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死の羽編 一章

 その時は、二人の男女が俺達を見下ろしていた。

 俺はどんな存在で、何故こんな真っ白な部屋にいて、何をしたいのか、それら全てが謎であり、最初は理解しようともしなかった。

 全てがまっさらな状態と言えよう。意識が宿ってから、自分が人の形をしていたことすら分からなかったのだから。

「よろしいのですかデュネマドス様。彼はともかく、この子は使命を果たすには余りにも優しい」

「……」

「わざわざ私の後継者など使わず、もっと相応しいパートナーがいるではないですか! これは役立たずです! ええ間違いなくよいことにはなりませんよ!」

「……黙らないか。お前達に上も下も無いだろう。確かに俺達に相応しい器はいくらか造ってみたが、それは所詮コピーに過ぎない。大体な、こいつにはあれがついていた方が良い薬になる」

「……かしこまりました、デュネマドス様」

 この子やあれやらの不可思議な呼び方が気になり、何の気無しに横を見ると幼い女の子が居た。白いワンピースを着ており、その時の俺と同じく何も分かっていないのかぼぉとした様子だった。

 なんなら、今こうして語ってはいるものの、この時の俺も彼女も言葉やコミュニケーションに至る全ての行為についての過去全ての記憶がない。目の前のえらそうに喋っているこいつら二人をボコボコにして殺そうという野生の本能も無ければ、危機的状況を回避するために床に額を擦り付けようとも考えられなかった。あるのは、いや、無と表現するしかないだろう。

 デュネマドスと呼ばれる青年は、赤が滲んでいるような茶色の目で俺を凝視した。

「お前はデュネマドスと名乗れ。お前はこの終【つい】の支配者である俺の後継者だ」

 分からないのだ。相手が何を言おうと言葉が分からないというのに、どう反応すればいいと? 一体この時間は何だったのだろうと、今でも不思議に思う。

「さて、ところでだがな」

 デュネマドスが俺の腕を引っ張り、わざわざ女二人から離れる。そして何故か俺に耳打ちをした。

「これから先のことを思えば、色々大変ではあるだろうがな、二点ほど今だけしか伝えられないことがある。今、意味が分からなくてもしっかりと何を言っていたのか覚えていてほしい」

「?」

「一つ目は、俺の隣にいる彼女だがケデューンと言う。お前の隣の女の子はそのケデューンのスペアでな、とある事情で特別な存在として造られたんだ。その特別の中でもあの子はかなり特殊でさ、他者を大切にするようには造ったが、その大切な他者さえ幸せであるならば、自らが不幸になろうとも構わないという厄介な奴なんだ」

「……?」

「お前の行動が大間違いであろうとも、それを肯定するってことだ。だからこそお前があいつを大切にするんだ。あの子はこう……放っておく方が損な奴だな」

「に……て……ん」

「ああ二つ目か。楚園宮手映咲【そぞのみやてえさ】という目と髪が黄色の女の子が存在するんだが、終の支配者である俺と敵対関係の始【はじめ】の支配者の内、消滅の支配者のスペアなんだ。あいつな、俺があの憎き始の支配者といがみ合っているせいではあるんだが、スペアの方はお前のことを深く愛している。だが敵同士であるが故にそれを表には出さないが、非常に珍しいんだよお前を愛してくれる奴なんて」

「……」

「いいか? 手映咲のことだけはしっかり見ろよ。あいつはただの敵として認識するな。さもなくばお前が後悔することになるんだぞ! いいか、あいつはお前の為なら自分の支配者すら裏切るようなめちゃくちゃ良い子なんだからな!?」

 何も覚えていない俺にここまで熱弁するほどだ、余程重要なことなのだろう。しかし……こいつは一体何者なのだ?

 デュネマドスはようやく気が済んだのか、再び俺の腕を引っ張って女二人の元へ戻っていく。

 なんとも律儀な女だ。ケデューンと呼ばれる者はデュネマドスが戻るまで、瞼を閉じて耳を塞いでいた。秘密の話とやらを聞いてしまわないように、自ら率先して情報を遮断していたのだ。

 そして、ここで本題に入る。

「デュネマドス、あー、お前はケデューンだ」

 ……というのに、名前が決まっていなかった女の子についでのように名付けた後、

「お前達にはこれから皆殺しをしてもらう。この世の全ての生物を消すのだ。その過程において数多の試練が降りかかるだろうが、やめることなかれ。万物の視野を持ち使命を果たせ」

 何を言っているのかさっぱり分からない。もしもその台詞を忘れてしまっていたならどうする気だったのだろうか。そもそも、脳味噌が空っぽのようなものである俺にそれを言いつけるとは、精神がどうかしているに違いない。

 とにもかくにも、俺はデュネマドスで、隣のこいつはケデューン。二人の名前を受け継いだ俺達がこれからどうなってしまうのかというと、それはもう完全に環境次第だ。環境が優しくなれば優しくなるし、酷ければ酷くなる。生まれたての赤ん坊もそういうものだろう?

 青年が手の形を人差し指だけ立たせた後、宙で横一線に振るうと闇が広がった。光広がる白く大きな部屋に現れる異物の闇、それらが俺達を覆うと世界は青々とした広大な大地へと変貌した。





 

 なんということだろう。奴らは俺達に知性を与えるつもりがないようだった。

 干からびた地に根強く残るわずかな草、全方位建物一つなく雑に生えている孤立した木々達。そして俺の五倍は大きな四足動物の死肉を貪るさらに巨大な猛獣が一頭。

 ここで一つ補足を付けるのならば、この時点での俺達の力は人一人倒せるかすら怪しいほどの力量しかない。つまり、とてもではないが勝てるわけがない。

 当然肉を喰らう化け物は俺達を見るや否や、剛爪で地を抉りながら真っ直ぐに向かってくる。へたり込んでいた俺は初めての恐怖に立ち上がり、ケデューンの腕を引っ張ってあてのない道を走った。

 おお、役立たずの俺の神よ。一体俺が何をしたというのか。親でも子を産むというのなら、もっと安全な場所で産んでいるはずなのだが。

 体が大きければそれを動かせるだけの筋力があるものだ。あの大きさであるからか、俺が力の限り走っていても段々と追いついてきている。

 ケデューンは未だ状況をのみこめていないのか、いつまでも呆けた顔をしていた。仕方がない、何が正しくて何が間違っているのか、その判断材料さえ持ち合わせていないのだ。この逃走も正しいのか、この時の俺はまるで分かっていない。

 ひたすらに、恐らく丸一日は走り続けて、やがて緑のない砂漠へと着く頃にはあの猛獣は引き返していった。

 未だ魂が抜けたような顔をしているケデューンと向かい合って、暑さによる不快感も合わさり、俺はんーんーと唸るばかりだ。

 さてどうするか。俺は目的が無いために、いつまでも唸るしかない。しかしケデューンは違った。

 彼女は非常に賢かったのだ。

 陽の光をたっぷりと蓄えた熱い砂を素手で掘っていた。それに何の意味があるのか俺には見当も付かなかったが、やはり、仲間という意識は持っており、他に有意義なこともないため彼女の行動を真似した。

 一体何になるというのか。その謎を胸にしまいながら黙々と作業を行なっていくと、流石に何度も同じことの繰り返しをしていれば慣れていくもの。時を重ねていくにつれてどうすればより速く掘れるかと体の動きが最適化されていき、体の制御も馴染んでいった。

 最初の頃とは比べられないほどにその成果は如実に現れた。掻き出される砂は天高く舞い、掘り出した砂を後ろに払うだけで地上に運ぶことなく穴の周りで山になる。やがては歩く速度と同じように下へ進んでいき、熱い地面はやがて湿った土の感触へ変わった。

 驚くべきはその快適さ。進むほど空気は冷えていき日光が当たらなくなっている。これで苛ついた気分も落ち着く……訳ではなかった。

 なんと不快なものなのだろう。視界は暗く、体はベタベタとし、何よりも息苦しい。確かに暑くはないのだが、それ以上に達成感というものが皆無だ。

 元々地中で生きるような生物ではないのだろうなと冷静に自分を分析するが、女の子にかっこいいところを見せたいという男のサガが備えられていたのだろう。嫌でもやる、そんな人としての最低限の常識は備えられているようだった。

 上から下を見るだけになっていたケデューンは何かを察知してか「おーおー」と音を出した。言葉を知らない俺達でも、それで何かが起きると意思疎通は出来た。

 土が揺れている。それが段々と大きくなっていき、やがては俺の下からはいあがってきた。俺を押し上げながら地上に出てきたそれは、全身に針を生やしたでかいネズミだった。

 運良くもそのネズミの鼻を踏んでいたおかげで串刺しにならずに済んだが、十中八九俺を捕食するために出てきたそれにどう対応すべきか、結論が出てこない俺は再び唸った。

 ──しかしなんということでしょう。デュネマドス様の親愛なるしもべにして、我らが頭脳であるわたくしケデューンが最大の一手を示したのです。

 どこにでもある砂を握りしめ、ネズミの目に目掛けて投げ付ける。人並み以上であり、人であるからこそ可能なその一撃は、さながら散弾の如き威力を発揮しました。

 デュネマドス様の崇高なる知恵は私の行動を学習し、次なる一手を放ったのでした──。

 要は、生き物というのは万能に近付くほど、穴だらけになってしまうものなのだ。

 世界を綺麗に見ようとすればするほど、その損失には耐えられない。たかだか目が、文字通り大切な目になってしまったとき、ダメージを負うと滅茶苦茶な動きになる。

 友好的関係を築けないのであれば、それは狩ってしまう方が利益が出るのだ。

 だから俺はネズミに近付き、ネズミの大きな針を引き抜いてその先端を顔面にねじこんだ。ネズミ……と表現したはいいものの、その大きさは俺達の五倍はあるそれは猛獣と言って差し支えないものだ。

 大暴れしながら刺さった針を抜こうとするネズミに振り回されながら、動かなくなるまでひたすらに押し込むこと数分。絶命させた後に再び俺は止まった。

 果たしてこんなことに意味があったのだろうか。俺は問いただしたい、命を生んだ神とやらが居るのならば。

 ケデューンが絶命した生物の目の前で唸る俺を横切った。特に気持ち悪がる様子もなく、血だらけの頭にそっと触れた。

 何をしているのかさっぱり分からなかったが、その状態を少しの間続けると今度は針を無理矢理引っこ抜こうとし始めた。しかし、力が足りないのだろう、俺のようには上手くいかない。

 全てに意味を見出せない俺はとにかくケデューンのやりたいことを補助しようとした。針が必要ならば、俺は全ての針を引き抜いた。

 ケデューンは次にその針の中でも切れ味のあるものを選び、ネズミの皮膚を裂こうとする。……が、今思えば、ハリネズミの針は毛が固まって出来ているもので、それがナイフの代わりになるのかというと疑わしい。

 やろうとすることのほとんどが上手くいかない彼女は手に持った針をじっと見つめた後、再び同じことを繰り返す。だが切れない。当たり前のことが起こっただけだというのに、彼女は驚いているようだった。

 仕方が無いので、俺はそこらの針を手に持って彼女と同じように皮を切ることにした。もちろん、なかなか分厚い皮膚だったので苦戦はするが、渾身の力を込めて無理矢理裂いていく。

 四メートルはある長めの皮を切り取ってケデューンに渡した。彼女はそれを表裏を熱い砂の上で数分置きにひっくり返した後、その皮で無数の針を束にした。

 それを背負おうとするも……体は幼い。砂の上ということもあり持ち上げることができないでいた。

 それも俺が代わりに背負うと、彼女は初めて申し訳なさそうな困った表情をしたのだ。俺はなんとなく、その反応に少しばかり嬉しかった記憶がある。

 針と皮、それだけ取った後は穴掘りはやめて、果てのない広大な砂漠を歩き続けた。

 朝と夜の繰り返しに歩くのではなく走った方が良いのではないかとすら考える程の長い時間を過ごしたと思う。そうやって時の流れを渡っていく中で、俺の体は徐々に異変が起きた。

 歩く速度が日が経つにつれ低下していったのだ。体に力も入らなくなっていき、さらには体表面から水分が漏れ出ている。そして、口に何かしらを入れたい衝動がある。

 その不調は俺だけであり、何も変化がないケデューンはそれを察知して振り返った。

 夜のことだ。砂漠は熱を放出し、凍えるほどの寒さの中、ケデューンが俺をその場に座らせて膝をつく。

 俺の背負っている針の束で自分の内側の左手首を傷つけると、俺の口にそれを近付けた。唇に触れると熱く、舌を這わせると温かい。生まれて初めて口に入れたものがケデューンの血とは、何遍も朝と夜を繰り返そうが永遠に忘れないだろう。

 そして初めては続いた。俺は彼女の目を見たのだ。見つめ合っていたのだと思う。神秘と呼ぶに相応しい優しい目の色に、心惹かれてしまっていた。

 それは人の目と称するには、あまりに未知の宝石であったのだ。氷のような薄い青色があれば、角度によっては火のように暖かな薄い赤色になる。にも関わらず、赤と青が混ざって紫には絶対に見えない。生き物には持ち得ないはずのそれが人として機能している。俺が見惚れたのは外見だけではなく、その使い方である心の在り方だ。

 しかし、俺には彼女のような何かしらの魅力はあるのだろうか。目を背けたくなるほどの自身への信頼の無さを、あるのかも分からない絆に縋って誤魔化し続けた。

 ……血を受けた俺は最初の頃のように元気に戻った。血で疲労を回復するというのは、我ながら生物としての疑問を抱いていたように思うが、まぁ、それ以外に砂を飲む方がありえないことだろう。

 ケデューンに両手で引っ張り起こされると、俺達は再び進み始めた。

 楽しかった。暑いし寒いし、景色は変わらないし歩きにくいし、苛ついた気持ちはあった。それを上回って、彼女との動きひとつひとつにコミュニケーションを成立させ、俺が先頭に立っては振り返り、彼女が先頭に立っては振り返り、後ろ歩きをしてみせると真似をされた。嬉しいと表現するには俺達は幼すぎるのだが、砂漠を抜ける頃にはお互いに笑顔になっていたのだ。

 砂の世界は緑の世界へと移り変わり、木々と鬱陶しい草の葉の道を歩く。なんと無情であろうか、音が声として森の中で響いている。

 自分が何を考えて、相手が何を考えているのか、それの交換が出来ていることのなんと羨ましいことか。なんと妬ましいことか。

 進み続けた結果がこの程度のものだったのかすら判断が付かない。進むか、止まるか。進んで何をするのか、止まって何をするのか、生命を終わらせるという役目さえ理解ができないこの時、比較的知能が高いケデューンに縋るのは当然のことだった。

 彼女は俺の視線に対して止まることを選んだ。むしろ、彼女は俺に判断を委ねようとするような弱った目をしていた。

 あの謎の空間で謎の男と謎の女に話しかけられていたのは俺だ。ならば俺が示さねばならないのだろう。しかし、何を話していたのかを覚えていてもその内容は解読できないのだ。

 恐らく俺の三倍は思考を巡らせているケデューンには食事と休息の二つの選択肢があったに違いない。食べることも寝ることも知らない俺を支えるために、ハリネズミの針を使って狩りをしたいはずだ。

 今思えばどう考えてもただの血で衰弱から一気に回復するわけが無く、血とはいえ体の一部を取り出したのだ。飲まず食わずで平気で居られるはずがない。

 ……だが、それを口に出さない。いや、それを伝え合えるほどのコミュニケーション能力がない俺には気付くことも出来ず、彼女も悪い癖が出た。

 俺は森の物珍しさにそこらに落ちている木の実や果物、虫や蛇などを手当たり次第に持っては投げていた。知識を蓄積してはいるが、現状を改善することは決してなく、後ろに付いてくるケデューンは黙って俺を見守っていた。

 俺が動くからそれを優先する。非常に悪癖だ。俺の興味が尽きずに四六時中動けば、ケデューンは四六時中付き合うのだ。俺の腹が減れば血を差し出し続け、たたでさえ氷のような白い肌がさらに白くなり目には隈が出来ているのだ。

 なんと愚かしい。異変に気付いていながらその解決策が思い浮かんでいないばかりに、当てずっぽうに動き回るしかないなんて。

 不安で何度も後ろのケデューンに振り返り、彼女の視線が俺ではなく下を向き続けていた時にようやく止まった。

 彼女は顔を上げ、ふっ……と笑うと、地面に落ちていた鋭利な石を持って手首を切った。だが……血が出ない。血は使い果たしたのだ。

 するとだ。彼女は先端を手首ではなく、肘近くの下に当てて水平に構えた。その行為にどうしようもない不安が、この後の結果を正確に予測させた。

 俺は初めて彼女の腕を掴んだ。

「……お、おー」

 言葉を知らない俺が唯一出せるただの音は、彼女の手から落ちる石ころによって声へと変わってくれた。

 血が無ければ肉を与えようとする彼女を表現するにはまさしく愛であると言う他ない。しかし、それは彼女の喪失することなのだとようやく気付いたのだ。

 俺は石を拾い、ケデューンと同じように手首を切ろうとした。しかし、ケデューンは慌てた様子で俺の手を止める。

「おーおー」

 やめさせたいという意思は伝わる。しかし、こうしなければケデューンは助からないと思うしかなかった。

 だが無理に斬ろうとするとそれを上回る必死さでケデューンが暴れるのだ。おーおーと何度も音を出して、何度も何度も石を取り上げようとしてくる。

 俺のすることがあまりにも無意味であると徐々に理解していき、このやり取りは数時間続いたのち俺が諦めるという形で終わった。

 ではどうしたものか。考える時間すら惜しいのだが、一番に思い浮かぶのはやはり何かを食べさせることだった。血ではダメならば何を受け付けるのだろうか。

 俺はそこらに生えているキノコを千切って口の中に入れてみた。土が混じり大して美味しいとも思わないが、土さえ取り除けば飲み込めるだろうという感想しかない。

 落ちた木の実を齧るも中には虫がおり、その虫もあまり受け付ける味ではなかった。

 とりあえず落ちているものではなく、木に実っている果実を跳んでもぎ取ってそれをケデューンに渡した。

 彼女は躊躇することなくすぐにその果実を食べた後、目を閉じてスースーと眠った。眠るということがどういうことか分かっていない俺はというと、彼女があのハリネズミのように死んだ訳ではないことは分かっていたので、彼女から離れないようにしながら食べられそうなものを手当たり次第に集めることにした。

 彼女がその場に止まって数日間の繰り返し。幸いにもその行為には効果があったようで、彼女の青白い肌は最初の頃の雪のような綺麗な白さに戻っていった。

 ケデューンに笑顔が帰ってきた。ぎこちなかった体の動きは改善され、両手を天に上げて伸びをした後、ハリネズミの針で手首を切ると前のように赤い血が流れ出た。

 ……彼女と同じように俺も彼女の血ではなく他の何かを食べてはいた。血には遠く及ばないが、それでもほんの少しずつ体調は良くなっている気はした。では食べ物と彼女の血の何が違うのか……それは圧倒的な回復力だ。

 木の実よりも少ないたった一滴の血でさえ飲まず食わずで一日は過ごせるだろう。まさに、彼女は秘薬のような存在だった。

 彼女は枯葉の上を歩いて俺に近寄った。傷口を俺の口に差し出し、躊躇する俺に笑顔を見せ続ける。それには純粋な善意しか無いのだろう。

 枯葉が舞っていた。緑の世界だったはずの場所は、今や枯葉色の景色のみ思い出す……。





「──デュネマドス様、お目覚めになってください」

 素朴な声が俺の名を呼ぶ。深い夢の中で彼女との出会いを再現していたようだ。

 瞼を開けば冷たい空気を感じだし、大きな窓からは暖かな日差しが差し込んでいる。俺を見下ろすのは火と氷が同居しているような神秘的な目をした女の子。

 明るい枯葉色の長い髪が俺の鼻をくすぐり、俺はくしゃみをしながら起き上がった。

「あっ、申し訳ありません。配慮が足りませんでした」

 たかだか髪が掛かった程度で大げさな。ケデューンは申し訳なさそうに俺から一歩下がる。

 俺はベットから起き上がり、傷んだ木の床に足をつけて座った。

「朝か。長い夢を見てた」

「おーおーと、うなされていましたよ。余程酷い夢を見ていたのでしょうね」

「いや、そうでもない。割と楽しかったよ」

 俺の機嫌が良いことを読み取って、まるで俺の感情を共有しているかのようにふっくらと微笑む。俺は喜んでいるようには見せなかったのだが、何故彼女は読み取れるのだろうと不思議に思う。

 ふと疑問が浮かぶ。

「お前さ、俺が寝ている時に話しかけてなかったか?」

「はい。ぐっすりとお休みのようでしたので、ホルコスさんから朝食を頂いてここへ運んで来たのです」

 俺が一番気になる質問を二文字で返すと、テーブルに置かれている料理のトレーを持って俺の近くの椅子に座った。

「パンとにんじんのスープと薄切りの牛ステーキ。まぁ美味しそう」

 彼女はパンを一口の大きさにちぎると俺の口元へ運んだ。もちろん自分で食べることは出来るのだが、彼女の好意を受け取らないというのは後々になって関係を崩してしまわないかと不安になる。

 仕方なく差し出されたものを食べると、彼女は俺が咀嚼している間に自分の分の食事を進める。俺がものを飲み込んだことを察知すると再び料理を俺の口元へ差し出した。その繰り返しだ。

 奉仕する喜びのようなものがあるにはある。しかしこんなことは息をすることと同程度の作業でしかない。彼女にとっては出来るからやっているに過ぎないのだ。それで彼女が幸せを感じるのならば、俺もそれを分けてもらえればそれでいい。

 皿が平らになると、ケデューンはナイフを自分の手首に当てた。

「待てよ。いらねぇよ」

「ですがデュネマドス様が怪我を負った時、生命力は余分に取っておいた方が良いでしょう」

「そのためにお前が怪我をする必要はないだろ」

 彼女は切ることをやめるでもなく、ナイフを指でくるくると回す。

「血ではなく直接回復させることが出来ればいいのでしょうが……。私にはまだそれだけの技術がありません。これはその補填なのです」

「……悪いな、俺のせいでお前を傷つけてしまっている」

 彼女の指がピクリと反応し、ナイフが床に飛んでいってしまった。彼女はそれを拾う。

「魔法が使えないだけですよ。それだけです」

「その魔法が無いからあの時皮を切れなかった。そして魔法が使えれば俺の疲労なんて簡単に解決出来ただろう」

「クスッ。お互いのことまだまだ分からないことばかりですね」

「なんだって?」

「私は元々魔力の扱いは得意では無いのです。不得意でも無いですけれど」

「だからって」

「しかし自分の血に生命力を込める技術は恐らくごく少数の人にしか出来ないことでしょう。そうですね……私はきっと生命力の扱いに長けた人なのでしょうね」

 そう言うと彼女はナイフをハンカチで拭った後、自分の鞄から小さな細長い筒を取り出し、自らの手首を切って血を流し込んだ。そしてコルクで栓をすると傷のない方の人差し指で傷口を撫で、まるで最初から何もなかったかのように傷は消えた。

「これは回復薬程度のものです。どう扱おうとデュネマドス様にお任せします。さ、お受け取りを」

 筒を両手で渡された。ケデューンの体温が伝わってくる。誰の血でもいい訳ではなく、市販の魔法の回復薬でもいい訳ではなく、ケデューンのような極めて現実的な方法でなければ俺は回復することができない。

 そうだ、その通り。俺には魔力を消す力が常時発動している。魔力という表現からもっと広げれば、現実以外の現象に関して一切を受け付けないのだ。

 しかしそれには例外がある。心巳【うらみ】の魔法だけは今の所消すことが出来ない。

「なぁ、聞きたいことがあるんだ」

「はい。なんでも答えますよ」

「どうして俺にここまでしてくれるんだ? 俺なんかに付き合うよりも、他にやりたいことはないのか?」

 笑みを浮かべていた表情が強張った。傷のあった手首をさすり、伏目がちに俺を見つめる。

 彼女には選択肢が存在しているようだった。思っていることを正直に言うか、それとも誤魔化してトレーを片付けに行くか。体はトレーを持って逃げようとしているように見えるのだが、口が何かを言いたそうに震えている。

 一度椅子の上のトレーを持つとすぐに椅子に置いた。

「デュネマドス様が何かをやり遂げた時、私も同じように達成感を感じます。私は私で自分の為に色々な問題を解いていって、少しずつ成長する自分に自信が持てています。そしてそれはデュネマドス様が成長していることも同様、まるで自分のように嬉しいのです」

「それがお前のやりたいこと?」

「はい! 後はあなた様は気付いていないようですが、私はあなたの優しさに心惹かれているんですよ」

 彼女の笑みは元々がその顔だったのではないのかと思えるほどに頭の中に焼き付く。俺の機嫌を取るための偽りの仮面を被っているように見えていたのだとこの瞬間に感じると共に、取り繕ったものが払われた今の表情は体がむず痒くなってくる程に可憐であった。

 これが好意であると解釈しない訳にはいかないのだ。

 彼女は血を抜いたというのに頬を少し赤らめ、トレーを持って部屋から出て行った。

 ……俺も、人として生きる為に動くべきか。

 俺は立ち上がった。部屋着から着替えてマントを羽織り、頑丈さが取り柄の剣と心巳から貰った切れ味が取り柄の魔法のナイフを身に付け、鞄を肩に掛けて部屋を出る。

 狭い廊下だ。宿と酒場が別々になっているにしても全体で見れば酒場宿では貧相な方だろう。部屋の広さを確保する為に廊下の幅を狭めたのだろうが、両腕を広げきるまでもなく通路の端と端に届いてしまう。邪推かも知れないがベッドもテーブルもばらした状態で部屋に持っていき中で組み立てているに違いない。苦労が目に浮かぶ。

 一階へ降るための階段の前でケデューンが店の手伝いをしているという陽気そうな少年のホルコスと会話をしていた。恐らく十二歳である俺の二歳年上、十四歳らしい。

 ケデューンが俺の気配を感じ取ったのか、通路の邪魔にならないようにさり気なく会話を終わらせて階段を降りて行った。

「よっ、マドス。ここの宿にも慣れてきたか?」

「その呼び名だけは慣れないな」

「ケデューンちゃんと発音がかぶるから区別するならマドスかなってさ」

「好きにすればいい。ところで、部屋の掃除でもしてたのか?」

「まぁな。それよりもケデューンちゃん可愛いよな。マドスの彼女だろ? あんな良い子滅多にいないぜ、大切にしろよな」

「彼女じゃねぇよ……」

「じゃあ早く彼女にしてやれよな! あの子はお前のことしか好きにならねぇだろうからさ!」

「はぁ? なんでホルコスがそんなこと分かるんだよ」

「俺は接客のプロの息子だぜ。他人の心を少し覗くくらい出来ない訳ないだろ?」

 ホルコスは本当に陽気だ。俺の肩をポンポン叩いた後、手を振りながら空き部屋に入って行った。

 ……敷かれたレールを渡る人生は退屈する。彼を羨む俺に彼は口癖のように答えた。

 店と客の境界がありながらも多種多様な人と関わっていけるこの酒場宿は楽しそうに見える。景色は変わらないのに毎日が新しい体験、これほど効率の良いコミュニケーション能力の向上はあまり無いはずだ。

 しかし彼は俺が羨ましいと言う。自分を形作るものを自由に選べられたらきっと楽しいに違いない、お前の自由が欲しいと。

「ホルコスは世界が狭いな」

 こここそが自由の行き着く果てだと思うのは、夢がないだろうか。

 階段を降って開きっぱなしの玄関を抜けると、すぐ隣に静かな酒場がある。ボロボロの扉を開いて中へ入るとケデューンが酒場の店員と談笑していた。

 俺は彼女を見つめた。なんと優しい笑顔なのだろう。彼女を見ていると何もせずこのまま時間が止まれば良いのにと考えてしまう。

 確かに会話は楽しい。一生役に立たないような情報でも他者の知識によって有益に変わる瞬間は、その情報に掛けた時間に意味を持たせてくれる。無駄のない効率の良い娯楽だ。

 しかしそんな楽しいことよりも彼女といる方が一番嬉しい。ただ黙って隣に居てくれるだけで十分だ。それに飽きることはないだろうが、もしも飽きたとしても一言声を聞いただけで退屈は消し飛ぶ。

 おかしいな、若さってもっと快活さがあるはずなのに。

 これ以上止まっていても不自然になる。俺はケデューンに近付いた。

「なーに話してんだ?」

「あ、デュネマドス様。ただの世間話ですよ」

 俺の問いに彼女はすらっと答えた。いつもより少し答える速度が速い。

 店員の……名前は知らないが若いのに目じわの多い青年がカウンターに肘を付いて話に混ざる。

「いやね、ケデューンちゃんが料理に興味あるみたいなんだ」

 彼女の表情が強張った。

「え、おいそれって世間と関係ある?」

「その土地の食文化を知ることは世間でもあるでしょう?」

「ああそうか」

 ケデューンは嘘をつく時、普段の素朴な感じが無くなって隙が無くなる。誠実な雰囲気というのだろうか、嘘をついているという疑いさえ持てないのだ。

 何を隠しているのか気になった。

「それで料理ってのは?」

「デュネマドス様?」

 俺が彼女の気持ちを無視して真実を知ろうとすると流石に怒った。それはそうだ、秘密にしたいです~ってアピールしているのに知らんふりされたらお前それどうなの? って俺でもなる。

 俺達は意外と対等なのだ。

「良いじゃんか気になるじゃんか」

「駄目です。絶対に教えません」

「なんでも血を増やせる食材とか知りたいみたいで、それをどう料理すれば良いかとか、」

「あれ接客のプロって他人の心を覗くことが出来るはずじゃなかったか?」

 話し相手が秘密にしようとしていたにも関わらず口が軽い店員に流石の俺もドン引きだ。

 やはりケデューンが無理をして血を出しているのかと心配が大きくはなるが、軽いキャッチボールのはずが全力投球で投げてくるものだから聞かなかったことにした。

 彼女はぷくりと怒った様子だ。俺の腕を引っ張って店を出ていく。背後から「いってらっしゃあ~」と適当な感じで送り出され、ああ俺が間違っていましたよと反省させられる。

 まぁ、しかし……腕組んで町中を堂々と歩ける仲では恋人と思われて当然か。

 そこのところの常識を知らない為、まだ恥ずかしさというものが分からないのかも知れない。いや……気を許してくれているだけか。

 ひねくれ者の俺にとっては素直になるのも一苦労だ。ケデューンが俺を裏切ることなど無いのに、裏切って欲しいと願っている。そうすれば自分の欠点が見えるはずで、もっと成長が出来ると考えているから。

 ただ成長している実感が無いだけなのかも知れないが。

 太陽は輝きを増している。ここは商業地、何でも揃う街。頭髪用洗剤から靴までここを回って手に入らないものなどない。それは例え金が無くともだ。

 食材屋が並べば次は金物屋、金物屋が並べば薬屋、薬屋が並べば家具屋探偵屋宿屋宝石店……利益を求めて今日も今日とて大変賑やかだ。

 俺と言えば、残念ながらそれらほぼ全ての所で働くすべを持っていない。もしも働けたとしても継続するだけの安定した家が無い。

 国に孤児として引き取ってもらう方法はあるが……それでケデューンと離ればなれになるのはごめんだ。

 だから俺達は冒険者ギルドとかいう俺達の為に作られたとしか思えない所で働くのだ。

 ……と、目的の場所が見えて来た。大きな建物でありながらろくにメンテナンスをしていないがため、外壁がぼろぼろの冒険者ギルド。その壁に背を付けながら分厚い本を読んでいる女の子が俺達に気づく。

 白のシャツとスカートに黄色のマフラーを巻いた美少女の心巳は、本を閉じて俺達に手を振った。

 ケデューンはすぐに俺の腕を離し、駆け足で合流する。

「おはようございます、心巳さん」

「おはようございますケデューンさん。少し早いですね、道に迷わなかったんです?」

「記憶力はあるみたいなので」

 口調は似ているのに、たった一言二言で別人なのだと分かる。

 不思議な感覚だ。他の人も彼女達と同じ人間なのに親近感は彼女達が一番感じる。これが好意なのだとすれば、俺は二人とも同じくらい好きだ。しかし彼女達の根本的な人格は全く違うだろうし、行動の行き着く先も交わらない。

 ケデューンは押し付けがましい所がある。自分の思う最良の行いを何としても遂行しようとし、口が上手いのもあるが説得が出来なければ我が身の品性を落としてでも駄々をこねて押し通そうとするのだ。わがままと言えなくもないが、あえて言うならばちょっぴりお節介な性格だな。

 対して心巳と言えばだが、かなりの不幸体質に見える。だからだろうか、いつの間にか心巳の考えている通りに物事が進んでしまう程の口の上手さがある。ひかえめな性格ではありつつも雰囲気や状況からつい心巳の意見に合わせてしまうのだ。

 一見心巳の方が賢そうに見えはする。しかし、人や世界を理解していく度にケデューンの選択がしたたかだったように思える。どちらも素晴らしく……恐ろしい。

「デュネマドスくんはここで上手くやっていけそうですか?」

 心巳が俺に話しかけた。

「さぁな。なにせ町中歩いて困っている人を助けてお礼を貰って、人の生活を最低限再現しようとしかしてこなかったんだ。それ以上のことなんて想像も出来ない」

 四六時中不安だ。安心させてやることすら難しい俺に、心巳は左のもみあげ辺りの髪をくるくると弄りながら答える。

「例え上手くいかなくても他の働き口なんていくらでもあります。私だってただ知恵があるだけで、経験の数を比べればデュネマドスくんとさほど違いはありません。私が失敗した時、あなたは助けてくれますよね?」

「助けるよ」

「私も逆の立場なら助けます。それがチームなんです」

 心巳は笑いはしなかった。場を和ませようと笑みを作っているケデューンとは対照的に、真剣な面持ちで手をギルドの扉へ向ける。

 リーダーを俺にしたいようだった。どう考えても喋ることすら出来なかった俺をここまでにしてくれた心巳こそが先頭に立つべきなのに、心巳は俺をそこに立たせようとする。

 ……俺は嬉しかった。きっと心巳はこの先の人生の答えをほぼ知っているだろう。しかし俺にそれを解いていくための機会を作ってくれているのだ。

 ケデューンは……心巳を睨んでいた。何が気に食わないのだろうか、心巳が俺を裏切ることなどありえないというのに、俺の視線など気付かないほどに注意を向けている。

 二人とも同じくらいに賢い。俺なんかよりも何倍も頭がいいはずだ。だから二人の考えていることなど正確に分かる訳がなく、学のない俺が予想で二人の考えていることを推理しているに過ぎない。しかし、ケデューンの今のその行為には衝撃を受ける。

「じゃ、開けるとするか」

 困惑を悟られないように体だけは動かした。

 ま、ケデューンのことだ。心巳が俺と一緒に行動する為だけに故郷を捨ててわざわざ俺を助けに来たのではないか、と疑っているのだろう。こいつは俺のことになるとすぐに形相が変わるからな。

 仲間のことで頭がいっぱいの俺は、空気ががらりと変わったことできょとんとした。

 冒険者ギルド『チュウマーチ』の面々を見て怖気付いたのではない。外の活気と違い物静かになったからでもない。この世界の空気を濁す異質であり俺達の同種が……今、周囲の視線を独り占めにしていたからだ。

「こんなチンケな報酬ではリスクに見合いません。ゴブリンの群れ撃退で小金貨二枚、さらに一匹ごとに討伐で大銀貨一枚、被害者の農家の証言だけでも二十匹が確認されていることからおおよそ百匹で大銀貨百枚。六万円と二十万円で二十六万円。準備にかかる費用と私が怪我をした場合を含めて報酬の上乗せを要求します」

 そいつは壊れかけの木椅子に座っていた。フード付きの黒いマントを被った少女だ。俺と同じ歳なのか、背が低いせいで足が床についていない。相対するは腹がフラスコのように膨れている中年男で、汚れの少ないソファに座っていることからギルドでの高い地位に居るものだと推測出来る。

 男は……困っている様子だ。怒ってはいない。

「そうは言っても中央の国営ギルドから譲り受けた依頼だからなぁ。上乗せすればうちらの利益が無くなってしまうんだ。それに群れの撃退の報酬については三人までならそれぞれに金貨二枚を払うと書かれているんだ、君一人でやる必要はないだろう?」

「分かりませんか。私は一人で殲滅する力はありますが、入りたてのDランクが受けられる限度いっぱいの仕事がこれしか無いのでやろうと言うのです。雑魚と言えど、数の多さから引き受ける低階級の者が居なければ、わざわざこんな安い仕事に手を出す高階級の者も居ないと聞きます」

「つまり……何が言いたい」

「私は信頼を売りたい。懐から金を出すだけでこの冒険者ギルド『チュウマーチ』は先々の依頼を減らさずに済むでしょう。それと……私の言う通りにしなければ、いくら慈悲深いあなた方でもたった数年でここは廃業です」

 彼女の容姿は幼い。しかしそれに反して言葉の説得力には無視出来ない芯の硬さがある。

 男は懐のボロいハンカチを取り出して汗を拭う。素直に分かりましたと、入りたてのDランクという信用しようにも無理な相手に安易な言動は避けたいか。

 ど素人の俺がもしも彼女ならば、ゴブリンを引き連れてわざと騒ぎを起こし、それの討伐依頼を発行させて俺が討伐したように見せかけて繰り返し金を稼ぐ。みかじめのようなものだな。

 しかし……彼女は回りくどいことをしている。報酬を増やせと単純なことを言い続ければいいものを、まるでわざと相手に揚げ足を取らせようとするかのように余計なことをずっと喋っている。

 金が欲しければ偽装すればいい。しかしだ、彼女の目的は金ではない。物言いからギルドに恩を売ることでもない。

 不思議なことに、俺には彼女がそのはた迷惑なゴブリンに似た存在のように見えている気がした。

 何故だか心が躍る。ここぞとばかりに力が溢れて暴れたい気分だ。ケデューン、心巳、そして謎の少女……この三人をまとめて見ると『揃った』と感じる。馬鹿な話、まるで俺が王様になったかのように錯覚するのだ。

 生まれてから一度も感じたことがないとてつもなく大きな悪い予感が、人生の中で一番楽しみにしていた自分がいる。

 俺は記憶ではなく魂で知っていた。揃った彼女達はどんな惨劇よりもヤバイと──。

 ……黒マントの彼女の首がゆっくりと回り、フードの中からルビーの赤い目が煌めく。真後ろの俺を見て小さな口が口角を上げた。

 その意味を考えるより早いか、俺は彼女の横に並んで木椅子の背もたれに手を置き、男と面を合わせた。

「待てよ。敵を倒すだけの簡単な仕事で金が入るって言うなら、俺もやりたいんだが?」

 謎の少女は嘘っぽく笑う。

「この仕事は三人までです。あなたのお連れの人が邪魔ですね」

「はぁ?」

 だんまり決め込んで見守っていたケデューンが声を荒げた。俺が彼女に振り返ると、ケデューンは心巳に対する疑心にさらに上乗せされてか、額には青筋が立っている。

「依頼は強制されている訳ではないですよね、受けるか受けないかのどちらか二つで延々ゴネて意地汚いことです」

「あ、一目見ただけで分かりましたあなた性格悪いでしょう。散々周りに助けられておきながら美味しいところは全部貰おうとする人間未満のゴミ、クソゴミです。三人とゴミなら別に問題ありませんでしたね失言でした~」

 初対面のはずなのに、ミステリアスな雰囲気をぶち壊して謎の少女がケデューンに嫌悪感たっぷりに突っ掛かる。

 ケデューンもケデューンで、言動全てが今まで見たこともないように激しくなり、俺と少女と男の間に入った。

「ギルドマスター! こんなどうしようもない馬鹿面なんてほっといてください! その仕事私一人でやります。無償で良いです! こんなバカは相手にしない方が馬鹿が移らなくて済みます!」

 すると男……本当にギルドマスターなのか、彼は他の面々と同じように呆気に取られて返事を返さなかった。

 一方、馬鹿と罵られた謎の少女は急に激怒し、ケデューンを突き飛ばしながら立ち上がる。

「騙されてはなりません。このゴミが無償で面倒を引き受けるなど、碌でもないことを考えているに決まっています。大方、少しでも好印象を持ってもらって、人の善意につけ込んで大切なものを全部掻っ攫うつもりなのでしょう。こいつはゴミです」

「騙されないでください! このバカは人間の持つおおよその倫理観が欠如したバカなのです! 少し報酬を上乗せすれば完璧に依頼を完遂すると言いたいのでしょうけれどね、こいつの頭の中は大切なもの以外全てどうでもいいのですよ! こんなバカに付き合っていたらやがて破滅するに決まっているのです!」

 バシッ! バシッ! ケデューンはテーブルに激しく平手を打ちつけて抗議した。

 俺はといえば、もっと知的なコミュニケーションが出来ると期待していたために、この服を脱ぎたくなるほどの熱い空間にこれ以上は居づらくなり、そっと後退した。

 おっとここで心巳が前に出た。

「マスターさん、やめておきましょう。私に任せてくださるのであれば、この依頼以外の引き受けられずに無効期限になりそうなもの全てを私が完遂します。そうすればこのギルドは最大効率で利益を得て、かつ他ギルドから譲り受ける依頼を選別する必要も無くなります。実に良い取引でしょう?」

 なんと良い顔で無茶を言う。心巳は余裕の笑みというのだろうか、内容はともかく安心感を押し付けられる。

 そこでケデューンが再びバシバシした。

「絶っっっ対に駄目です! ノミの言うことなんか聞いては!」

「ケデューンおいっ!?」

 さっきまで彼女とにこやかに会話をしていたケデューンが心巳に牙を剥き始めた。流石の俺でもツッコまずにはいられない。

 そうなると、何かの化学反応が起きたのか、さっきまでケデューンにゴミを見るような目で見ていた謎の少女が援護射撃を行う。

「そうですね、このノミは女の嫌なところを煮詰めたクソです。他のギルドが好条件を出せばすぐに鞍替えして、今までの恩なんか知らんふりして寄生するに決まってます」

「悔しいけれど、このバカの言う通りです! 他人に色目使っておいて気に食わなければすぐに捨てられるのが落ちなのですよね!」

 バシバシッ!

「はい? ゴミとバカの分際で楯突こうという気ですか? いい度胸ですね今すぐ表に出て命を賭けたデスゲームでもしますか?」

 真顔と憤怒と笑顔。何がきっかけだったのやら、三人はあの冷静な面を投げ捨て、感情を剥き出しにして激突した。

 この三人の共通点といえば、恐らくは誰かの為に道を用意するタイプだということだ。ケデューンは俺の為に人の輪を広げるように動いていたし、心巳は俺の為に一人でもやっていけるように動いていたし、謎の少女はきっと俺が交渉で優位に立てるように物事を誘導していたような気がする。それが結果として現れる前に道が重なったせいで三人とも癇癪を起こしたのだ。

 何となくではあるが、俺が三人の提案の内一つを選べばこの場はおさまるのではないだろうか。しかし、ケデューンも、心巳も、初対面である謎の少女でさえどちらも大切なのだ。だから俺はここから先動けば何かを切り捨ててしまうような気がし、ただ眺めることにした。

「おいおい、うちが出した依頼で喧嘩なんて馬鹿らしいとは思わないか?」

 ギルドマスターはこのやり取りを一蹴することはせず、静かに声を掛けた。

「ば、馬鹿? 今バカと言いましたね。私が悪いということですか」

「なんでそうなる」

 謎の少女が過剰反応する。そこを心巳は見逃さなかった。

「馬鹿騒ぎの原因はどう考えてもバカが調子に乗ったことなんじゃないですか?」

「ノミが調子に乗ってでしゃばったからややこしくなったのでしょうが!」

「ゴミは黙っててくれません?」

「はぁ!?」

 ケデューンの怒りは止まることを知らない。心なしかケデューンの荒ぶりに伴って部屋の温度が上がっているような気さえした。

 彼女に八つ当たりされているテーブルには亀裂が入るもバシバシと追いうちを掛けていく。

「私が一人で依頼を無償で請け負うことの何が悪いと言いますか! 建物のメンテナンスが出来ない程に冒険者に対して最大限尽くしてくださっているチュウマーチの皆々様が良い思いをしてもいいじゃないのかと、そう思うことの何が悪いのです!」

 ケデューンはそういうことを考える。自身の苦労を度外視して、周りの利を最優先にするのだ。

 ……と、話の流れを読むに、心巳にのけ者にされそうになったケデューンは話の筋を戻すことにより、逆に心巳をのけ者にする作戦のようだ。

「では、最初から報酬を受け取らないのではなく、受け取った後で返還すればよいでしょう」

 謎の少女はケデューンに攻撃するものの、ケデューンの作戦に乗っかって心巳を無視した。

「私はあなたみたいなバカに騙されないようにしたいのと、後! 好印象を貰いたくて言ってる訳ではない! 手間が省けて良いでしょうが!」

「ゴミには金の使い道がまるで分かっていないようです。このギルドにこだわる理由は、まぁ、ゴミみたいなものでしょうけれど。慈善活動がしたければ他所に行ってくださ~い」

 謎の少女は……なんか、この世の全員から嫌われても構わない振る舞いだ。しかし、自分の印象が悪化するたびに俺を見ているのは何故なのだろうか。

 バシバシッ!

「私はケデューン! 遥か遠くから旅をして流れ着いた者です! あなたは!」

「何故名乗る必要が」

「……あなたを私のライバルと認めているからです」

 ギルドメンバー全員が首を横に傾げた。

 俺はケデューンの考えそうなことが分かりそうなので、痛く感動した。

 単純にケデューンと心巳と謎の少女は同種だ。力量も互角に違いない。考え方が正反対でも背中合わせだ。それをケデューンは互いに潰し合って高みを目指そうと言っている。

 謎の少女はその意を受け取れる。彼女の真顔は口角を上げ、体をボロ椅子に戻した。

「……シパルです」

「バカみたいな名前ですねぇ」

「死にたい?」

 心巳は空気を読まずか、それとも活路を見出したのか。シパルがまんまと反応する。

 あまりの喧嘩の熱と長さに建物内に居る俺を含めた部外者達は、床にシミが出来るのではないかという程に汗がだらだらだ。

「私が話をまとめてあげましょう。シパルさんはどんな手を使ってもデュネマドスくんの顔を立てたい。ケデューンさんはとにかくデュネマドスくんとギルドメンバー達を仲良くさせたい。私はデュネマドスくんを早急に成長させてあげたい」

 心巳は俺の背後に回って肩に両手を乗せ、そっと前に押した。

「良い方法があります。彼と私達がこのギルドに加入し、ギルドメンバーとなります。そしてギルドメンバーとなった私達とデュネマドスくんが仲良くなります。そうしてメンバーのリーダーへとなり、やがては沢山の依頼を任せられるようなベテラン冒険者に変わるんです」

 そう言われたケデューンとシパルは互いを見つめ合い、しばらくののち頷いた。

 ……は?

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