「のうみそこわれましたか?」
工場の仕事にありついた。日当一万を超える、長期案件だ。そんなに名前が知られていない派遣会社の新しい社長が拾った案件で、良い職場の筈だが人が定着しなくて悩んでいると、直に言われて引き受けた。
「仕事には慣れましたか?」
「いやあ、勉強する事が多いです。もっと教えてください。」
「真田さんは真面目で、助かってます。分からない事は聞いて下さいね。」
良く分からないが、良い職場だと思う。他の現場も入ったが、日当一万で入りたいという人はいくらでもいるだろうし、人が定着しないのは何だろうと思うぐらい、誰も優しく、仕事に真面目だ。厳しいというが、6日の日程という事務所移転の現場まであって、いくらでも人がいるだろうになと、思うぐらいだった。
機械のメンテナンスが多い仕事だった。昭和から動いている機械なので、頑丈だが手間がかかるのだ。簡単な事は教えられるが、多少難しくなると、工場長が「俺がやっとく」と言って、自分で調整する。少しは教えてくれるが、こっちが分かる訳がないミリ単位の調整のコツを言って、俺が無言になると、工場長はもう何も言わなくなる。他にも仕事があるので、見ていたい気持ちを押し殺して、その場を離れると言う事が多かった。こういう、職人気質な仕事の仕方が原因かなと、思いはしていた。だが、やる事は多いから、拘らなければいいだけの話じゃないかと、思っていた。
「のうみそこわれましたか?」
背筋がぞっとするような、空耳が聞こえた。なんなんだ。のうみそがこわれる?いや、こわれてないが。最初のそれはよく覚えている。だが、それ以来、何度も起きた空耳について覚えていない。気持ち悪さがずっと先だって、記憶しないというのを、人間の頭ってどうなってるのかな、と。何だろうと思いながら、ずっと仕事をしていた。
何か、俺は強いストレスを感じているのだろうか。そう思いながら、一人で何十回も空耳を聞き流した。
「のうみそこわれましたか?」
うるさい。パートのおばさん達と話しながら、談笑しながら、笑顔を保ち続けた。業務中も、休憩中も、ずっと耐えていた。ある時。昼休みの時間、たまたま俺は機械の不具合に気づいて、工場長がやっていた事を思い出して、これはこうすればこうなる筈と、見当を付けて調整していた。
「のうみそこわれましたか?」
俺の我慢が限度を超えた。結構な値段がする、強靭で軽い工具を振りかざし、後ろにある緩衝材に向けて、叩きつけようと振り向いた時。陰鬱な表情で俺を見ていたらしいパートのおばさんの一人が、あ!と、声を上げた。工具を自由の女神みたいにした俺と、おばさんは、しばらく見つめ合った。もしかして。
「あ、工具が壊れてて。つい。」
「そうなの。なんだか、顔が怖いわねえ。」
「いやあ、工場長ほどにちゃんと機械見れないから。」
「あはは、工場長と比べたら可哀想よ。あの人、長いんだし。」
「そうですね。ところで、この工具、壊れてるように見えます?」
「さあ、良く分からないわね。焦らないでいいのよ、来てもらって助かってるのみんな。」
「すいません。心配して貰って。」
俺は、機械の修理に戻った。それから、空耳は聞こえなくなった。




