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4. 図書館の魔導士

 昼食というにも遅い食事を終えたハルナ、今はクラヴァンテ辺境伯夫人となったリズベットは、強張った体を動かし、侍女たちの案内で図書館へと向かった。今後の指針を立てるための情報を集めるためだ。


 異世界に来たからには、自分にも何か特別な能力が目覚めているかもしれない。そう期待して一人きりの時間に色々と試してみたものの、魔法はおろか、ゲームの主人公ロジアーナのような戦闘能力も皆無だった。


(どういうことよ、チートの一つもないわけ? そもそも、この世界の文字が読めなかったら詰むんだけど)


 内心そんな不安を抱えながら足を踏み入れた図書館で、リズベットはそこを管理する初老の魔導士、ギスカールと出会った。


 昨日結婚したばかりの伯爵夫人がいきなり図書館に現れたのが意外だったのか、ギスカールは不審そうな表情を浮かべつつも、恭しく彼女を迎え入れた。


 数層にわたってびっしりと蔵書が並ぶ圧巻の光景をリズベットが見渡していると、ギスカールが控えめに声をかけてきた。


「何かお探しのものでもございますか?」

「ええ。法律に関する本を拝見したいですけれど」


「法典、でございますか?」

 ギスカールはさらに驚いたように何度か瞬きをしたが、すぐにリスベスを目的の棚へと案内した。


 並んだ本の背表紙を眺めたリスベスは、まず文字が読めるという事実に安堵した。


 彼女が大きく重厚な一冊に手を伸ばそうとすると、ギスカールが遮った。

「必要な本をおっしゃっていただければ、私がお出しいたします」


 そう言うと、彼は魔法でリスベスが指さす本を浮かせ、小さな手押し車へと運んでみせた。


 重そうな本が宙を舞い、次々と積み重なっていく光景に、リズベットは危うく拍手しそうになった。ゲームや映画でしか見たことのない魔法が目の前で実演され、ここが間違いなく異世界なのだと実感が湧いてくる。


 図書館の最奥にある特別閲覧室に重い本を積み上げ、リズベットが席に着くと、ギスカールが尋ねた。

「特に調べたい内容などはございますか?」


「いえ、大丈夫です。まずは全体をざっと確認したいだけですから」

 リズベットは愛想笑いでごまかし、『ベネムバルク王国大法典 第1巻』を開いた。


(「離婚が可能かどうか」を探してるなんて、口が裂けても言えないわよね)


 今は誰もが彼女を公爵令嬢だと思って丁重に扱っているが、正体がバレれば、態度は一変するはずだ。


 公爵家に戻ることもできず虐待の末に自害したという設定は、裏を返せば「どこにも行き場がなかった」ことを意味する。ならば、発覚する前にここを去るのが最善だ。


(離婚なら民法のあたりかしら? 条文だけじゃ足りないわね。判例もいくつか調べておかないと。ふむ、こっちに『判例記録』もあるわね)


 ギスカールにメモ用の紙とペンを用意させ、リスベスは本格的に本をめくり始めた。


 すると、奇妙なことが起こった。文字が読めるというレベルを超えて、内容が瞬時に頭へ入ってくるのだ。


(速読なんて習ったことないのに)


 不思議に思って一度めくったページを読み返してみたが、記憶の内容と完璧に一致している。まるでPDFファイルがそのまま脳内に保存されていくような感覚だった。


(へぇ。これが私の「チート」ってわけ?)


 まるで自分自身が生成AIにでもなったかのようだ。一瞬、浮き立つような気分になったが、現実的な生存にはさほど役立ちそうにない能力だと気づき、苦笑した。それでも、無知でいるよりは百倍マシだと自分を納得させ、再び本に没頭した。


(判例は結構面白いわね)


 無味乾燥な条文に対し、判例には事件の概要や捜査内容、裁判の争点など興味深い記述が多かった。しばらく読み耽っていたリズベットは、ついに求めていた一節を見つけ出した。


(よしっ! 離婚可能!)


 貴族の結婚は家門同士の結びつきである以上、利害関係や財産、体面が複雑に絡み合うため容易ではないが、離婚制度そのものは存在していた。


 子供がおらず、双方が合意して別れる場合が最もシンプルで、女性は結婚時に持ってきた持参金を持って離縁することができる。


 しかし、相手に明確な過ちがないまま一方的に離婚を要求する場合、要求した側は多大な経済的負担と社会的非難を甘受しなければならない。


 リズベットの場合、金と引き換えに嫁いできたような身の上だ。当然、彼女から離婚を切り出すのは現実的ではない。どうにかして、伯爵の方から「別れたい」と言わせるのが望ましい。


(かといって、度を越した落ち度を作るのは命に関わるわね。「追い出したくなる程度」に嫌われるのがベストってわけね。

 それにしても、私に持参金なんてあるのかしら? ……いや、没落して偽物を送るような家が、そんなもの用意してるはずないわよね)


 ここで、リズベットはこの世界に関する情報を整理してみた。


 ここは剣と魔法の世界であり、ゲームの主人公ロジアーナは没落したとはいえ伯爵家の長女で、腕利きの冒険者だった。ロジアーナとしてプレイしていた時、魔物狩りはもちろん、商隊の護衛、盗賊討伐、海賊との戦闘、犯罪組織の壊滅、誘拐事件の解決など、数々のクエストをこなしたものだ。


 つまり、ここは「女が一人で気ままに歩けるような甘い世界ではない」ということだ。準備なしに飛び出せば、瞬く間に過酷な目に遭い、死ぬか売られるのが関の山だろう。


(無計画な脱出は破滅への特急券だわ。出るならしっかり準備をしなきゃ。

 次は、どこへ逃げるかだけど。いっそ他国へ逃げるのが安全かしら?)


 リズベットはギスカールに、この一帯と近隣諸国が記された地図を持ってこさせ、机に広げた。


 クラヴァンテ辺境伯領であるラベンナは、南にパルツワンという国と国境を接しており、海を隔てた向こう側には海洋国家メロヴィッツがある。パルツワンは聞き慣れない国だが、メロヴィッツは攻略対象キャラクターの一人がいる場所で、ゲームでも訪れたことがある。


(陸路よりは海路の方が逃げやすいかしら? それに、メロヴィッツならゲームの知識も少しはあるし)


 そう考えたリスベスは、勢いに乗ってメロヴィッツの法典や判例集まで探し始めた。外国人の自分が移住した際の危険性や、注意点を調べるためだ。


「メロヴィッツの言葉がお分かりなのですか?」

 本を差し出しながら、ギスカールが不思議そうに尋ねた。


「ええ、まあ。語学には少し興味がありまして」


 そこに並んでいたのはベネムバルク王国の文字とは全く異なるものだった。だが、不思議と意味は手に取るように理解できる。


(やっぱり、これが私のチートってことね。それにしても、ゲームでは言語が異なるなどの設定なんてなかったのに。)


 ここはゲームの中ではなく、地続きの現実なのだと、リズベットは改めて思い知らされた。


 *** ***


 魔導士ギスカールは、興味深げにリズベットを見守っていた。学者や魔導士でもない女性が法律書を読み耽っているのも意外だったが、他国の言語で書かれた本まで読んでいるのは、想定外の出来事だった。


 特に驚かされたのは、その知識の習得スピードだ。ページをめくる速度があまりに速いため、本当に読んでいるのかと疑い、手助けをするふりをして内容を尋ねてみたこともあった。


 だが、驚くべきことに彼女は内容を正確に把握していたのだ。昨日の結婚式で見かけた、涙に濡れた可憐な花嫁の姿からは想像もつかない一面だった。


 いつの間にか日は沈み、辺りには闇が立ち込め始めていたが、リズベットは席を立つ気配を見せない。本来なら図書館を閉める時間だが、ギスカールは静かに状況を見守り続けていた。


 そこへ、クラヴァンテ辺境伯が現れた。特別閲覧室の前にいた侍女エリがリズベットに知らせようとしたが、辺境伯は軽く手を振ってそれを制した。


「昼から図書館に篭りきりと聞いて見に来たのだが、一体何をしていますか」


「あちらで、ずっと読書をなさっております」

 ギスカールは声を潜めて答え、辺境伯を特別閲覧室の前へと促した。


 大きく分厚い本に埋もれるようにして、ひたすらページをめくり続けるリズベットをしばらく眺めていた辺境伯は、不思議そうに首をかしげた。


「挿絵もない本を、何をそんなにめくっているのです?」


「めくっているのではなく、読んでおられるのです。法典と判例集を読み終えられ、今はラベンナの文物と風習についての本に目を通していらっしゃいます」


「あれを、読んでいると?」


「私も最初は本当に読んでいらっしゃるのかと疑い、確認してみましたが、一般的な速読とは異なり、内容を完全に理解して読み進めておられるのは間違いありません。

 さらには、メロヴィッツの法典まで読んでおいででした」


「メロヴィッツの法典をですか?」


「はい。それもただ読むだけでなく、言語そのものに精通していらっしゃる。メロヴィッツの言葉で声をかけてみましたが、即座に、実に自然に応じられました」


 その言葉には、辺境伯もわずかに表情を変えた。魔導士ギスカール自身、諸外国の言語に精通した知性派である。その彼が認めるとなれば、話は別だ。


 ギスカールは満足げな顔で、声を潜めて囁いた。


「どうやら奥様は、『知恵の加護』を授かっておられるに違いありません。この加護を授かった者は、知識の習得と理解、そして活用において、凡人を遥かに凌駕すると言われております。

 滅多に目にすることのない尊い加護であり、どの時代においても大賢者クラスの知識人となる証。閣下は、実に見事な奥方をお迎えになられたようですな」


 閲覧室の外でこのような会話が交わされているとも知らず、リズベットは本に熱中していた。結局、辺境伯が閲覧室の中に入り、壁をコンコンと叩いて音を立ててようやく、彼女は顔を上げて彼を見た。


「あ……」

 ぼんやりと彼を見つめていたリズベットだったが、状況に気づき、慌てて立ち上がった。


「夕食の時間だ。食事に行こう」


「はい」

 リズベットは読んでいた本を置き、辺境伯のそばへと歩み寄った。


 辺境伯は一瞬、何かをためらうような素振りを見せたが、そのまま彼女を促して先を歩き始めた。


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