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6 接触

 三日経った金曜日、結衣が学校を出ると、空は分厚い灰色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。夕方にも関わらず、辺りは夕暮れのように暗くなっていた。


 結衣は降り出す前に帰ろう、といつもよりスピードを出して自転車を漕ぐ。

 あと5分で家に着くという時に、雨が降る前に帰れそうだと気を抜いたのがいけなかった。


 脇道から黒い影が飛び出してきて、咄嗟にブレーキを握ったけれど、すぐには止められなくてぶつかった。


 結衣は自転車から落ちて尻餅をついた。

 痛みに顔を顰めるが、人を轢いてしまったのかと焦って振り返る。


 女の人が倒れていて、血の気が引いた。その傍らに黒い影が蹲っている。それが動き、ゆっくりと結衣に顔を向けた。

 長い牙から血が滴り落ちて、地面を染める。


「きゃー!」


 結衣が悲鳴をあげると、それは上に飛んで見失ってしまった。

 結衣の悲鳴を聞きつけて、男性が駆け寄ってきた。


「どうしましたか?」

「あっ、……女の人が襲われていました」


 結衣は打ちつけたお尻を押さえながら立ち上がる。痛みで下を向くと、足も擦り傷で血が滲んでいた。

 痛みを堪えて女性に近付く。


 ピンクのワンピースを着た、結衣と年の変わらない女性が倒れていた。

 目立つ色のワンピースだから、結衣がぶつかった黒い影は、さっきのものだろう。


 ヴァンパイアだった。

 牙に釘付けになって他の特徴はわからない。もっときちんと見ておくんだった、と後悔する。


「大丈夫ですか?」


 男性が声をかけると、女性の瞼がピクリと動く。

 結衣は女性が生きていることにホッと息を吐き出した。

 男性が救急車を呼んでくれて、女性は病院に運ばれた。


「警察にも知らせないと」


 結衣が呟くと、男性が結衣の瞳を覗き込む。


「犯人を見たんですか?」

「見ましたが、薄暗くてはっきりとは見えませんでした」

「犯人はどこに逃げましたか?」


 結衣が空を指して「上です」と告げると、男性は眉を下げて微妙な表情を見せた。

 やっぱり信じてもらえない。本当に上に逃げたのに。

 結衣はどうしたら信じてもらえるか、もどかしい気持ちでいっぱいだった。


「あっ、怪我をしていますね。失礼します」


 男性が跪いて、ハンカチで結衣の血液を拭ってくれた。

 押さえられてピリッとした痛みに奥歯を噛み締める。


「傷はそんなに深くないと思いますが、家できちんと手当をしてください」

「すみません。ハンカチは洗って返します」

「いえいえ、お気になさらないでください」


 男性の目がハンカチに向けられると、微かに口角が上がったように見えた。


「家まで送りましょう」

「え? でも、警察に連絡をしなければ」

「混乱していらっしゃるんじゃないですか? 落ち着いてから話しに行かれた方がいいと思いますよ」


 結衣は「そうですね」と小さく頷いた。

 警察にも信じてもらえないだろうし、善に話してからどうするかを考えよう。


「送りますよ。家はどこですか?」

「この道の通りにある神社です」


 男性が歪んだ自転車を押してくれる。ギッギッと変な音まで鳴っている。買い替えなければいけないだろうな、と結衣は肩を落とした。


「それならそこの小学校に通っていましたか?」

「はいそうです」

「僕もですよ。歳は近そうですね。僕は高二です」

「私も!」


 結衣は男性が同級生だったことで、少しの安心感を得られた。

 でも、男性の面影を探すけれど、全く記憶にない。男性は同級生にしては大人っぽくて、柔和な瞳と漆黒の髪が印象的な美形だ。


 こんなに目立つ人を忘れるはずがない、と不思議に思った。

 覚えていない、と失礼なことを言えず、結衣は黙ってしまう。


「僕は渡辺圭吾(わたなべけいご)。君は?」


 渡辺圭吾という名前も記憶にない。


「清宮結衣」

「ああ、清宮さんか。すごく綺麗になっていたから、わからなかったよ」


 渡辺くんは屈託なく笑う。


「僕は目立たなかったから、わからないでしょ?」


 バレていたようで「ごめんね」と小さく頷いた。

 話しながら歩いていると、家にはあっという間に着いた。

 駐輪場に自転車を止めてもらう。


「階段、登れる?」

「うん、擦りむいただけだから平気。送ってくれてありがとう」


 渡辺くんは片手を上げて、来た道を戻っていく。

 結衣は手すりを掴みながら、階段を登った。

 玄関の扉を開けて「ただいま」と声をかける。


 リビングに入ると、寝転がっていた善が飛び起きた。鋭い目つきで結衣に近付いて、結衣の首元に顔を埋める。

 結衣は驚きすぎて咄嗟に一歩下がった。


「な、なに?」


 男の人とこんなに近付いたことがなく、相手が善だとしても結衣の心臓は早鐘を打つ。


「臭うな」


 善は顎に手を添えて、結衣をジッと見つめた。

 自転車を漕いで汗をかき、ヴァンパイアのことで冷や汗をかいた。

 結衣は羞恥で顔を染める。


「汗臭いのはしょうがないでしょ! お風呂に入ってくる」


 荷物をその場に置くと、急いで脱衣所に向かった。


「いくら汗臭くったって、あんなにはっきり言わなくてもいいじゃん」


 結衣はムカムカと苛立ちながら、制服のボタンを外していく。

 突然扉が開いて、そちらに目を向けた。


「結衣が汗臭いかはどうでもいい。俺は結衣の体臭になんか興味はない。俺が臭うって言ったのは」

「うるさい! 出て行け!」


 善の言葉を遮って叫び、目についた歯磨き粉を掴んで善に向かって投げた。

 善に当たる前に扉が閉じる。歯磨き粉はゴンッと音を立てて扉にぶつかり、床に転がった。

 それを元の位置に戻して、下唇を噛む。


「入ってくるなんて信じらんない!」


 デリカシーのない善に腹が立って仕方がない。

 制服を脱いで体を洗うと、擦り傷が染みて顔を顰める。

 温かい湯船に浸かると、少し落ち着いた。


 冷静になって善の言葉を思い返すと、頭を捻る。

 臭うのは結衣ではない。でも結衣は変な臭いを嗅いでいない。


 結衣が気付かないで、善が嗅ぎ取った臭いには心当たりがある。

 事件現場で穢れの臭いを嗅いだと言っていた。


 やはり自転車で轢いたのはヴァンパイアで、その臭いが移ってしまったのではないかと考える。

 結衣はもう一度念入りに、体を洗い直した。

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