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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

異説 近代史

作者: 及川 幸明

今後ベースとなるもの。

連載用はまだまだ先。

 時間とは複雑なものである。

 歴史とは時間が歩んできた道のりである。

 だが、そのありゅんだ時間が少しでも道を変えれば、歴史には多少の影響が出る。

 多少といえども、その多少が増えればちりも積もれば山となるごとし大きく変わってくる。

 歴史にIFは禁句といえども、人は口々に皆言う。「もしもあの時……」「あの時こうしておけば……」

 だから、こうして現代において、架空戦記や二次創作といった作品が生まれる。IFという言葉は自然なものである。

 これは、ある青年が望んだ日本の歴史の在り方である――――!




 時は江戸時代鎖国の最中。日本は鎖国をして、海外と関わっていなかったといえば世界はNOである。鎖国中も長崎の出島など限定されているとはいえ、少なからず外国との交易はあった。

 それに1859年のように黒船来航による開国が求められたというが、求めてきたのはアメリカ以前に多くあった。イギリス、フランス、オランダなど……。

 江戸幕府は開国を求められてからは必ず話し合いを行った。たとえ外国人に開国を強く求められても幕府の今に言う外務官はのらりくらりとした交渉で開国を拒否。

 後の歴史研究家は言う。『開国拒否の交渉が日本という国の外交力を高めた』と。

 日に日に強大になっていく外国船に江戸幕府は早急にその対応に追われた。西欧の船より大きく強い船を、強くて長く飛ぶ大砲を、速く撃てる銃を。国防強化などに幕府は努めた。海軍伝習所や太平洋などで外洋訓練などを行ったりするなど、いずれ行うことになるかもしれない開国に向けて日本は着々と準備を進めていた。国防強化や、教育の普及などの改革は後に『江戸改革』や『幕政改革』などと呼ばれるようになる。

 しかし、1859年。黒船が来航。

 幕府が持つ最大の船、江戸軍船よりも少し(・・)大きな船を見て徳川幕府は恐怖した。

 徳川幕府は時代の移り変わりを感じ、開国した。その際アメリカと結んだ条約は幕府の弱腰の対応によって不平等なものであった。

 この不平等条約を押し付けられた弱腰な幕府の対応に民衆を怒った。

 すでに武士優位の時代が終わったと感じた徳川幕府は日本中を回り、武士達を説得した。将軍自らの説得により武士達は驚きを感じながらもしぶしぶ認め、武士の時代は終わりを迎えるかと思われた。

 ところが、小規模とはいえ反乱が起こることとなる。

 なお、薩英戦争や下関戦争が起こったが、薩摩や長州の武士達はよく戦った。元々、大砲や銃などの有用性に気がついた武士は歴史の変化を感じており、その研究をよくしていた。それに日本人のさがか、他の国よりも性能の良いものである。(几帳面といった意味での)

 東洋艦隊の被害が思った以上に大きくなったイギリスやフランスは早々に停戦を求め、日本という国を見直すようになる。

 そして1867年。日本中の武士達の説得を終えた徳川慶喜は大政奉還を決心。

 当時大きな力を持っていた薩摩と長州の薩長同盟が中心に明治政府という名で日本の国を纏めることとなる。

 王政復古の大号令などが行われ1868年、明治維新と呼ばれる大きな改革が始まった。

 まず明治政府が行った教育の整備、学制であった。元々江戸幕府時代からも寺子屋などで教育制度を整えていたため、混乱は大きくなかった。

 1869年版籍奉還、官制改革、太陽暦採用。

 1870年廃藩置県などと、明治政府は内政を整えていた。

 そして同年岩倉使節団が欧米や西欧などに派遣。長い旅が始まることとなる。

 1871年とうとう新橋・横浜間に鉄道が通ることとなる。日本の産業革命である。

 地租改正なども行われ、次に外交面に眼が行くようになり、武力で朝鮮を開国せよという征韓論が起こった。だが、岩倉使節団の途中報告の手紙から「内政を整えることが重要」とのことに論破された開国側は黙った。

 1872年国会開設の詔が出され、自由党、立憲改進党などが結成された。

 1873年日本銀行成立。年末に岩倉使節団が四年近い見聞から帰還し内閣制度創始。

 1874年市制・町村制公布。同年に台湾事件と呼ばれる漂流民が台湾で殺害されたという事件に日本の右翼が動き始め、台湾出兵と言われる出来事が起こる。台湾の宗主国である清王朝に抗議したが、得る物は無かった。

 1875年二月大日本帝国憲法が発布された。それにより学校教育法制定小学校六年中学校三年と現代の物と同じ法律が制定された。後の歴史研究家は「これは帝国が教育を重視しているという現われ」と言った。

 1877年制限選挙でありながらも選挙が行われ第一回帝国議会が開かれる。議会ではまずは内政を整えてから外交を行うべきといった内容となる。二年後に東海道線が開通する。

 そして日本が外交の整備を始めることとなる1880年、ロシアに樺太と千島を交換する話を持ちかけ、『樺太・千島交換条約』が締結された。こうしてロシアとは国交を結ぶこととなる。同年、琉球藩だったところを沖縄県と改称。そして朝鮮とは日朝平等条約を結んだ。

 1883年、朝鮮にて、甲由の政変が起こるが清王朝により鎮圧された。

 1884年、陸奥宗光を初めとした外交団が条約改正交渉のために日本を起った。

 1884年から90年までに、これまで明治維新による急激な改革があったがこの六年間でようやく一段落することとなる。豊かになり、西欧風の文化が栄えながらも日本が独特に作ったものなどが栄え、明治文化と呼ばれる文化が栄えることになる。この頃に、人々は男女構わず西欧の髪形に変えるものもいれば、坊主にするものなどお洒落などにも気を使われるようになる。そして、日本が発祥とするサブカルチャー、漫画が作られ、日本だけでなく、翻訳されて世界各国でも読まれるようになった。

 1890年、とうとう領事裁判権を撤廃することに成功した。そしてついでにアメリカやイギリスなどの先進国を見て、普通選挙法(男子のみ)が成立した。

 そして四年後、清王朝では朝鮮での民衆の不満が高まり、甲午農民戦争が起こった。

 当時、日本は静観するつもりであったが、清王朝は鎮圧に失敗し、泣く泣く日本に救援を要請したのであった。

 救援を受けた日本はまず、清王朝にいくつかの条件を申し込んだ。その内容は今回の鎮圧などで使用する金銭をくれというようなものだ。

 さすがに他国に鎮圧してもらうのだ。清王朝は従った。

 日本は明治政府以来初めての戦闘となるが、それでも日本は戦った。まだまだ先進国に比べれば弱国である日本は兵士の訓練をよくして、錬度では負けないようにしていた。

 反乱軍といえどもその装備はあまりにも旧態的なものであり、日本軍は苦戦することなく反乱軍を壊滅。死亡者は病気によるものと、ゲリラによる急襲の被害など三千人以下であった。

 初の海外戦闘ということもあり、日本は戦死者のほとんどが病死ということを受け、衛生面での整備を強化していくこととなる。

 1895年、下関条約が結ばれた。その内容は

・清王朝は日本が使用した軍資金を謝礼金として五百万(テール)を払うこと。

・朝鮮南部(今で言う韓国)は独立が可能までの日本が委任統治を行う。

 というような欲の無い内容であった。それに韓国の委任統治というのは今回の反乱を受けて日本が清王朝に「反乱を鎮圧しても国が変わらねばまた起きます」という言葉に「なら日本が代わりに統治してくれないか?」ということで決まったのだ。だが、反乱さえ自国で鎮圧出来ないことに『アジアの眠れる獅子』と呼ばれていた清王朝の弱体化を気がつかれ、西欧による中国分割が始まった。もちろん日本は抗議したが、まだまだアジアの弱国の一つでしない日本の発言は耳に入れてくれる事は無かった。

 甲午農民戦争が終わり、韓国の統治を任された日本は1896年『韓国開発援助法』を成立させ、韓国のインフラ整備などを行った。なお、この際、韓国の改革はあまり日本のように急激に行わず、現地民の知識人を監督させ、日本は指導や物資援助などである。この方法が取られたのは元初代内閣創立大臣であった朝鮮開発チーム長官の伊藤博文の調査からである。

 1898年。八幡製鉄場が開業。日本は重工業を発展させるのを始めた。それにあわせて1899年、関税自主権の回復に成功。同年、韓国が明治初期の日本くらいになったので韓民国という名を持って、清王朝から独立した。それにより日本の『韓国開発援助法』は廃止された。

 1900年、ロシアが旅順、大連を租借した。そのことで日本はロシアの南下の圧力を受けることとなる。

 同年、清朝の日本大使館とドイツ大使館が襲われ、殺害された。義和団(北清)事件である。

 日本は中国分割に参加しておらず、西欧にアジアでただ一国抗議したのだが、このようなことが起こったので日本国民は激怒した。

 義和団はキリスト教や列強を中国から追い出し、再び中国の栄光を取り替えそうということを掲げており清王朝は義和団に援助をしていた。

 連合軍を組んだ列強は難なく義和団を討伐し、清王朝から賠償金を奪い取っていった。その際、ドイツが青島を租借することに成功した。

 義和団事件後のロシアの満州駐留に、列強は抗議をするがロシアは「まだ治安が良くない」ということを理由に駐留し続けていた。このことでロシアの南下は決定的なものとなった。

 今まで租借地を欧州勢力に取られ続けていたが、清王朝はこのままでは満州から首都北京は近いためにロシアに滅ぼされるのではないか? と思い始め、今までのような通商条約ではなく、軍事同盟としての日清同盟を結んだ。

 そして1902年には栄光ある孤立を捨て、イギリスもこの同盟に参加し、日英同盟に踏み切り、日英清三国同盟を結ぶこととなった。

 日本はこの同盟によりイギリスの技術の恩恵を得ることとなり、イギリス海軍を元にして作られた日本海軍は将校や水兵一人一人が一生懸命にイギリス東洋艦隊から勉強した。日本陸軍でも、戦場は朝鮮半島となるだろうと想定し迫撃砲や榴弾砲などの兵器の準備に取り掛かった。日本軍は『月月火水木金金』訓練を取り入れ、ロシアとの決戦の備えた。

 そして、日露戦争が起こり、東郷平八郎や乃木稀助といった司令官達の活躍などによりこの戦争は日本に軍配が上がった。

 初の海戦となる連合艦隊はその力を存分に見せつけ、パルチック艦隊を打ち破り、日本陸軍は多数の犠牲者を出しながらも攻略した。清とロシアとの国境でも日本陸軍は派遣され、清陸軍よりも戦功をあげていた。

 ――――二十世紀初の近代戦争であるこの戦争では、まさにこの頃【艦魂】と呼ばれる艦艇の化身が確認され始めた。

 後に東郷平八郎はそれを【艦魂】と呼び、その名が定着するようになった。その艦魂というのは東郷曰く「艦艇に宿る女神」だと話した。

 別の話では装甲巡洋艦【日進】に乗り合わしていた当時士官候補生であった後の連合艦隊長官山本五十六となる高野五十六は装甲巡洋艦に砲弾が命中した時に、砲弾の破片が命中し負傷したが「日進……彼女が助けてくれたんだよ」と話していた。

 艦魂は第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも語り続られ、その話は受け継がれるようになる。

 次に、バルカン半島を火種とした第一次世界大戦が勃発した。

 日本はその際観戦武官を多く派遣し、日英同盟を尊重し、志願制で集めた大隊規模の陸軍を派遣、ドイツ潜水艦が現れたころには駆逐艦隊を派遣した。

 また、この一時大戦では欧州戦線に戦車タンクや初の航空機による空中戦などが登場、行われるようになったが、日露戦争における【艦魂】のように戦車や航空機にも一部で似たような女神が存在していることを確認された。それらは【車魂】や【飛魂】と呼ばれるようになる。

 一次大戦後は国際連盟が作られ、日本は常任理事国となった。

 一次大戦後の日本は敗戦国であるドイツに支援を決定、それはフランスやイギリス、アメリカなどにドイツの懐柔を警戒されることとなる。そのため、後にアメリカはドーズ案をドイツに持ちかけた。

 日本の支援はもちろんただの情けではない。本音は敗戦国となってしまったドイツからの移住を計画している科学者の登用であった。しかし、ほとんどが亜細亜蔑視の風潮があるためか、アメリカに行ってしまっている。ドイツに残った技術は日本が買い取ったが……。

 ドイツからの賠償艦である潜水艦をもらい、日本はドイツから技術師を招いて研究を開始する。

 国際連盟にて、日本がイギリスやアメリカといった白人支配に対して牽制するつもりで「人種差別撤廃条項」が提出された。多数決の結果議決されそうになったところで「そのような内容では満場一致ではないと意味がない!」と当時のアメリカ合衆国大統領ウィルソンの一喝により、その案は可決されることは無かった。

 その後の共和党アメリカ大統領ハーディングによってロンドン軍縮会議と呼ばれる主力艦の保有率の会議が開かれ、米英五割に対し日本は三割というありさまであった。日本側は「日本は四方を海で囲まれている。海軍力は絶対に必要だろう」と抗議したが、意味はなさなかった。これにより日本の米英に対する不信感が表れることとなる。

 海軍はこれを聞いた時、一部の者は大きく激怒していた。その一部とは明治天皇が没し大正となった今でも残る大鑑巨砲主義の者達であった。なぜ、ほとんどが別の主義だったか。

 この異説の日本では多くの観戦武官が航空機や潜水艦の恐ろしさを知ったからだ。つまり、海軍では大鑑巨砲主義、潜水艦隊決戦主義、航空至上主義などが居るからである。

 軍縮会議前に考えられていた【八八艦隊】などは「日本の経済を破壊するつもりか!」という当時平民宰相として人気であった原首相の一喝により却下とされた。もちろん、大鑑巨砲主義者が反発する可能性があったので、分かりやすく経済と軍事の関係性を説いてやったことでしぶしぶ了承していた。この異説での軍人は軍人勅諭に「柔軟に、物事を論理的に行動する」といったようなことが書いてあるからである。

 1923年、歴史的大地震、『関東大震災』が起こった。政府は最低限の守備兵を残して、陸軍や海兵隊を動員して救助作業に徹した。その際、おかしな噂が飛び代わらないように憲兵や警察も大きく働いている。

 広東政府を樹立していた孫文は体調不良ではあったが、日本救援を掲げ、援助物資を送っている。韓国でも『日本災害救助支援法』を成立させ、日本に救援を行っている。

 その後、日本政府は『帝都新建築法』を成立させ、明治維新により急激な近代化政策として作られた都市一新し、より計画的な帝都の復興が進められた。

 財政的な問題により日本では『師団数削減』を陸軍に認めさせ、徴兵により入った技術士や職人などを本来の仕事を任せ生産力を挙げる狙いを図った。

 ところでロシアとはいうと、第一次世界大戦中にてロシア革命が起こり、ソ連が出来た資本主義の弊害が生まれたといえるマルクスの思想である社会主義を掲げた初の国が出来た。日本では『露皇族亡命受入法』が成立し、ニコライ二世は残念ながら殺されてしまうが、皇女の三姉妹と皇太子は無事に日本に亡命した。それにより帝政ロシアの支配者であったロマノフ王朝は滅びた。生き残りである子供達四人は生き残った数少ない臣下達と日本にて亡命ロシア政府として活動することとなる。

 そして1929年アメリカのニューヨーク株式市場で株が大暴落。ドーズ案を通してヨーロッパの経済を支配していたためにアメリカの大不況はヨーロッパへ、世界へと広がるのである。

 もちろん日本も例外ではなく、経済が混乱し、日露戦争により割譲した満州にて関東軍の動きを許してしまう結果となる。

 1932年の出来事であった。奉天軍閥の長であった張作霖と、大日本帝国陸軍関東軍の長であった石原莞爾の密書を頼まれた陸軍中佐を乗せた鉄道を爆破されるという事件が起きた。張作霖はこの時点でその陸軍中佐によって一命を取り留めるが後に、その傷が原因でなくなってしまう。

 この出来事に石原莞爾は関東軍を動かし、当時蒋介石によって弾圧されていた毛沢東率いる共産党紅軍を攻撃。満州事変と呼ばれる出来事が起こった。

 石原莞爾は満州が日本の国防などの様々なことについて絶対不可欠だとわかっていた。資源も然り、移住地も然り。

 この出来事を利用し、蒋介石と会談。元々孫文の時代から孫文無き後の国民党を支持し、武器輸出条約を結んでいたために、関係は深かった。蒋介石が行っている北伐に日本も協力する、武器も輸出する、いろんな援助はする、というような条件で蒋介石に満州国の建設を認めさせた。

 その際、中国のラストエンペラーである溥儀を満州国執政につかせた、なぜならば清王朝は元々、満州の民族による王朝である。つまり溥儀に先祖の地治めることを説いて彼を付かせたのだ。

 このことによりアメリカは抗議。国際連盟からリットン調査団が派遣されたが、蒋介石も満州国建国を認めた上、リットン調査団もまた張作霖の遺書などで満州事変においては正しいことを報告した。建国が正しいかどうかは話は変わるのだが……。

 これを聞いた民主党の大統領フランクリン・ローズベルトは日本を戦争に追い込むために様々な政策を打ち出すことになる。

 後に発見されるが、この際満州分割の書類が欧米や欧州に出回ってたという……。

 大日本帝国はABCD包囲網や日米通商条約破棄などの経済政策に苦しむが、当時の日本政治家に打開できる者はいなかった……。ただいたずらに軍縮をし、金を作り出すような政策を出す政府に軍部はとうとう動いた。

 1935年十二月一日、後に十二・一事件と呼ばれるクーデターが起こった。この事件では陸軍や海軍の海兵隊が関わっていた。

 この事件では上層部が今まで隠していた汚職や出来事が全て包み無く公開された。その中には対米戦略があったが、あまりにも幼稚な内容であり、自分達を過大評価、敵を過小評価したものであった。

 国の上層部の大部分が更迭または予備役にされ、一時的に昭和臨時政府が内閣を作る予定である。

 海軍では連合艦隊に山本五十六が就任した。陸軍では史上初女性で長官となる女性軍人の薩摩明子が就任した。

 薩摩明子は日露戦争後の男女平等政策(この頃はまだ不安定なものであったが)の一貫で陸軍士官学校に入学し、同期同じ女性や男性達をさしおいて主席として卒業し、卒業後はまだまだ残る男尊女卑のせいで冷遇はされたが、第一次世界大戦でのヨーロッパ戦線における援軍大隊に志願し、小隊長に抜擢された。途中、結婚し、子供を産んで一時的に予備役に入るが再び復活し、中佐、少将と出世していき、新たな時代を築きたいクーデターの中心となった若者達に長官となることを推薦されたのだ。『陸軍の母上』と呼ばれる彼女は男性女性士官からも人気があり、当時の日本女性の憧れであった。

「あーっはっはっはっ。もう時代は男達だけじゃぁ生きていけないんだよ!」

 豪快に笑う姿こそ普通のおばさんと変わらなかったがその男顔負けの豪快さが国民に人気を得たのだろう。

 今回におけるクーデターで山本と薩摩は軍部内を大きく改革する。

 航空至上主義者であった山本五十六はこれからの時代は航空機と考え、現存する戦艦を航空母艦に改装することを決定。しかし今では数少なくなっている大鑑巨砲主義者が猛反発。山本は呉造船所にて、最後の戦艦――近代のラストサムライ――の造船を許可することにした。この戦艦は五年という長い期間を使って作られることとなる。後にそれは【大和】と名づけられた。

 元々一次大戦後から航空機の価値は見出されていたので全国の各地には航空学校が作られ、海軍陸軍航空隊に配属されている。中には満州事変やノモンハン事件でも活躍する女性エースパイロットもいた。

 陸軍とはいうと、ノモンハン事件における対戦車の兵器の開発が進められた。まず一つ目というえば日本戦車である。ソ連のT-35には日本のチハなどの主力戦車では手も足も出ないという有様であった。ソ連の重戦車の対策として新たに開発されるのは軽戦車での遊撃戦法であった。この計画は日本がソ連に対抗できる戦を開発し数をそろえることは不可能と考えた薩摩からの案であった。この研究には後にティーガーとなるドイツ戦車の技術が使われることとなる。

 この異説における日本とドイツの仲はそれなりに良いものであった。一次大戦後のドイツには裏向きがありながらも表向きはドイツの復興へと援助をしていたのだ、ドイツ国民は日本に良好的である。1933年に内閣を成立させたヒトラーもまた日本に戦略的な価値も戦術的な実力もあり、日本に同盟を申し込んでいた。当時の日本政府は恐慌の被害や英米の不信からか日独同盟を結んでいた。

 一部の者が反対をしていたが、ドイツの科学技術は認めているのでその恩恵を得てからは特になくなっていた。もっともこの頃のヒトラーはユダヤ人迫害などの残酷な行いをしていなかったからではあるが……。

 1939年ドイツがポーランドに攻め込み、第二次世界大戦の幕開けとなった。

 ドイツは圧倒的な軍事力でポーランドを蹂躙し、ソ連と不可侵条約を結び、フランスへ攻め込んだ。フランスがこの日のために作られたマジノ線は無残にも突破され、パリを占領。フランス南部にはヴィシー政権が立てられた。

 日本にはフランスを落としたのでフランス領インドシナを占領しても良いとヒトラーからあったが、「我が国は戦争をする気はない」と主張し、さらにフランスやポーランドのことで批難した。

 このことにヒトラーは激怒し、同盟を打ち切ろうとしたが周りの部下達が日本はアメリカをひきつけるのに役に立つということなどを説いてなんとか同盟を打ち切ることは無かった。(日本にとっては正直、同盟していたくないけど技術の恩恵があるために同盟関係にありながらも上層部では冷めた関係となっていた)

 そしてとうとうアメリカは日本の満州撤兵を行わないことを理由に最終通牒となる『ハル・ノート』をつきつけた。

 これを受けて日本政府は「ああやはりか……」といった様子であった。なぜならば前兆は元々あったのである。米英中(共産)蘭の四カ国による『ABCD包囲網』や『日米通商条約』の破棄、『対日石油前面禁輸』といったものだ。なんとか国民党の蒋介石に協力してはもらい、石油は前々から貯蔵や燃費の良いエンジンの研究、石油に代わる新たなエネルギーなどの研究でしのいではいたが……。

 日本は新聞を使って、ハル・ノートの内容を分かりやすくのせ、現在の欧州諸国によって蹂躙されているアジアの状況を国民に知らせる。それを聞いた日本国民は憤慨し、政府は『大東亜共栄圏』を立てることとなった。

 日本からのハル・ノートの答えは『欧州諸国の全てアジア植民地の独立しだい、ハル・ノートを受託する。それを認めない場合、大日本帝国は日本民族の命を賭け、アジアの平和と秩序を守る為に英米蘭に宣戦布告する』という返し玉であった。

 この内容にローズベルトも驚かされ、無視することにしていた。

 このような対米戦略を考えたのは明治維新以降から受け継がれた元老達によって考えられたものである。優秀なメンバーを集め、『国家戦略情報部』という政府の部署で行われた。

 堂々と宣戦布告されたアメリカは太平洋艦隊を動かし、日本海軍を壊滅させんと動く。なんせ日本海軍は物量の差を知りながら小数で攻めようとしているのだから。

 真珠湾から出たアメリカの太平洋艦隊が日本に向かう途中、突然雷撃に襲われた。日本の新たな艦隊、潜水艦隊による雷撃である。潜水艦の急襲により太平洋艦隊は動揺するも駆逐艦による爆雷攻撃で潜水艦隊を駆逐しようとしたところ、日本海軍の足の速い駆逐艦隊に砲撃され、潜水艦の雷撃もあり撤退を余儀なくされた。

 その戦闘中の最中、真珠湾ではとてつもない砲撃に見舞われた。

 日本海軍に保有するほとんどの戦艦が投入された連合艦隊である。『戦艦は遅いもの』という定義をぶち壊した日本海軍は太平洋艦隊の移動を狙って真珠湾を急襲したのである。

 アメリカ兵は凄まじい砲撃の雨に恐怖を抱いた。長門の41cm砲などが火を噴いてネヴァダなどを襲うのである。

「ナ、ナガトだ!」

「ま、待て! 後ろにもまだいるぞ!」

「なんなんだあの大きさ!」

「モンスターだ! ありえねぇ! 46cm砲を持っているとか言ってるヤマトじゃねえのか!?」

 この時、アメリカの情報局が入手した大和の口径は46cm砲であった。

 だが、実際は違う。自分たちが時代遅れということに気がついていた大艦巨砲主義者達は、国の象徴とも言える戦艦の最後に凄まじいものを作り上げた。後に最後の侍(ラストサムライ)と呼ばれる大和型戦艦は45口径55cm砲を搭載するという超弩級の巨大戦艦である。

 55cm砲はアメリカの戦艦でさえ一撃で轟沈させる威力を持っていた。

 真珠湾を艦砲射撃で壊滅させた後、日本海軍はまるで夢のように姿を消したのであった。


 ----これらのようなのが青年の理想の一部分である。

 日本人はこのようなことをするのに不可能では無かったはずなのだ。

 決して過去の人間が悪いのでない。過去の国が悪いのではない。日本人が時代に追いつけなかったわけではない。

 なぜならば順序が悪かっただけなのだ。

 何事も順序が大切であり、それはパズルのピースのようなものである。


 これは青年の願う世界平和の足がかりの部分である。

技術力アップの原因は江戸幕府の時代から銃器とか艦艇の開発を奨励していたから。

外交力アップは開国要求をのらりくらりとかわせるようになったから。

大陸進出を狙わないのは侵略はよくないという意識。無資源国家ということは理解しているのであんまり無理をするより、技術技術アップを目標。アジア一番になりたい。

この異説の日本人は頭が柔らかいのは江戸幕府が江戸時代から寺子屋などの教育制度を整えていたから。

あとこの異説では開国後に学者達が世界中の歴史を探求するために世界を飛び回っています。そのおかげで朝鮮や中国といった国を植民地にすると面倒か分かってます。

この異説では内政内政ばかりしていたので沖縄県とか千島とかの日本編入が遅れています。

日露戦争では徴兵で男子が多く取られ、女性が活躍したので男女平等がうたわれた。だから女性の社会進出が速くなりました。

一旦落ち着いた1980年後半では、娯楽が多く社会に出回る。ここで漫画が登場しました。サブカルチャーの登場です。男性も女性も所得が上がって豊かになったのでお洒落をする人も増えています。

日本人はやればできる人種なのです。

そしてやっぱり軍部のクーデターを許してしまいますが、史実と違って自分かってではありません。軍の重要さを知らずにただ軍縮軍縮と叫んでいたのでただでさえアメリカの圧力が大きくなることを知っていた軍部ですから……。


そんな感じで連載用を作っていくつもりです。

連載用はこれらの内容に肉付けするつもりです。

そんな感じでよろしくお願いします。

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[一言] 連載楽しみにしてます。
[良い点] 架空戦記は大好物なので、連載開始を楽しみに待っています。
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