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2. 初夜

 不幸中の幸いか、披露宴の途中でハルナは先に席を立つことになった。侍女たちはハルナをある部屋へと連れて行き、ドレスを脱がせ、化粧を落とすと、薔薇の香りが漂う温かな湯船へと促した。


 これが「初夜」のための準備なのだと気づき、先が見えない奈落の底に突き落とされたような気分になった。ゲームの世界に落ちただけでも混乱極まりないのに、目覚めて早々に結婚式、おまけに初夜だなんて。それも、あの「クズ伯爵」と。


 また、涙がぽろぽろと溢れ出した。ハルナは本来、涙を見せるどころか、弱音すら吐かない人間だった。


 決して弱みを見せず、数々の苦難や逆境に立ち向かい、熾烈なヘアメイク業界の頂点にまで登り詰めたのだ。彼女はそんな自分を「ファイター」だと自負していた。


 それなのに、今はどうしようもなく涙が流れる。これがこの忌々しい状況のせいなのか、それともこの体の元の持ち主の性質のせいなのかは分からない。


 侍女たちは彼女を横目で見ながら、自分たちだけで何事かをひそひそと(ささや)き合っていた。内容は聞き取れないが、彼女を快く思っていないことだけは肌で感じ取れた。


 張り詰めた空気の中、侍女たちは無言でハルナの体を洗う。態度は丁寧だが、誰一人として彼女に温かい言葉をかける者はいなかった。


 入浴を終えると、侍女たちは体を拭き、髪に香油を塗って乾かしてから、柔らかなガウンを着せた。そして、部屋の隅にあるテーブルに食事を並べると、部屋を出て行った。


 一人きりになり、ハルナはようやく室内を見渡した。普通の部屋二つか三つ分はあろうかという広い空間に、豪華な装飾の大きなベッドと優雅な家具が配置されている。


 化粧台へ歩み寄り、大きな鏡に映る自分を改めて確認した。昼間に見た、あの見知らぬ、(はかな)げな若い女がそこにいた。


 その時、扉の外から女たちの話し声が微かに漏れ聞こえてきた。ハルナは慎重に扉のそばへ近づく。すると、会話の内容がはっきりと聞き取れた。


「本当に、いい加減にしてほしいわ。何がそんなに不満で、一日中泣き散らしてるのかしらね?」

 誰かの不満げな声に、我先にと相槌(あいづち)が打たれる。


「本当よ。公爵家なんて名ばかりで、今じゃ没落して、ちっぽけな名誉と爵位以外に誇れるものなんて何もないくせに。おまけに、公爵夫人の娘ですらない『庶子(しょし)』なんでしょう?」


「それだけじゃないわよ。王都にある公爵家のお屋敷も借金で差し押さえられそうだったのを、今回は大伯爵様の援助でかろうじて守れたっていうじゃない」


「信じられない! かけたお金と労力がもったいないわ」


「もったいないって言うなら、うちの伯爵閣下が一番お気の毒よ。あんなに素敵な方を夫に迎えるっていうのに、あんな顔で泣いてばかりだなんて」


「全くだわ……」

「あの調子じゃ、初夜もまともに務まらないんじゃない?」


「そうなったら本当に一大事よ。さっきの大伯爵様の表情見た? ぐっと堪えていらしたけれど、相当お怒りだったわ」


 隠れて囁くどころか、わざと聞かせようとしているのではないかと思うほど、露骨で大きな声だった。


 ハルナは、自分がこの見知らぬ敵意に満ちた環境に、ぽつんと一人放り出されたという過酷な現実を悟った。涙を流して嘆いたところで、状況は悪化する一方だろう。


 To be, or not to be.(生きるべきか、死ぬべきか)

 ハルナは拳をぎゅっと握りしめた。


(こんなところで終われないわ。私はファイターよ。戦いもせずに負けるなんて、真っ平ごめんだわ!)


 現実の自分が死んでしまったのなら、この世界で生きていく道を探すしかない。


 なんとしてでも生き残る方法を見つけようと決意を固めると、それまで忘れていた猛烈な空腹感が押し寄せてきた。考えてみれば、目覚めてから水の一滴すら口にしていなかった。


(まずは何か食べなきゃ。食べて、正気に戻るのよ)


 テーブルには、美しい銀食器に料理が並んでいた。泣き続けていたせいか、喉が渇いている。銀の瓶に入った飲み物をグラスに注ぎ、一気に煽ったハルナは、喉を突き抜ける刺激でそれが「酒」だと気づいた。


(何これ? 美味しすぎるんだけど!)


 芳醇(ほうじゅん)な果実の香りが漂う、滑らかで洗練された高級酒だった。 むしろ好都合だと思った。


 この弱々しい体で屈強な男を拒める自信もないし、そんなことができる状況でもない。公爵令嬢とは名ばかりの、金で売られてきたも同然の身の上。しかも、自分は本物の公爵令嬢ですらないのだ。


 ここで初夜を拒絶すれば、どんな破局が待っているか分からない。素面(しらふ)でこの夜をどう過ごせばいいのかと思っていたが、いっそ泥酔してしまった方がずっとマシだ。


 席に座ったハルナは、本格的に食べ始めた。

(これは何? 魚の卵の干物みたいだけど)


 ハムか何かだと思ったそれは、薄くスライスされた魚卵だった。塩気のある磯の香りに、魚特有の凝縮された旨味が混ざり合ったその味は、イタリア産のカラスミ、ボッタルガによく似ていた。


 添えられたサクサクのクラッカーに乗せて食べると、さらに食欲をそそる。他の皿にあるドライフルーツや干し魚も、どれも一級品だった。


 二杯目を飲み干したが、酒杯が小さすぎて、じれったくなってくる。

「綺麗だけど、コップがちっちゃすぎるのよ!」


 毒づいたハルナは、ついに酒瓶を掴むと、口を直接つけてゴクゴクと飲み始めた。片手に酒瓶、もう片方の手にはカラスミを握りしめ、無我夢中で飲み食いしていると、扉が開き、伯爵が入ってきた。


 扉の音に気づいて顔を上げたハルナと、伯爵の視線がぶつかる。伯爵は、呆れているのか驚いているのか判別できないような、何とも言えない表情を浮かべて立ち尽くしていた。


 一瞬、動作を停止したハルナだったが、すぐに「なるようになれ」と開き直った。彼を無視して、手に持っているボッタルガを口に放り込むと、指先までチュッチュッと吸って味わい尽くし、仕上げに瓶ごと酒を煽った。


 空き腹に酒を入れたせいか、すでに良い具合に酔いが回っている。もう、緊張も恐怖も感じていなかった。


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