9. クラヴァンテ辺境伯家の宿願
翌日の午後。 図書館でギスカール親子と合流したリズベットは、午前中を読書に費やし、昼食をシャロナと共にしながら、祖父の大伯爵とアルゼンの母親についての話を聞いた。
大伯爵ルヴェインこそが、アルゼンとリズベットの縁談を画策し、成立させた張本人だった。クラヴァンテ家が中央政界との繋がりを求めて奔走してきた歴史は、かなり以前にまで遡るという。
「実は、先代伯爵様の代にその悲願は成就するはずだったのです。中央の権勢ある公爵家の令嬢と、幼い頃から婚約もされていましたから。
けれど、先代様がそれを反故にされたことで、すべては水の泡となってしまったのです」
その理由は、アルゼンの母・トリシだった。中継貿易と漁業を主産業とするラベンナでは、海賊の掃討に加え、稀に海に現れる「魔獣」の退治が重要な課題だった。
数百年に一度現れるかどうかの危険な海魔獣の遠征で危機に陥った際、冒険者であったトリシのパーティーに助けられたことが縁となった。当時、トリシがアルゼンの父・ギセンの命を救い、共に魔獣を討ち果たしたことで、2人は運命的な恋に落ちた。
ギセンが婚約を破棄すると宣言した時、家門全体がひっくり返るほどの大騒動になったという。後継者の地位を剥奪するという脅しにもギセンは屈せず、彼に負担をかけまいと密かに去ったトリシを追い、自ら伯爵家を出て行った。
家を離れて暮らしていた2人は、アルゼンが生まれて数年が経った頃、大伯爵ルヴェインの呼び戻しを受けてようやく復帰した。
2人の愛は最終的に認められた形だが、家門が受けた打撃は深刻だった。破談による経済的損失もさることながら、何よりクラヴァンテ家の宿願であった中央とのパイプは完全に断たれてしまったのだ。
トリシの身分も噂の種となった。彼女が海を越えた遠い国から来た素性不明の異邦人であることは、人々の格好の餌食となった。「貴賤結婚」というレッテルを貼られ、社交界では徹底的に無視された。
2年前に亡くなった姑のカトレンはトリシを疎み、事あるごとに難癖をつけてはいびり抜いた。その血を引く孫のアルゼンさえも、快く思っていなかったという。
それでもギセンが爵位を継承できたのは、大伯爵ルヴェインの決断があったからだ。三人の子の中で最も優秀であると判断したことに加え、アルゼンの存在が大きかった。
トリシは名の知れた冒険者であり、実は『闘神の加護』を持つ凄腕の戦士だった。アルゼンはその母の加護を受け継いでいたのだ。聡明で優れた才能を持つ孫に、老いた祖父は期待をかけるようになった。
貴賤結婚。 その言葉が、リズベットの脳裏に鋭い刃のように突き刺さった。高名な冒険者であり、優れた戦士であったトリシでさえそんな扱いを受けたのだ。
ましてや、自分は彼女と比べるべくもない「偽物」だ。 もし大伯爵がこの事実を知れば……。想像するだけで背筋が凍る。
「奥様? どうなさいました?」
シャロナが心配そうにリズベットの顔を覗き込んだ。リズベットは慌てて話題を変えた。
「あ、いえ、何でもないわ。……それにしてもシャロナ、どうしてそんなに詳しいの?」
シャロナはにっこりと微笑んだ。
「父がトリシ様のパーティー仲間だったのですよ。レトナ城の筆頭騎士であるフェラトン様もそうです。トリシ様との縁があって、私たちはここに腰を落ち着けることになったのです」
「トリシ様……お義母様は療養中だと聞いたけれど、お加減が良くないの?」
「先代様が海難事故で亡くなられたショックで、ひどく衰弱されてしまって。……実はそれ以前に、流産を経験されたことが決定打だったのですが」
シャロナは一瞬言葉を止め、リズベットに釘を刺した。
「今のお話は、絶対に閣下の前ではなさらないでください。ひどく嫌がられますから」
「わかったわ」
「トリシ様は本当に素敵な方です。堂々としてリーダーシップがありながら、愉快で繊細な面も持ち合わせている、そんな方です。お会いになれば、きっと好きになりますわ」
シャロナはリズベットを見つめ、優しく微笑みかけた。
「奥様のような素晴らしい方が嫁いでこられたと知れば、きっとお喜びになりますわ。あの方は本当に息子思いですから。
……結婚式の日は何も仰いませんでしたが、相当心を痛めておいででした」
リズベットの心境は複雑だった。これまでは自分を「身代わりの被害者」だとばかり思っていたが、事実は違った。アルゼンもまた、この詐欺同然の結婚の被害者なのだと悟ったからだ。
(本当に悪いのは、あの公爵家じゃない? ……こっちは、騙された側だし)
やはり、何も言わずに逃げ出すよりは、正攻法で「離縁」される道を選ぶべきだ。リズベットは準備が整い次第、速やかに行動に移そうと、改めて決意を固めた。
*** ***
大伯爵ルヴェインは、レトナ城からほど近い別邸で暮らしていた。堂々たる体躯に、凛と伸びた背筋。ルヴェインは、まさに「貴族」を体現したような、威厳ある印象の老紳士だった。
すべてを見透かすような冷徹かつ分析的な視線を前に、リズベットは激しい緊張に包まれずにはいられなかった。
「ここでの生活には慣れたようで、安心したぞ。ギスカールから聞いたが、諸国の言葉を解読できるそうだな」
懸念とは裏腹に、ルヴェインは上機嫌でリズベットを迎え入れた。
「ほんの嗜み程度でございます」
「法典や判例集を読み解くほどであれば、もはや『嗜み』の域ではない。学びが深いというのは、良いことだ」
満足げにリズベットとアルゼンを眺めていたルヴェインが、言葉を続けた。
「一日も早く、後継の顔を見せておくれ。トリシの体調が優れぬため、今は私が一時的に内政を総括しているが……。最初の子を産んだ後は、お前が伯爵家の内政を切り盛りすることになるのだからな」
「子を産む」。 その言葉に、リズベットは心臓が飛び出しそうになった。
(本気で妊娠なんてしちゃったらどうするのよ!? 私もだけど、生まれてくる子供に何の罪があるっていうの!?)
リズベットの心中も知らず、アルゼンが事もなげに答える。
「努力いたします」
リズベットは心の中でアルゼンを激しく睨みつけた。
(この男、まさかそのために毎晩あんな……っ!)
「ああ、危うく忘れるところだった。過ごしていれば、個人的な物入りもあるだろう。
リズベット、お前の名義で年金を策定しておいた。年に大金貨1000枚だ。小遣いと思って自由に使うがいい。足りなければ執事長に申せ」
「……ありがとうございます」
思いもよらぬ申し出に驚きつつも、リズベットは有り難く受け取った。
(大金貨1000枚……。価値にすると、どれくらいかしら?)
これまで読み漁った本の内容を元に、脳内で価値を換算したリズベットは、即座に驚愕した。大金貨一枚を約10万円の価値だと仮定すると、大金貨1000枚は――約1億円。
(……一年の小遣いが1億円!?)
呆然としたまま大伯爵との昼食を終え、別邸を出たリズベットは、次なる目的地、アルゼンの母トリシが療養している屋敷へと出発した。
馬車の中で、リズベットは隣に座るアルゼンを盗み見た。
(この人、いかにも馬に乗って颯爽と移動しそうな顔をしてるのに、なんでいちいち馬車に乗るのよ。馬車の中くらい、一人でリラックスしたいのに)
そんなことを考えているうちに、ふと「馬」というキーワードが脳裏に刺さった。
(そうだ、乗馬。乗馬も習っておかなきゃ。徒歩で逃亡するわけにはいかないものね)
離縁されるにせよ逃げるにせよ、短時間で遠くへ離れるには「馬」が必須だ。
(『一頭ちょうだい』って言えばタダでくれるのかしら。それとも小遣いで買うべき? 馬って結構高いみたいだし……。
大富豪の奥様として生きた経験がないから、金銭感覚が追いつかないわね)




