10. トリシ
日が沈む頃に到着したトリシの別邸は、海を見下ろす丘の上に建っていた。夕日に染まる海を背景に姿を現した古風な邸宅の佇まいに、リズベットは思わず感嘆の声を漏らした。
「……なんて、美しい所なの」
馬車を降りたリズベットの呟きに、アルゼンは微かに微笑み、彼女を邸内へと案内した。
海を越えた遠い国の出身だというトリシは、独特な色合いの青い髪を持ち、異国情緒あふれる雰囲気を纏った女性だった。
ゲームの主人公であるロジアーナと同じく「戦士であり冒険者」だったという経歴のせいか、リズベットは彼女に対して不思議と初対面ではないような親しみを感じていた。
少しやつれた顔立ちのトリシだったが、2人を見ると顔をほころばせた。
「元気そうで安心しましたわ。慣れない土地に来て、苦労しているのではないかと心配していましたの。
ギスカールやシャロナからの手紙で話は聞いていました。とても知的で謙虚な方だと絶賛していました」
「過分なお褒めにあずかり、恐縮です。お義母様、どうか楽な言葉遣いでお話しください」
「……失礼には、ならないかしら?」
どこか躊躇うようなトリシの態度に、リズベットの胸が少し締め付けられた。彼女は自分でも気づかぬうちに、親愛の情を込めた笑みを浮かべていた。
「もちろんです。リズベット、と呼んでください」
一瞬、しまった、と思った。初対面で少し馴れ馴れしくしすぎたかと思ったからだ。
幸いにも、トリシはそれを喜んで受け入れてくれた。
「ありがとう、リズベット」
夕食を共にしながら、リズベットはトリシに様々なことを尋ねた。ゲームの知識と現実がどれほど一致しているかという純粋な好奇心もあったが、外の世界へ出た時を見据えた実利的な目的も大きかった。
「シャロナから聞きました。お義母様は、かつては素晴らしい冒険者だったそうですね。特に剣の腕が立つとか。
……私のような人間でも、剣を学べば少しは戦えるようになるでしょうか?」
「持って生まれた素質や力、スピードも大切だけれど、普通の人間でも修練を積めば、ある程度のレベルまではいけるわよ。まさか、剣を学ぼうとしているの?」
「少し、嗜んでみたいと思いまして」
「貴族の女性は普通、そういうことには関心を持たないものだけど……リズベットは少し変わっているわね」
「正直に言えば、私はお義母様のような方が羨ましいんです。どこへ行こうと、自分の身を自分で守り、責任を持てるというのは、素晴らしい能力だと思います」
「知識や知恵こそが、最大の力だと私は思うけれど?」
「そんなもの、盗賊や魔物の前では何の役にも立ちませんもの。魔法ならまだしも」
「冒険者になるわけでもないし、伯爵夫人がそんな心配をする必要があるのかしら?」
トリシは不思議そうに首をかしげて笑った。
「そうかもしれませんが、世の中、何が起こるか分かりませんから」
「今の護衛たちが、頼りないとでも言うのか?」
聞いていたアルゼンが口を挟んだ。
火の粉が周りの人々に飛ぶのを恐れ、リズベットは慌てて否定した。
「そういうわけではありません! ただ……自分自身で、最低限の身を守れるようにはなりたいというだけです」
「余計な心配だな。君が危険にさらされることなど、断じてあり得ない」
アルゼンが断定するように言った。
リズベットは不満げに口を閉ざすと、心の中で彼を睨みつけ、ぐちぐちと毒づいた。
(あんたのせいよ、あんた! 今、私にとって一番怖いのは、間違いなくあんたなんだから!)
*** ***
トリシの別邸で一夜を明かし、出発の準備を整えていると、侍女たちはいつになく慌ただしく立ち働いていた。レトナ城に戻る前に、港へ立ち寄る予定があるからだ。
「みんな、奥様がどのような御方か、首を長くして待っておられますわ。最高に美しく装わなくては!」
メリンダが帽子とドレスを手入れしながら、悲壮なまでの決意を口にする。
エリはひばしを手に、いつも以上に心血を注いでリズベットの髪を整えていた。
「ああっ!」
エリが手元を狂わせ、火箸で手を焼いてしまった。
「大丈夫!?」
リズベットは驚いてエリの手を取った。思ったよりも傷は深く、指先から手のひらにかけて火傷を負っている。
「申し訳ございません、奥様……っ」
「いいから、すぐに手当てしてきなさい。髪は私がやるわ」
「ですが……」
「火傷はきちんと処置しないと大変なことになるわ。早く水で冷やして、薬を塗りなさい」
火箸で自分の髪を整えた経験こそないが、これまでエリの手つきを見ていたので要領は大体わかっていた。
薬草を塗り、包帯を巻いて戻ってきたエリは、鏡に映るリズベットを見て感嘆の声をあげた。
「……私がやるより、ずっとお綺麗です。お化粧に髪まで、奥様は本当に何でもおできになるのですね」
「少し手先が器用なだけよ」
リズベットは、さも大したことではないという風に受け流した。
メリンダが、ベールの付いた帽子をリズベットに被せる。
「奥様、今日はしっかり準備をなさってくださいね。奥様はお肌が白磁のように美しいですから、すぐに焼けてしまいますわ。
できるだけ日陰から出ないようにして、少し息苦しくても帽子はずっと被ったままでいらしてください」
「夏でもないのに、そこまでしなくても大丈夫じゃないかしら?」
メリンダは断固とした表情で首を振った。
「海辺は違います。おまけに今日は雲一つない快晴ですもの。そのまま歩けば、すぐに真っ赤に焼けてしまいますわ」
準備を終え、トリシに別れの挨拶を済ませると、リズベットはアルゼンと共に馬車に乗り込んだ。心なしか昨日よりも顔色の良くなったトリシが、手を振りながら2人を見送ってくれた。




