20 善の不調
千代のことが気になり、テストに集中することができない。
テストの合間の休憩時間になると、スマホを見ては盛大なため息を吐く。なんの連絡もない。
全てのテストを終えて、結衣は急いで帰る。
真上から太陽が照り付け、なにもしていなくても汗が滲む。
結衣は汗だくになりながら、自転車を目一杯漕いだ。
千代が心配で、気持ちが急く。
家に着くと自転車を止め、額に張り付く前髪を掻き上げた。
大きく息を吐き出すと、長い石階段を駆け上がる。
息を荒げながら「ただいま!」と声をかけると、千代が出迎えてくれるが、すぐに引っ込んだ。
目を瞬かせていると、タオルを持ってきてくれた。
「結衣ちゃんおかえりなさい。暑かったでしょ。冷たいお茶を用意するわね」
結衣は千代からタオルを受け取る。
まだ戻っていない。千代は結衣と呼ぶ。
タオルで顔を押さえつけた。目に涙が滲む。結衣は涙を誤魔化すように、ゴシゴシと強く顔を拭った。
「結衣ちゃん、そんなに強くしたら赤くなっちゃうわよ」
千代の声にタオルを顔から離す。
「目と鼻が赤くなっちゃったわね」
「顔洗ってくる」
「お茶を用意しておくわね」
結衣は洗面所に入り、冷たい水で顔を洗った。
千代に他人のように接されるのが辛い。目に溜まる涙を、もう一度顔を洗って追い出した。
リビングで冷たいお茶を飲み、自室で着替える。
善と宗一郎はどこだろうか、と家の中を探すが見つからない。
「ねえ、善とおじいちゃんはどこにいるの?」
千代のことをおばあちゃんと呼べなくて、結衣は下唇を噛んだ。
「善様と神主様なら、拝殿にいらっしゃるわよ」
「私も行ってくる」
「もうすぐお昼ご飯ができるから、早めに戻ってきてね」
千代に「わかった」と返事をして、結衣は拝殿に駆け込む。
拝殿に入ると、善と宗一郎が話し込んでいた。
結衣はそこに割って入る。
「善、おじいちゃん、おばあちゃんはどうなの?」
「ああ、結衣、おかえり」
宗一郎は眉尻を下げて困ったように笑う。
「ばあさんはやっぱりじいちゃんと結衣だけを忘れているようだ。午前中は商店街で買い物をしていたが、お店の人や近所の人と楽しそうに話をしていた」
「……おじいちゃん、尾行をしていたの?」
「どうしても気になって」
宗一郎は肩を落とす。
宗一郎は自分のことを忘れているのに、他の人と和気藹々としている千代を目の当たりにして、相当落ち込んだらしい。
「千代と話をした限り、千代は自分のことを、住み込みの家政婦だと思っているようだ」
家族と認識していないのに家事をしているのは、そういう理由なのか。
「どうしたら戻るのかな?」
「わからない。だが思い出して欲しいから、と千代をあまり刺激するな。記憶を奪われた直後なんだ。穏やかに見えても、千代の心は不安定だろう」
「刺激するなって、このまま様子を見るってこと?」
「そうだ。記憶を取られたからといって、命に関わるというわけではない。結衣と宗一郎は辛いかもしれないが、千代の心を壊さないように慎重になるべきだ」
結衣と宗一郎は顔を見合わせて、渋々頷いた。
すぐに思い出して欲しいが、千代に負担を強いることはしたくない。
「あっ、そうだ。おばあちゃんが、もうすぐお昼ご飯ができるって言ってたよ」
「そうか、じゃあ家に戻ろう」
家に戻ると、ちょうど配膳が終わったところだった。
具材のたっぷり乗った冷やし中華だった。
「わー、美味しそう! 暑いから冷たいものが食べたかったんだ」
結衣は口角を無理矢理上げて、両手を合わせた。
「よかった。結衣ちゃん、いっぱい食べてね」
笑い皺の多い千代が、柔らかく笑う。いつもと変わらない笑顔だ。それでも結衣の呼び方が違い、いつもの千代ではないと改めて思い知らされる。
結衣たちはいつも通り過ごしながら、千代を気にしていた。
見ているだけだと、千代も普段と変わらなかった。
土曜日、日曜日はなにもできずに過ごす。
千代の記憶は、結衣と宗一郎を忘れたところから変わらない。
月曜日になり、「おはよう」とリビングに入ると、善があぐらを描いて腕を組み、機嫌が悪そうだった。奥歯を噛み締めて、目を尖らせている。
「善、どうしたの?」
結衣が声をかけると、善は眉間を狭める。
「いつも千代の祈りで一日が始まるのに、それがないから落ち着かない。毎朝手は合わせてくれるが、心がこもっていなくてな。千代の祈りがないと、気持ちが悪い」
善は胸の辺りをさする。
結衣は神棚に向かって、手を合わせた。
(おばあちゃんが早く記憶を取り戻しますように)
結衣が手を下ろすと、善は大きく息を吐き出した。
「結衣の方が神力が強くて、俺に伝わる力も大きい。だが、千代の祈りがないとダメだ。気分が乗らない」
善にとっても、千代の記憶がないことは、死活問題のようだ。
「様子を見てるだけじゃなくて、記憶を奪った犯人を探した方がいいんじゃない?」
「……そうかもしれないが、慎重にならざるを得ない」
善は瞼を下ろして思考を巡らせているようだが、すぐに「ダメだ、頭が働かない」と首を振った。
千代の祈りが不足しているからだろう。気力が枯渇している。
千代の作ったいつもの味の朝食を食べて、結衣は学校に向かった。




