19 異変
ローレライと河童の再会から二週間が経った。
結衣は一学期の期末試験が近いため、自室で勉強していた。
英語の文章問題を、声に出して読みながら解いていく。
ガチャリと扉が開く音が聞こえて、結衣はそちらに目を向けた。
善が無遠慮に部屋に入ってくる。
「ちょっと! 勝手に入ってこないでよ」
「結衣がブツブツうるさいのだろう。なにをしている」
善は学習デスクの上を覗き込んだ。瞼を閉じて首をすくめる。
「二問目が間違っている」
善に指摘され、結衣は解答に目を落とす。
善が発音良く英文を読み上げ、結衣は呆気に取られた。
「善って土地神なのに、英語もできるんだね」
「時間だけはいくらでもあったからな。いろんな本を読んで言語は覚えた」
「ねえ、それなら勉強を教えてよ。一人でやるより捗りそう」
善は露骨に嫌そうな顔をした。
「俺にメリットはない」
「毎日祈るから」
「それはいつもやっていることだろう」
コンコンと扉がノックされる音がした。
「はい」
結衣が返事をすると、千代が「開けてもいい?」と声をかける。
「善、おばあちゃんみたいにノックをして、了承を得てから扉を開けてよ!」
善はそっぽを向いた。
結衣は片眉を跳ね上げて、鼻を鳴らす。
「開けていいよ」
大声を上げると、扉が開いた。
「あら? 善様こちらにいらしたのですね。お邪魔してごめんなさい。お洋服、置いておくわね」
千代はベッドの上に綺麗に畳んだ服を置くと、そそくさと部屋を出ていった。
結衣は頭を抱える。
「絶対に誤解されたじゃん」
付き合っているふりをしているのだから、勘違いされた方がいいのか? と結衣は首を捻った。
婿なんてまだ取りたくないし、でも恋愛には憧れる。
善と付き合っているふりをしながら、素敵な恋を見つけようと思っているのに出会いがない。
ローレライと河童のラブラブっぷりを目の当たりにしてから、より恋への憧れは増した。
うっとりとしていると、善に哀れみの目を向けられて腹が立つ。
「勉強しなくていいのか? 頭、大丈夫か?」
「うるさいわね! やるわよ!」
結衣は再び英文を書いていく。
「俺は寝る。心を込めて祈れ。『頭が良くなりますように』とな。俺の体は楽になるし、結衣の頭もマシになるかもしれないぞ」
善が出ていき、結衣は「むかつく!」と地団駄を踏む。
「勉強は自分でやるし!」
頭が悪いと思われていることにイライラとした。
結衣の通う翠風館女学院は、偏差値62と学力の高い高校だ。
善への苛立ちがモチベーションとなり、その日は勉強が捗った。
期末試験は月曜から金曜までの5日間続く。月曜から木曜までは順調で、結衣は満足のいく手応えを感じていた。
結局善は教えてくれなかったけれど、結衣は自力で頑張った。
「結衣、いつまで寝ている。起きろ!」
バン! と勢いよく開かれた扉と善の大声で、結衣は飛び起きた。
座った体勢で辺りをキョロキョロと見渡し、我が物顔で入ってくる善に枕を投げた。
善は首を傾けて枕を避ける。枕は壁に当たって、床に落ちた。
「勝手に入ってこないでって言ったでしょ!」
寝ている時に入ってくるなんて信じらんない! と結衣は掛け布団を頭から被る。無情にもすぐに掛け布団を引き剥がされた。
「千代の様子がおかしい」
「え? おばあちゃん?」
善の硬い表情にただ事ではないと悟り、結衣はベッドから飛び降りてリビングに急ぐ。
リビングの扉を開くと、お味噌汁の優しい香りが漂っていた。
千代はキッチンで料理をしているようだ。
そちらに向かおうとしたが、部屋の隅で壁の方を向き、膝を抱えて座る宗一郎を見つけて目を見張る。
いつも通り料理をしている千代より、宗一郎の様子の方が明らかにおかしい。
「おじいちゃん、どうしたの?」
結衣が後ろから肩を叩くと、宗一郎は切れかけのゼンマイのおもちゃのようにゆっくりと振り返る。
「ああ、結衣か。おはよう……」
盛大なため息を吐き、俯いてしまう。
宗一郎はいつも姿勢が良く、穏やかな表情をしている。こんな背を丸めて生気のない表情は初めて見た。結衣は戸惑いながら、隣に立つ善に目を向ける。
「善、おじいちゃんどうしたの?」
「千代が原因だ」
「喧嘩でもしたの?」
結衣の知る限り、千代と宗一郎が喧嘩をしたことはない。
いつも仲睦まじく、お互いを大事にしている。
善は「いや」と首を振った。
「お食事ができましたよ」
おぼんに食事を乗せて、千代がテーブルに並べながら笑う。
結衣は眉を寄せた。
「おばあちゃんは普通じゃん」
善に耳打ちすると、剣のある目を向けられた。
千代は結衣を見ると、にっこりと微笑む。
「あら、可愛らしいお嬢さんね。神主様のお孫さんかしら?」
千代の言葉に、全員が固まる。
「……結衣のこともわからないのか?」
宗一郎が震える唇で問えば、千代は首を傾ける。
「結衣ちゃんって言うの? 名前も可愛いのね」
「なに言ってるの? この名前はおばあちゃんが付けたんだよ」
結衣が生まれる前にみんなで名前の候補を上げて、千代の提案した結衣に決まった。
「そう、素敵ね」
千代はキッチンに戻っていく。残りのものを、おぼんに乗せているようだ。
「どういうこと? なんでおばあちゃん、私のこと知らないみたいになってんの?」
「結衣だけではない。宗一郎のことも忘れている」
結衣と宗一郎は青くなった顔を見合わせた。
「善は?」
「俺のことは覚えているようだ。違和感はあったんだ。千代はいつも結衣と宗一郎のことを祈っている。それが今朝は自分のことを祈った。いつもと違って全く心のこもっていない、義務で手を合わせているだけのようだった」
「私とおじいちゃんだけが、忘れられたの?」
宗一郎は力無く頷いた。
「会話もできるし、家事もいつも通りやってくれている」
テキパキと配膳する千代を見て、結衣は不安で押しつぶされそうだった。
「認知症とかではないよね?」
「結衣と宗一郎だけを忘れているんだ。考えにくい」
昨日までは普通だった。千代は結衣も宗一郎も忘れていない。
「お食事、食べられますよ」
千代のいつもと変わらない笑顔が、不安感を増していく。
全員で席に着き、手を合わせて「いただきます」と食べ始める。
お味噌汁も卵焼きも、結衣の大好きないつもの味だ。
結衣は涙ぐみながら完食した。
食事を終えて千代が食器を洗っている間に、結衣たちは頭を突きつけて小声で話し合う。
「善様、原因はわかっていないのですよね?」
「ああ、なにものかに記憶を奪われたのだとは思うが」
善は口元に手を添えて、考え込んでしまった。
「記憶を奪われたって、そいつを見つけ出せばいいの?」
「まあ、そうだが、手がかりがなにもない」
「おばあちゃんを元に戻すためだったら、町中探し回ってやるわよ!」
拳を握って意気込む結衣だが、宗一郎が首を振る。
「結衣は学校に行きなさい」
「なんで? 学校よりおばあちゃんだよ」
「手がかりもなく探し回っても、見つけるのは難しい。記憶も勝手に戻るかもしれないし、今は様子を見ることしかできない。千代の記憶が戻った時に、結衣が学校を休んだと知れば、千代が悲しむのではないか?」
結衣は善に諭され、奥歯を噛み締めた。
「今日でテストが終わるから、お昼には帰ってくるから」
「なにかわかったら、メッセージを送る」
「絶対にすぐに送ってよ」
結衣は自室に戻って着替え、「いってきます」と告げて家を出た。




