7.『美の錬金術』
本の表紙を見下ろしたリズベットは、感嘆の声を上げた。
「なんて美しい本なの!」
黒い革張りの表紙の中央には、銀の縁取りがなされた大きな円形の装飾があり、その中には宝石で作られた巨大な「目」が埋め込まれていた。
無数の小さな宝石が眼の形を成し、瞳には大きく透明な宝石が輝いている。その目の下には、まるで絵画のような美しい文字で題名が記されていた。文字そのものも宝石や金銀で装飾されており、それ自体が類まれな芸術作品であり、至宝であった。
その題名は、瞬時にリズベットの興味を惹きつけた。
「『美の錬金術』。名前も、この本そのものみたいに綺麗」
続いて、円形の縁取りの中にあるものも単なる文様ではなく文字であると気づいたリズベットは、頭に浮かぶままにそれを読み上げた。
「『これは神の知恵であり、神秘なり。許されし者のみが、この神聖なる知識を拝領できる。真に警告する。不当にこの神秘を外部へ漏らす者には、死の翼が舞い降りるであろう』」
リズベットの声に反応するかのように、周囲の空気が揺らぎ始めた。やがて空気は重苦しいほどの密度へと変わり、無数の銀色の粒子が咲き乱れては、キラキラと宙に浮遊した。そして本の表紙の上に、手のひらの形をした半透明な映像が浮かび上がる。
意味がわからず躊躇していたリズベットだが、その掌の形にそっと自分の手を重ねてみた。すると、彼女の掌から眩い光が漏れ出した。
それに呼応するように円形の文字が一斉に白い輝きを放ち、瞳に埋め込まれた宝石が深い青色に発光する。そしてページが独りでにめくれ、最初のページが露わになった。
本の内部は紙ではなく、極限まで薄くなめされた「何かの皮」であった。ページの上部には図形のような文字が、下部には美しく彩色された挿絵があった。
それは、青い服を纏った男の横顔だった。驚いたことに、その絵がアニメーションのように滑らかに動き、男がこちらを向いたのだ。それと同時に、上部の文字が生き物のように動き、再配置されていく。
リズベットは、文字が光る順にそれを読み解いていった。
「『神の知恵を継ぐ者よ。我はメルカリアス。ここに記されたのは、究極の神秘へと至る道である』」
隣にいるギスカールの体が激しく震えているのを感じ、リズベットは読むのを止めて彼に視線を向けた。
目を見開いたギスカールの顔色は蒼白で、じっとりと脂汗が滲んでいた。
「大丈夫ですか?」
リズベットが心配そうに尋ねると、ギスカールは夢から覚めたように何度か瞬きをし、突如としてその場に平伏した。
「奥様、あなた様は真に神秘の伝承者であらせられる。どうか、この愚かな弟子に、至高の神秘と知恵の端くれに触れることをお許しください!」
「どうか、お慈悲を……!」
シャロナまでもがその横に跪き、懇願した。
リズベットは激しく狼狽した。
「どうしたの、二人とも。立って、顔を上げてください!」
しかし、二人は微動だにしない。
ギスカールが震える声で言った。
「メルカリアス様は、あらゆる魔術の始祖であり起源であらせられる偉大なお方……。御名は伝わっておりますが、その御方が遺した記録は何一つ残されてはいないのです。
奥様がいらっしゃらなければ、この至高の神秘を知る術はありませんでした。どうか、我らを導いてください!」
「導くなんて、とんでもありません。私はただ、これが読めるだけで……」
頑として動かない親子を前に、リズベットは仕方がなく彼らが望む答えを口にした。
「私に助けられることがあるなら、そうしますわ。だからお願い、顔を上げて」
「感謝いたします。真に、感謝の極みにございます!」
リズベットの返答を聞いてようやく、ギスカールは何度も頭を下げながら立ち上がった。
リズベットは自分にこれほどのことが可能である事実に驚きつつも、『美の錬金術』という題名に強い引力を感じていた。
もしかすると、この本を通じて、ここを去った後に生きていくための「技術」を手に入れられるかもしれないという期待が芽生えたのだ。
(ヘアメイクとしてのキャリアを、活かせるかもしれない!)
そんな期待を胸に、リズベットは再び読み進め始めた。
「『この神秘に到達せんとするならば、まず備えるべきものがある』」
メルカリアスの前に長い棚が現れた。続いて彼の背後から、頭を垂れた人々が次々と現れ、棚の上に様々な道具や品を置いていく。
メルカリアスが最初の品を指さすと、それが宙に浮かび上がった。リズベットの目に映ったそれは、金属で作られた一種の精密機械のように見えた。
「『すべての始まりは純粋な水に由来する。汝らはまず、無色・無臭・無菌の純粋な水――即ち「精製水」を作らねばならない』」
シャロナが控えめに尋ねた。
「無色・無臭というのはわかりますが……『無菌』とはどういう意味でしょうか?」
どう説明すべきか苦心していると、頭の中に少しずつ概念が浮かんできた。
「病や腐敗には原因となる、目に見えないほど小さな『種』のようなものがあります。それを完全に取り除いた、清浄な状態のことです」
シャロナとギスカールは一瞬首をかしげたが、ひとまず納得したようだった。
精製水を作るためには、この精製装置を作らねばならない。そして、その装置を動かすには「魔動炉」が必要だった。
「その『魔動炉』とは、一体何なのですか?」
今度はギスカールが尋ねた。
「魔動炉というのは、その……一種の『発電機』のようなものだと考えてください」
リズベットが魔動炉について説明しようとすると、ページが独りでにめくれ、その姿を映し出した。ドーム状の蓋がついた円筒形の金属設備の上に、鳥が翼を広げたような形状の金属翼が取り付けられている。
リズベットは、図の上に現れる説明を読み上げた。
「『魔動炉は魔力だけでなく、太陽や風の力、空気中の魔素を機械的エネルギーへと変換し、各種機械を稼働させる装置である』とありますね。そして、これが『魔動炉』を指す文字です」
リズベットが指さしたのは、文字というよりは絵に近かった。翼を広げた鳥が、両足で燃え盛る球体を掴んでいる姿だ。
「ああ、これはそういう意味だったのか……!」
ギスカールが感無量といった表情になった。
「古代文献や石碑で往々発見される紋様ですが、何か建物や遺跡を示す図案だと思われてきました」
魔動炉は、複数の魔石と貴金属を組み合わせて作るものだった。核となる巨大な魔石が心臓部であり、どの魔石をどれだけ使うかによって、生産できるエネルギー量が変わるのだという。
製作法を辿ると、複雑な回路図のようなものが現れた。半導体の回路が重なり合っているようでもあり、立体的で多層的な迷路のようでもある。
(なんて不思議な形。見ただけでも、今よりずっと発達した高度文明だったのは間違いないわね。今の技術で再現するのは、到底無理なんじゃ……)
リズベットがそう考えた時、ギスカールが言った。
「最初のページにはこれ以外にも様々な装置がありました。これらを具現化するには、最高レベルの『造形術師』が必要でしょうな」
造形術とは、錬金術の中でも事物を生成するスキルであり、それを専門とする者は造形術師と呼ばれた。リズベットもゲームの知識として、その存在は知っていた。
だが、何でも自由に生み出せるわけではない。材料を揃えるのはもちろん、生成しようとする物の形態と構造に関する完璧な知識が前提となる。
しかし、数千年も前の古代文明の技術を再現するなど。リズベットには、不可能なことのように思えた。
「この本にあるものを造形術で作ることって、できるのでしょうか?」
「奥様が書を読み解いてくださるなら、試みる価値はあります。これほどの難業を成し遂げられる造形術師に心当たりがございます。 差し支えなければ、レトナ城へその御方を招いてもよろしいでしょうか?」
リズベットとしても、今起きている出来事が不思議でならず、この本の内容が実現する瞬間を見てみたいという思いがあった。
「ええ。もし可能なら、私もぜひ見てみたいです」
「感謝いたします。さっそく連絡を取りましょう」
『美の錬金術』には精製水に始まり、化粧品や化粧法、香水、薬学、染料と染色、織物、そして宝石に至るまで――化学、鉱物学、薬学に基づいた膨大な知識が収められていた。
内容をざっと確認する作業だけでかなりの時間が経過し、リズベットは完全に疲れ果ててしまった。
「おかしいわね。本を読んだだけなのに、こんなに疲れ果てるなんて」
「本を開き、読み解くことに、多大な『魔力』を使われたからでしょう」
シャロナの言葉に、リズベットは首をかしげた。
「魔力を使った? 私は魔導士ではありません」
シャロナはにっこりと微笑んだ。
「魔導士でなくとも、誰もが程度の差こそあれ魔力を持っています。奥様は、格別に強い魔力をお持ちのようです。この本を開いた瞬間から、その魔力を使用されていたのですよ」
「じゃあ、私でも魔導士になれるのかしら?」
これにはギスカールが答えた。
「詳細はテストをしてみなければ分かりません。魔力を『魔法』として具現化するのは、また別の領域の話ですから。
強い魔力を持っていても、魔道回路が開いていないために魔法が使えないケースも往々ございます」
「一度テストを受けてみたいけれど、今は疲れすぎて無理そうです。また明日にでもお願いします」
「我らこそ、何とお礼を申し上げればよいか……。このような夜更けまで引き止めてしまい、申し訳ございません」
「いいえ。私も、この本から学べることは多い気がして嬉しいです」
3人が図書館を出たとき、侍女のメリンダとシャロナの二人の子供は、扉の横の壁に寄りかかって眠り込んでいた。
お腹は空いていたが、あまりに遅い時間だし、苦労をかけたメリンダにさらに用事を言いつけるのは忍びなかった。部屋に戻ったリズベットは、ベッドに倒れ込むなり深い眠りに落ちていった。




