7 マーキング
風呂から上がって部屋に入る前に、善が「結衣」と声をかけてきた。
結衣は部屋に招き入れる。
先程のことはまだ許せないが、ヴァンパイアの話をしたい。
善は我が物顔で学習チェアに座り、結衣は床に腰を下ろした。
隣の部屋で話した時も見下ろされていたな、と結衣は肩をすくめる。
「言っておくが、俺は自分の顔を見慣れている」
善にそう切り出されたが、結衣は「はぁ?」と気の抜けた声しか出なかった。善の言いたいことがわからない。
「だから結衣には、これっぽっちも興味はない」
善は親指と人差し指の先を、くっつくかくっつかないかわからないほど近付けた。
結衣は眉間に皺を寄せる。
善は脱衣所の扉を開けたことを、自分の容姿に慣れているのに結衣程度に欲情するわけないだろう、と言いたいのだと結衣は解釈した。
結衣は腹の虫が収まらず、善に向かって「謝って!」と叫び散らした。
数秒睨み合うと、善は大きく息を吐いた。
善は足を組んで腕も組み、首を反らして結衣を見下ろす。
「悪かった」
全く悪びれもせず言われ、結衣は開いた口が塞がらない。
こんな傲慢な謝罪をされたのは初めてだ。
結衣が硬直している間に、善は鋭い瞳をして「なにがあった」と固い声を出した。
結衣は我に返って、ヴァンパイアと自転車でぶつかったことを話した。
善は考え込むように、口元に手を添えて俯いた。
「ねえ、今回の被害者は生きてたんだけど、別のヴァンパイアが犯人なの?」
善はゆっくりと結衣に視線を向けて首を振る。
「事件現場で嗅いだ臭いと全く同じだったから、同一犯に違いない。多分、巣に連れて帰る途中だったんじゃないか?」
「巣?」
「ああ、連れて行かれていたら、今回の被害者も助からなかっただろう。結衣の手柄だな」
もしぶつからなければ、あの女性は助からなかった。
結衣は今になって、手が震えてきた。心の中を、恐怖や安堵がないまぜになったような感情が占める。
「……なんで巣に連れていくの?」
「一回で全ての血液を飲まないからだろうな。人間の血液は体重の約13分の1。何回かに分けて飲んで、血液がなくなったから、路上に置き去りにしたのだろう」
「……ひどい。女の人はずっと怖い思いしてたってこと?」
「血液の3分の1を失うと生命の危険が及ぶと言われている。一度にどれほど飲むのかはわからないが、恐怖に震えていた時間は短くないだろうな」
善は綺麗な眉を歪めて大きく息を吐いた。
被害者の佐藤沙希は丸一日行方不明だった。
結衣は恐怖に震えそうになる自分の体を抱いた。
「これ以上被害を出さないために、情報が欲しい。何かないか? 俺はぶつかっただけで、そんなに臭いが付くとは思えない。結衣は間違いなく気に入られた」
「……気に入られた?」
顔から血の気が引いていく。口が震えて、奥歯がガチガチと鳴った。
「女を巣に連れ帰る時に結衣がぶつかった。なぜ女を放置して逃げたんだ?」
「私が叫んだから、人が集まってくると思って?」
「ヴァンパイアが人間を怖がるとは思えんがな。飛んで逃げたんだろ?」
結衣は何度も頷く。
「その時に一緒に連れて行かなかったのはなんでだ?」
結衣は必死に頭を捻るがわからなかった。
「理由は襲った女よりも、もっといい獲物を見つけたからだ」
「……それが私?」
「ああ、結衣は神力が強い。それを感じ取って結衣にターゲットを変えた。だから女は置いていった」
結衣は視線を激しく揺らし、泣くのを堪えながら口を開いた。
「じゃあ、私が今無事なのはなんで?」
「襲った女の血液を飲んで、満腹だったんじゃないか? だからマーキングをした」
「マーキング?」
結衣はおうむ返しする。臭いをつけられることなんてしていない。
「結衣の居場所がわかるようにな」
結衣は両手で顔を覆った。怖くてたまらない。
「結衣のことは絶対に俺が守る。だから思い出せ。他になにがあったかを」
「わかんないよ! ヴァンパイアはぶつかってすぐに飛んで見失っちゃったもん。その後は渡辺くんが救急車を呼んでくてれ、私のことを送ってくれた。だから本当にわからないの」
「渡辺くん?」
善は片眉を跳ね上げ、「詳しく話せ」と促す。
結衣は渡辺くんが来てからのことを、できるだけ詳細に話した。
善は腕を組んで瞼を下ろす。しばらく考え込んでいたようだが、考えがまとまったのかゆっくりと瞼を持ち上げる。
「そいつがヴァンパイアだろうな」
結衣は信じられない気持ちで首を振る。
「小学校の同級生だったんだよ。ヴァンパイアは太陽がダメなんでしょ? 昼間に学校に来てたなら、絶対に違うじゃん」
「だが、結衣には渡辺の記憶はないのだろう」
結衣は体を小さくして頷く。
そこは結衣も気になっていた。
「あっ! 小学校の卒業アルバムを見ればいいじゃん」
本棚にある卒業アルバムを取り出す。
善も床に腰を下ろして、卒業アルバムを真剣に覗き込んだ。
1組から順番に見ていく。結衣は6年生の時に1組だった。クラスメイトに渡辺圭吾はいなかった。
男子生徒の名前と写真を見ながら、ページをめくっていく。
最後の5組で渡辺圭吾を見つけた。
「……違う。別人だ」
成長したとしても、面影はあるはずだ。
写真に写っていたのは、今日会った渡辺圭吾と全く一致しない。
「決まりだな。明日の朝、この渡辺圭吾の家に連れて行け。ヴァンパイアと関係があるのか、もしかしたらすでに殺されていて、成り代わられているのかもしれない」
ヒュッと喉が鳴る。
卒業アルバムに目を落とし、写真の渡辺圭吾を見つめた。まだ頬の丸い子供が、遠慮がちに笑っている。
結衣は歯を食いしばって頷いた。
「この子のことも気になる。生きていて欲しいと思うし、もし協力していたとしても、無理やり従わされているなら助けたい」
「そうか」
善は穏やかに目を細めた。
綺麗な表情に、ドキリと胸が跳ねた。すぐに首を振って正気に戻る。
相手は傍若無人な善なのに、一瞬でも見惚れてしまったのが悔しい。
結衣は気持ちを変えるように話しかける。
「ねぇ、今からはダメなの? 渡辺圭吾のことも心配だし、私もいつ襲われるのか気になってしょうがないし」
「今日は大丈夫だろう。病院に運ばれた女の血液を飲んでいるのだろうから。わざわざ向こうの得意な時間にいく必要はない。苦手な朝のうちにケリをつけられればと思っている」
「え? それって卑怯なんじゃないの?」
善の考えに結衣は眉を顰める。善は結衣に剣のある目を向けた。
「俺の目的は正々堂々と戦うことではない。倒すことだ。ヴァンパイアだって得意な夜に、人間を襲っているのだろう? こちらの有利な朝に動いてなにが悪い」
結衣は肩を窄めた。善の言う通りだと納得して。
「今日はたくさん寝ておけ。明日の朝のうちに倒すことができなければ、夜の襲撃に備えなければならない」
「わかった」
善は部屋を出ていこうとして、結衣は咄嗟に善の裾を掴む。
「なんだ?」
善は眉間を狭めて結衣を見下ろす。
「私のことを一人にしないでよ」
結衣は奥歯に力を込めて、不安気な瞳で善を見上げる。
「神社の敷地に入ったら、俺がすぐに気付く。結衣は気にせず寝ろ」
しばらくジッと見つめたが、結衣が手を離すと善は部屋を出て行った。
「もっと優しくしてくれてもいいのに」
ボソリと不満を漏らした。
一緒に寝て欲しいとは思っていないが、安心して眠れるまで話をしてくれてもいいのに、と口を尖らす。
結衣はすぐにベッドへ寝転がったが、結局眠れたのは日付が変わる頃だった。




