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13. 欠けた黄金の輪

 特別閲覧室に集まった4人は、リズベットを中心に据え、閲覧台に載せた『美の錬金術』を以前と同じ手順で開いた。


 リズベットが書を朗読し始めると、周囲の空気の密度が変わり、銀色の粒子がキラキラと宙に舞った。挿絵が動き出し、文字が生き物のように再配列される様子を目の当たりにしたヴィーチェが、低く呻き声を漏らす。


「……これじゃあ、解読なんてできるはずがないね」

 彼女はリズベットに向き直り、問いかけた。


「聞いたところによれば、幼い頃に母親から諸国の言語を教わったそうだけど……この文字も、その時に学んだのですか?」


「ええ。まあ、いろいろと」

 リズベットはバツの悪さを隠しながら答えた。自分の能力を説明する術が他にない以上、この設定で押し通すしかない。


「これは単なる古代文字じゃない。『神聖文字』――神の秘密を封じ込めた言葉です。

 超古代においてさえ、極限られた者にしか拝領を許されなかった、神聖なる秘匿(ひとく)事項のはずなんですがね」


 言葉を切ったヴィーチェは、真剣な眼差しでリズベットの瞳をじっと覗き込んだ。

 夜空のように深いヴィーチェの黒い瞳の中に、微かに「黄金色の輪」が浮かび上がる。リズベットは思わず目を見開いてそれを見つめた。妙なことに、その輪は完全な円ではなく、一箇所が僅かに欠けていた。


 ヴィーチェが、地を這うような低い声で(ささや)く。

「……あんた、一体何者だい?」


 リズベットの頭の中が真っ白になった。正体を見破られたのではないかという、心臓を鷲掴(わしづか)みにされるような恐怖が襲う。


 だが次の瞬間、ヴィーチェは片目を(つむ)ってみせると、いたずらっぽく笑った。

「ハハッ、冗談ですよ! 何をそんなに緊張してるんですか」


 リズベットはどう反応すべきか分からず、ぎこちなく立ち尽くした。


 ギスカールとシャロナが慌てて割って入り、平謝(ひらあやま)りする。

「申し訳ございません! 悪気はないのです、どうかお許しください」


 ヴィーチェは2人をチラリと見ると、短く溜息をついて謝罪した。

「驚かせたなら悪かったよ。もうこんな悪ふざけはしないから、今回だけは勘弁してね。……さあ、続きを読んでくださいな」


 リズベットは再び書へと視線を戻した。

(……今の、冗談なんかじゃなかった)


 これまで出会った誰とも違う圧倒的な存在感。ヴィーチェに正体を問われたリズベットだが、ヴィーチェこそ何者なのだろうかという疑問が、彼女の胸に深く刻まれた。



 読書に没頭しているうちに、昼食の時間はとうに過ぎていた。改めて食事をとるには遅すぎる時間だったため、4人は茶菓子を囲んで休憩をとることにした。


「アルゼンに対してのように、私にも楽な言葉で接してください」

「私は構わないよ。改めてよろしく、リズベット」


 ヴィーチェは遠慮することなく、リズベットの提案を快く受け入れた。


「ヴィーチェ様は、アルゼン……とはどういったお知り合いなのですか?」

「『様』はやめてくれ、ヴィーチェでいい。昔、トリシが流産で死にかけた時にね、私が手術をしたんだ」


「手術、ですか?」

「聞いていないのかい?」


「シャロナから少しだけ……。でも、アルゼンの前ではその話はしない方がいいと言われて、詳しく伺うのは避けていたんです」


「ああ、アルゼンにとっては辛い記憶だろうね。トリシが本当に死ぬところだったんだから。

 ……全く、酷い話だよ。いくら嫁が憎いからって、臨月の妊婦にあんな無体なことをするなんてさ。カトレンだったか?

 あのクソばばあがくたばってよかったよ。生きていたら、リズベット、あんたも相当いびられていただろうからね」


 黙っていたシャロナが、冷ややかで硬い口調で口を開いた。

「それは分かりませんわ。あの方は身分に異常なほど執着していましたから、リズベット様には手出しできなかったはずです」


「……あの日、一体何があったのですか?」

 リズベットが恐る恐る尋ねると、シャロナは言い(よど)んだが、物怖(ものお)じしないヴィーチェが当時の出来事を包み隠さず語り始めた。


 それはアルゼンが両親と共に伯爵家に入って2年目、彼が8歳の時のことだった。

 当時の家主であるルヴェイン大伯爵と、父ギセンが海賊討伐のために遠征に出ていた期間に、3年に一度の大行事『海の祭典』が執り行われた。


 伯爵家の女性たちが中心となり、海の神に捧げる3日間の神事だ。その年は特に天候が悪く、3日間、冬を催促するような冷たい雨が降り続いていた。


 本来、臨月のトリシは参加を免除されるのが当然だった。だが、姑のカトレンはトリシの出席を強要した。そればかりか、祭典の期間中、断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)に建てられた(ほこら)で、祈りの(かがり)()が絶えぬよう見守るという役目まで押し付けたのだ。


 ギスカールをはじめとする家臣たちが何度も再考を求めたが、カトレンは「伯爵家の人間としての義務だ」と一蹴した。誰の目にも明らかな嫌がらせだったが、ルヴェインとギセンが不在の状況では、伯爵夫人であるカトレンが最高決定権者であり、誰も彼女の決定を覆すことはできなかった。


 結局、冷たい雨と海風に3日間晒(さら)され続けたトリシは、祭典の終わり際、下血して倒れてしまった。


 ギセンとルヴェインが戻った時、トリシは意識を失い、死線を彷徨(さまよ)っていた。医師も神官も皆、(さじ)を投げた。ギスカールが回復術師や神官たちに、何とか時間を稼いでくれと泣きつき、辛うじて息を繋いでいたところに、ヴィーチェが到着した。


 そして彼女が外科手術――帝王切開を行い、死産となった胎児を取り出し、何とかトリシの命を救い出したのだ。


 ギセンの怒りは凄まじいものだった。彼は「トリシをこれ以上ここには置けない」と言い放ち、彼女が回復し次第、共に永遠に去ると宣言した。


 彼を引き止めたのはルヴェインだった。ルヴェインはその場で伯爵位をギセンに譲り、内政の全権をトリシに委譲する決断を下したのだ。


「あの時のギセンって男、最高に格好良かったよ。決断力があって、情熱的な男だった。

 ……それなのに、あっさり死んじまうなんて、惜しいことをしたね」


 ヴィーチェは惜しそうに呟くと、リズベットに問いかけた。

「アルゼンはどうだい? あんな男の息子だ、やっぱり熱い男だろう?」


 リズベットは微妙な表情で、正直に答えた。

「よく分かりません。口数も少ないですし、表情の変化もほとんどないので。冷徹で理性的な人に見えます」


 すると、シャロナが寂しげに言った。

「幼い頃は、そうではありませんでした。トリシ様に似て、明るく快活な性格だったのです。あの一件以来、変わられてしまいました。 

 お父様がいない間、ご自分が母上を守らなければならなかったのに、それができなかったと。自分を激しく責め続けていらしたのです」


 ヴィーチェが軽く舌打ちをする。

「たかだか8歳のガキに何ができるっていうんだ。そんな重荷を背負い込んじまってさ。

 ……あの時、あのガキがあんまり必死に(すが)ってくるもんだから、ボロボロになった内臓を処置して生かすのに、丸一日以上かかったよ」


「アルゼン様は、あの日、本当に最善を尽くしてお母様を守ろうとされました。祖母様や叔母様に立ち向かい、殴られて部屋に閉じ込められるまで……」


「叔母様……ですか?」

「閣下には2人の叔母がいます。上の叔母であるアメリア様は、近隣のウィダル領を治めるドルフン伯爵夫人。下の叔母のテルザ様は、家臣であるパランゼ子爵夫人。

 そのうち、アメリア様が、カトレン様と共になってトリシ様を酷くいびっていたのです」


 シャロナの口調には、今なお消えぬ棘があった。


「あー、あの高慢(こうまん)ちきな女ね。思い出したよ。まあ、嫁に行ったんなら、もう会うこともないだろう?」


「それが、そうでもないのです。大伯爵様のお見舞いという名目で、頻繁にやってきます。結婚しても贅沢癖が治らず、実家から金を無心し続けているのです。

 隙あらば援助を求め、少しでも多く(むし)り取ろうと躍起になっていますわ」


 シャロナがこれほど辛辣(しんらつ)に誰かを語るのは初めてだった。まさにゲームで言うところの「悪役令嬢」の成れの果て、といったポジションだ。


 シャロナはリズベットを見つめ、切実な眼差しで言った。

「お二人の仲も(むつ)まじいようですし、早く後継ぎを授かっていただきたいです。そうすれば、アメリア様も不埒(ふらち)な夢を諦めるでしょうから」


「……夢だと?」

「強欲な方なのです。先代様が健在だった頃から、自分の息子を後継にねじ込もうと必死でした。

 今は、自分の孫を連れてきては大伯爵様に見せびらかし、アルゼン様の地位を脅かそうと画策していますのよ」


 アルゼンと二人きりの生活で、伯爵家に複雑な家庭事情などないと思っていたが、現実は甘くなかった。もし自分の正体がバレれば、そのアメリアという女は狂犬のように噛み付いてくるに違いない。


 リズベットはまた、重苦しい心境に陥った。


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