11. アルゼンという男
正午を少し回った頃、馬車はレトナの軍港の埠頭に到着した。商船が停泊するところから少し離れた場所に、軍港があった。大小の軍船が並んでおり、陽に焼けた逞しい人々が二人を熱烈な歓声で迎えた。
白地に青の海竜が描かれた旗を掲げた軍艦が整列する光景は、リズベットを圧倒するに十分だった。
アルゼンは、その中でもひときわ大きく荘厳な船へとリズベットを導いた。彼女はアルゼンの手を取り、タラップを通って甲板へと上がった。
整列した海軍兵士らに見守られ、リズベットは将校たちの挨拶を受けた。中には女性の姿もあったが、荒波に揉まれる生活のせいか、誰もが健康的な小麦色の肌と引き締まった体を持ち、顔や腕に傷跡がある者も少なくなかった。
「お目にかかれて光栄です。噂通りの美しさであらせられる」
「なんと白く、気高いお姿でしょう」
「まるで、白い陶器のようなお肌ですな」
男女問わず、彼女の美貌を称賛する言葉には、必ずと言っていいほど「白い肌」への言及があった。屋敷の侍女たちも羨んでいたが、こうして見ると、この地ではその白さこそが「高貴さ」の象徴なのだと改めて実感させられる。
艦隊の本船らしく、船は堅牢かつ威厳に満ち、隅々まで磨き上げられていた。アルゼンに促されるまま指揮台に上がったリズベットは、目の前に広がる真っ青な海、点在する島々、そして遠くをゆく船影を前に、しばし言葉を失った。
潮の香りを孕んだ海風が心地よく全身を吹き抜け、青い空と輝く海が視界を埋め尽くす。ベール越しに見るにはあまりに惜しい絶景だった。リズベットは侍女たちの警告も忘れ、帽子を脱ぎ捨てた。
「あっ、奥様!」
後ろでメリンダが声を上げたが、リズベットは笑って返した。
「大丈夫よ。少し焼けるくらい、なんだっていうの? この素晴らしい景色を、この目できちんと見たいの」
城から眺める海も美しかったが、やはり間近で見る迫力は別格だ。胸がすくような解放感に包まれ、抱えていた細々とした悩みなど海風がすべて洗い流してくれるような気がした。
リズベットが浮き立つような気分で船首へと歩み寄った、その時だった。足元が大きく揺れ、ふらりと体が傾く。すかさずアルゼンがその体を支えた。
「船の上は揺れる。気をつけろ」
アルゼンが淡々と注意を促す。眩い陽光の下で、彼のプラチナブロンドが透き通るように輝き、その瞳には海そのものが映り込んでいるようだった。
リズベットは思わず、その姿を呆然と見つめてしまった。
(……乙女ゲームのメインキャラなだけはあるわね。反則級のイケメンだわ)
ヘアメイク業界で、数多の俳優やモデルを相手にしてきた。群衆の中で独歩的に輝くスターを数えきれないほど見てきたハルナだが、アルゼンはどのタイプとも違った。神話に登場する軍神が具現化したなら、きっとこんな姿だろう。
一通り船内を見学した後、リズベットは艦長や将校たちと共にアルゼンの私室で食事を共にした。
「軍船がかなり多いようですが、あの中には快速船もあるのでしょうか?」
ゲームの知識を思い出しながら尋ねると、アルゼンは意外そうな反応を見せた。
「そんなことまで知っているのか? 実は、この船も快速船だ」
「これほど大きな船が、ですか?」
ゲームでの快速船は、魔導士が風の魔法で速度を上げるため、機動力重視の中型以下の船であることが多かった。
艦長のカルバーグが誇らしげに説明する。
「辺境伯閣下が乗られる指揮船が遅くては話になりません。常に魔導士が3名以上同乗し、専門の漕ぎ手も控えております。必要とあれば、凄まじい機動力を発揮しますぞ」
「それは……素晴らしいですね」
リズベットは、海路でメロヴィッツへ逃げるという計画をそっと心の隅に追いやった。海軍の快速船を振り切る船を調達するなど、不可能に近いミッションだと悟ったからだ。
(……陸路でパルツワンへ向かうしかなさそうね。やはり、一刻も早く乗馬をマスターしないと)
*** ***
レトナ城へと戻る馬車の中。リズベットは車窓を眺めながら、思索に耽っていた。
この二日間で、アルゼンの異なる側面をいくつも見た気がする。いや、リズベットが知らなかった彼の「真実の姿」と言うべきか。
祖父にとっては頼もしい孫、母にとってはかけがえのない息子、そして部下たちにとっては尊敬と信頼を一身に集める領主であり指揮官。
アルゼンはなぜ、自分にこれらを見せたのだろう。ふと気になり、リズベットは彼を振り返った。彼もまた窓の外を見ていたのか、視線が合うと、わずかに気まずそうに眼を逸らした。
「昨夜と今日、とても楽しかったです。色々とありがとうございました。なぜ、私にこれほどまで良くしてくださるのですか?」
わずかな沈黙の後、アルゼンは短く答えた。
「……妻だからだ」
「あ……そう、ですよね」
リズベットは力なく笑い、再び窓の外へ視線を戻した。
(馬鹿ね……。一体、どんな答えを期待してたっていうの?)
ふと、結婚式の時のあの冷徹な無表情が蘇る。
互いの顔も知らぬまま執り行われた、徹底的な「必要性」による結婚。家門間の取引に過ぎず、そこに感情の破片が入り込む隙間などないのだ。
図書館で勉強する姿が、この地に順応しようとする努力に見えたから、少しだけ評価が上がったに過ぎない。今自分に与えられている恩恵はすべて、「辺境伯夫人」であり「公爵令嬢」に向けられたものであって、本物の自分とは何の関係もない。
アルゼンは紳士的で、家主としての責任と義務に忠実な男だ。自分の代わりに誰がこの席に座っていても、彼は同じように振る舞っただろう。
(ここにあるものの中で、私のものなんて何一つない。私――リズベットの本当の人生は、ここを去った後から始まるのよ。
……目を覚ましなさい。準備を続けなきゃ)
リズベットは、静かに自分に言い聞かせた。




