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5. 二度目の夜

 伯爵の後に続きながら、リズベットは彼の高い背、広い肩、そして引き締まった肢体を盗み見ていた。


(顔や体は、本当に完璧だわ。まさか、暴力を振るったりはしないわよね? あの体格で一発殴られでもしたら、私の骨なんてひとたまりもないわ)


 そんな物騒な想像をしながらダイニングルームへ入ったリズベットは、従者が引いた椅子に腰を下ろした。


 昼に食べたものとは別の種類のスープに続き、サラダとパン、そしてメイン料理である魚の蒸し物が運ばれてきた。1メートルはあろうかという巨大な魚の上に焼いた果実が添えられ、その周囲には一緒に蒸し上げられた野菜や果実が色鮮やかに並べられている。


 魚の香ばしい匂いに、忘れていた空腹が刺激され、一気に食欲が湧き上がってきた。


 従者が手際よく魚を捌いて伯爵の皿に盛り、続いてリズベットの前にも柔らかな身と彩り豊かな野菜が並べられた。リズベットは伯爵を横目で見やり、彼の動作を真似るようにして食事を始めた。


 幸い、貴族としての食事作法は体が覚えていたようで、自然と手が動いた。白身魚は程よい弾力がありながらも口の中で解けるほど柔らかく、凝縮された旨味が広がった。


 一心不乱に食べるリズベットの様子を、伯爵が意外そうに見つめていた。


「内陸の者たちは、こちらの料理を敬遠することが多いと聞いていたが。昨日と言い、君は案外よく食べるのだな」


 本物のリズベットならそうだったかもしれないが、中身であるハルナは元々、大の魚好きだった。


「料理人の方の腕が良いのでしょう。とても美味しいです」


「そうか。それは良かった」


 短い会話の後、沈黙が流れる。黙々と食事を続けていた伯爵だったが、ふと思い出したように再び口を開いた。


「図書館で法典や風俗記を読んでいたそうだが。ああいったものに興味があるのか?」


 虚を突かれたリズベットは、適当な言葉で取り繕った。


「あ、ええ。これから暮らしていく場所のことですから、少しは知っておくべきかと思いまして」


 伯爵は例の、感情の読めない瞳でリズベットをじっと凝視した。

 リズベットは居心地の悪さを誤魔化すように、ひたすら食べることに集中した。


 伯爵が問いかければ短く答え、また食べる。その繰り返し。


 結果として、リズベットはなんと三皿分もの魚を平らげてしまった。元のハルナであれば決してしないような過食だが、一日中頭を使い続けた空腹感に、料理のあまりの美味しさ、そして何より伯爵からの追及を逃れたいという心理が働き、いつの間にか限界まで食べていた。


       ***    ***


 夕食を終えた後、伯爵は執務室へ向かい、ハルナは自分の部屋となったあの広い寝室へと戻った。侍女たちの奉仕を受けて身を清め、ガウンに着替えると、今日もまたテーブルには軽食と酒が用意されていた。


 侍女たちが退室し、一人きりになった彼女は、ベッドに腰掛けてこれまでの情報と今後の計画を整理し始めた。


(今までの状況は悪くないわ。周りの人たちは礼儀正しいし、伯爵も今のところは凶暴な性格には見えない。……あくまで、今のところは、だけど)


 しかし、替え玉であることが露見すれば、事態は一変するだろう。公爵家からは見捨てられ、ここでは文字通り孤立無援になる。破局が訪れる前に離縁されるか、あるいは逃げ出すか。やはりそれが正解だ。


 問題は、今の自分には身を守る能力も手段もないということ。ここを出た後の生活費も大きな課題だ。


(まずは何としてでもお金を工面しなきゃ。それから、信頼できる協力者も必要ね)


 当面は図書館で必要な情報を探し続けることに決めた。ゲームで得た断片的な知識だけでは、いざ外に出た時の荒波には対応できないだろう。


(それはそうと、今夜はどうすればいいの? 昨日は泥酔して記憶を飛ばしたけれど、今日もまた同じことをしたら、さすがに怒られるかしら)


 昼間に読んだ判例集でも、妻が夜の営みを拒むことは離婚の正当な理由の一つに挙げられていた。おまけに、昨夜はすでに既成事実を作ってしまっている。この状況で逃げ切る術はない。


 どうすべきか迷った末、リズベットは少しだけ酒を口にすることにした。素面でこの夜を乗り切れる自信が、どうしても持てなかったからだ。


(弱くなったわね、ハルナ。あんた、こんなタマじゃなかったでしょ?)


 自分を叱咤してみたものの、やはり無理なものは無理だった。


 結局、テーブルの前に座り、昨日よりサイズの大きくなった銀の杯に酒を注いで煽った。


「コップが変わったと思ったら、お酒まで変わってる?」


 ほのかに花の香りが漂う、甘く芳醇な酒。口当たりが良く美味しいが、昨日のものよりは度数が低いようだ。


 これでは泥酔するのは難しそうだと思いながら、カラスミをかじり、三杯目を飲んでいる時だった。ノックの音と共に伯爵が入ってきた。リズベットは慌てて杯を置き、立ち上がった。


 伯爵は特に驚く様子もなく、リズベットの向かいに腰を下ろした。


「昨夜は一人で泥酔するまで飲んでいたから、少し早めに来てみたのだが……。また先に始めていたのだな」


 リズベットが返答に詰まって立ち尽くしていると、伯爵は椅子を指差した。

「立っていないで座ったらどうだ」


「あ、はい」

 リズベットは気まずそうに椅子に座った。なぜこの男の前に出ると、これほどまでに気圧され、恐怖を感じてしまうのか自分でも分からない。


 虐待の末に自害するという不吉な運命のせいか、それとも正体を偽っているという後ろめたさのせいか。二人きりになると緊張はさらに高まり、胃のあたりが落ち着かず、体がわずかに震え始めた。


 伯爵は静かに自分の杯に酒を注ぎ、リズベットの前の杯にも酒を満たした。


「ひどく緊張しているようだが、どうしたのだ? 昨夜は、少しは心を開いてくれたと思っていたのだが」


「さ、昨夜……ですか?」


 リズベットの顔が一瞬でカッと熱くなった。記憶にはないが、確かに「事」は済ませたのだから、彼がそう思うのも無理はない。けれど。


 ハルナは、そんな自分に苛立ちを感じた。確かに危険な状況だし、自分を死に追いやるかもしれない男だ。だからといって、追い詰められた獲物のように無力に震えているだけなんて、自分らしくない。


(落ち着け。しっかりしなきゃ。私はファイターよ。生き残るために戦うのよ!)


 リズベットは震える手に力を込め、杯を掴んで酒を飲み干した。


 伯爵も酒を口にし、再び彼女の杯を満たす。リズベットは無言でそれをまた飲み干した。徐々に酔いが回り、ようやく体の震えが収まってきた。


 伯爵が手を伸ばし、彼女の乱れた髪を払おうとした、その時だった。


 リズベットは反射的に身を(すく)め、両腕を上げて頭を庇った。自分でもなぜそんな行動をとったのか分からないまま、恐る恐る目を上げ、彼の顔色を伺った。


 伯爵の顔は、深刻なまでに強張っていた。


(どうしよう……。本当に怒らせちゃった?)

 恐怖が込み上げた。


 緊張に固まる彼女に対し、伯爵はどこか硬い声で問いかけた。


「……あの家で、殴られていたのか?」


 その瞬間、ハルナはこの得体の知れない震えと恐怖の正体を悟った。


 この体の持ち主であるリズベットが、これまでどんな人生を送ってきたのかは知らない。だが、今の反応は、細胞に刻み込まれた恐怖そのものだった。


 可哀想なリズベットは、替え玉として売られる前から、ずっと不幸な女だったのだ。


 答えられずにいるリズベットに近づき、伯爵はまだ頭を庇ったままの彼女の腕を、そっと優しく掴んで下ろさせた。


「君は、クラヴァンテ辺境伯家の女主人だ。誰一人として、君を蔑ろにすることはできない」


 落ち着いた彼の声に、リズベットは顔を上げて彼を見た。相変わらず真意の読めない表情ではあったが、怒っているようには見えない。


「私を含め、誰一人として君を傷つけることはさせない」

「……閣下も、含めてですか?」


 リズベットが躊躇いがちに尋ねると、伯爵は力なく苦笑した。


「我がクラヴァンテ家は代々武家だが、女に手を上げるような野蛮な一族ではない。

 それに、閣下はやめろ。これからは名前で呼ぶと決めたはずだろう?」


 前半の言葉は心強かったが、後半の言葉は初耳だった。


「わ、私が……ですか?」


 呆気に取られて聞き返すリズベットを見て、伯爵は可笑しそうに鼻で笑うと、悪戯っぽく瞳を輝かせた。


「まさか、覚えていないのか? 酷いな。一晩中、あんなに私の名前を呼んでいたくせに」


「えっ!?」

 リズベットの目が点になった。


(昨夜の泥酔した私……! あんた、この恐ろしい男を相手に一体何をしたのよ!?)


 心の中で自分を責め、記憶を辿(たど)ろうとするが、やはり何も思い出せない。


 不意に、伯爵はリズベットを軽々と抱き上げ、そのままベッドへと向かった。


(ひっ! もう!? まだ心の準備が……!)


 緊張で体が固まるのを必死に堪えながら、リズベットは心の中で唱え続けた。


(ビビることはないわ。子供じゃない、いい大人なんだから。精神年齢なら、この男よりずっと上よ!)


 気づけばベッドに横たわっていた。リズベットは困惑と緊張で目を見開いたままだ。


 彼女の目を真っ直ぐに見つめ、伯爵が低く囁いた。

「昨夜のように、名前を呼んでくれないか?」


 柔らかに光るプラチナブロンド。海を湛えたような深く青い瞳に、熱い情欲がゆらめいていた。


 リズベットは震える唇で、たどたどしく口を開いた。

「アル……ゼン……」


(昨夜の私、いや、私たち、一体どんな……!)


 彼女の思考はそこで途切れた。アルゼンの(たくま)しい腕がリズベットの体を抱き寄せ、続いて重なった唇から、甘いアルコールの香りが口内いっぱいに広がった。


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