立ちたいんです」
そして、見知らぬ女を知りたいんです。
場合によっては、存在を消しても良いくらい憎らしいんです。
などと言う言葉は、もしかしたらラーカイルには読み取れていたのだろう。
僅かに口角を上げた医師は机の上の書類からアンレーズへと視線を移し、目を見る。
まさしく、眼球を見られている様な気がしていた。
「どうしても?」
「はい、どうしても」
反射的に答えた言葉は、どこまでが嘘なのか本当なのかアンレーズにはわからない。
レンを手に入れると言う意味で役に立つのならば嘘ではないし、レンの意志を尊重すると言う言葉がそこにはないので嘘と言っても過言ではない。
「でしたら、まずは学園都市を卒業してくださいね。
これから大人となり貴族の女性としてお嫁に行くにしても、独立するにしても、まずは卒業する事が最低条件です。それに、レン・ブランドン君の様な公爵家では遊んで暮らせるような身分ではないでしょうからね……茨の道になると思いますよ? 貴族のお嬢様方には卒業前にお嫁入りをされる方もいるみたいですが……やはり、話に聞く限りでは卒業をするしないは、かなり嫁ぎ先での待遇も異なるようですし」
もっとも、それは本人の資質や状態によるのは当然の事だけれど。
「先生は、公爵家の事をご存知なのですか?」
「こう見えて、様々な患者さんがいらっしゃるのでね」
にやりと食えない笑みを浮かべたラーカイルを、アンレーズはどこか遠い……薄くて通り抜ける事の出来ない膜で弾かれたかの様な気がしていた。
もし、アンレーズがおねだりした相手がラーカイル先生でなかったらドーンの名前とか色々ばれていたかも知れません。
もっとも、そんな口の軽い医師をレンが相手にする事はありません。
この場合に限って言えば、ラーカイル先生は最悪「レン・ブランドン君から口止めをされているのです」と公爵家の威光をかざす気は満々です。
ただし、彼も伊達にギルドで恥ずかしい二つ名を賜っているわけではないので自力で何とか出来ちゃうんですけどね。
アンレーズのツッコミが激しくなかったのはレンの態度と見知らぬ金髪美少女とラーカイルに師事している部分があって僅かに読み取れる所があったからで、普段はもう少しはっちゃけています。裏の部分ですね。