さよならの予行練習
さよならの予行練習
観光案内所に勤めて三年になる。港の端っこ、遊覧船乗り場の横に建つプレハブ。窓口のガラスには、潮風でできた細い傷が無数に走っている。
朝いちばん、コーヒーの紙コップを持って鍵を回すと、わずかに塩の匂いが混じった空気が流れ込んできた。壁に掛かったデジタル時計は、毎日一分ずつ遅れる。総務に言っても、「潮のせい」と片付けられた。「潮は時間を溶かすから」と笑う人までいる。
べつに嫌いじゃない。時間が少しゆるむ場所は、たまに人の呼吸を助ける。
僕の名前は高梨透、二十八歳。案内所で地図を配り、遊覧船の時間を説明し、たまに旅行者の愚痴を受け止める。海の色は天気よりも人の機嫌に左右される、というのが最近の発見だ。
その日、最初のお客は高校生くらいの女の子だった。制服のスカートのすそに、ほころびた糸が一本ぶら下がっている。
「バス、何番ですか。展望台まで」
いきなりの早口。目はスマホから上がらない。
「三番乗り場の市内循環。二十五分に出るやつ。……って、もう二十三分だ。走れば間に合う」
「走りません。汗かくから」
返事だけははっきりして、女の子は窓口に小銭入れを置いた。「パンフだけください。あと、ここでアルバイトって募集してます?」
「してないですね。人件費、潮に溶けちゃって」
「冗談うまくないですね」
彼女はパンフを丸めて、肩掛けのトートに差し込んだ。帰り際、振り向きざまに言う。「さよならの予行練習って、効きますかね」
「え?」
「別れの予行練習。SNSで見たんです。先にちょっとずつさよならに慣れておくと、本番の痛みが少なくなるって。わたし、今夜、家出するつもりで」
初対面の窓口で言う話じゃない。けれど、案内所には時々、行き先のない言葉が届く。
「……練習の相手、必要?」
「別に。知らない大人に話すと、少しだけ楽かなって」
女の子はマスクの下で声を落とした。「名前はミオ。じゃあ、さよなら——」
言い終わらないうちに、バスの発車ベルが遠くで鳴った。彼女は走らないと言いながら、結局は走った。パンフがトートから半分はみ出し、ほころびた糸が海風に揺れていた。
十時を過ぎて観光客がぽつぽつ増えた頃、案内所の裏口を叩く音がした。
「透くん、いるか」
古い漁師ジャンパーの男が顔を出した。波待桟橋の元船長、梶さん。七十代、現役を退いてからは港をただ歩くのが仕事みたいになっている。
「おはようございます」
「おはよう。……時計、今日も遅れてるな」
「潮のせいらしいです」
「潮は時間を溶かす。ほんとにそうだな」
梶さんは、ポケットから小さな封筒を出した。色褪せた茶封筒の宛名には、黒のボールペンで「高梨透さま」とある。
「これ、郵便受けんとこに落ちてた。古い字だ」
受け取った瞬間、胸の奥で古い鈴が鳴るような感覚がした。見覚えがある筆跡だった。高校のとき、いちばんの友だちだった航平の字だ。卒業式のあと、ぼくらはまともに話さないまま別れて、その翌年、彼は夜の事故で死んだ。
封は閉じられ、裏には驚くほど丁寧に糊が塗られている。切手はない。投函する前に、誰かがしまい込んで、それっきり忘れられた手紙。
「……ありがとうございます。梶さん、これ」
「読まなくていいのか」
「今は、案内所の当番なので」
笑ってごまかしたけれど、指先は震えていた。時間が遅れる時計の下で、止まっていたはずの何かが動き出す気配がする。
昼休み、裏のベンチで封を切った。中には一枚の便箋。インクは少し滲んでいる。
透へ
あの夜、俺は怒っていた。おまえが東京に行くって言ったから。馬鹿にされたみたいでムキになって、あんな言い方をした。
二人で港を出るつもりだったろ。嘘みたいだな。
おまえのことを嫌いで言ったわけじゃない。俺は、おまえがいなくなるのが怖かった。
もし、これを読んでるなら、俺はもう謝れないときにいるんだろう。
いつか、展望台の上で待ってる。
航平
便箋の端に、茶色い輪染みがあった。コーヒーか、涙か、潮だか。
ぼくは東京に行かなかった。家庭の事情で、と簡単に言えば終わるけれど、要するに怖気づいたのだ。知らない街より、ここで何とかする方が楽だと思った。ぼくが港に残った年、航平は夜のカーブでブレーキを踏み損ねた。飲酒運転じゃない。スピードも出していなかった。道路の陰に潜んでいた何かに足を引かれたみたいに、人はときどき転ぶ。その程度の、不条理。
手紙は事故の前か、直後に書かれたのだろう。出されなかったまま、どこかの引き出しで眠り、潮に少しずつ削られて、梶さんの手で案内所までやって来た。
午後、窓口にミオが戻ってきた。バスは間に合って、展望台はまあまあだったらしい。
「さよならの予行練習、やっぱり必要です」
「相手がいるほうがやりやすいよ」
「じゃあ、ここで。お兄さん、適当に嫌な大人になってください」
ミオはまっすぐぼくの目を見る。冗談の目じゃない。
「わたし、今日の夜、家出しようと思います。理由は、別にひどくないです。ただ、家がうるさい。将来とか、進学とか、勝手に決めようとする。わたし、うまく怒れないから、いなくなるのがいちばん楽だと思う」
「……うん」
「さよなら、って言われる前に、自分で言いたい。じゃないと負ける気がする。負けたくない」
それは、どこかで聞いたことのある欲望だった。置いていかれる側になるくらいなら、先に背中を向けたい。十七歳の航平が、よく似た顔をしていた。
「練習しよう」とぼくは言った。「さよならは、言う相手と、言わない相手がいる。言わなくていい相手には、練習もいらない。言うべき相手は、たぶん、いたたまれないほど近いひとだ」
「……家族」
「うん。でも、練習の一回目は赤の他人でいい。たとえば、窓口のひととか」
「じゃあ」
ミオは小さく息を吸った。
「お兄さん。わたし、行きます。さよなら。戻らないかもしれないけど、後悔はしない。——どうですか」
「合格」
「早い」
「ただし、一個足りない。行き先を言わないと、さよならは迷子になる」
「行き先……」
「何でもいい。コンビニでも、橋の上でも。夜ってのは広すぎる。広すぎる場所に放つさよならは、風に負ける」
「じゃあ、港。夜の港。……ダサい?」
「ぜんぜん。ぼくもそこでよく練習した」
「お兄さんも?」
ぼくは航平の手紙のことを話した。途中まで。死のことは言わず、別れ損ねた友だちのことだけを。
「それで、どうやって練習したんですか」
「夜の港で、遠くの船に手を振る。名前を呼ばない。呼ぶとこっちを向くから。向かれたら終わる。こっちが勝手に区切りを作る。それが予行練習」
「効きました?」
「半分は。残り半分は、時間が溶かしてくれた」
ミオは笑った。子どもの笑顔でも、大人の笑顔でもない、中途半端さのまま強い笑顔。
「夜になったら、来ます」
「来なくてもいいよ」
「来ます。見張っててください。逃げたら怒って」
「怒るのは苦手だ」
「じゃあ、怒る練習もしましょう」
夕方、梶さんがまた顔を出した。
「今夜、風が変わる。沖に出る遊覧船、欠航だな」
「はい、会社から連絡が」
「風向きが変わると、人間も少し変わる。よかったな、予行練習には向いてる夜だ」
「梶さん、展望台って、夜は入れますか」
「階段がよく滑る。暗い。行くなら誰かとだ」
誰かと。ぼくは封筒をポケットに忍ばせた。観覧山。航平が手紙で指定した場所。
「梶さん、もし——」
「行ってこい。仕事は俺が見張っとく」
「見張る?」
「案内所も人間も、見張るやつが必要だ。潮は何でも少しずつ削る。目を離すと、角からなくなる」
梶さんの言葉は、ときどき海図みたいで、読み方にコツがいる。
夜、港の灯が風にゆれる。欠航の看板には、がっかりした観光客の指紋がいくつもついた。ぼくはシャッターを半分下ろし、残りの半分から海の色を見張る。
十時きっかり、ミオが来た。パーカーを羽織って、ヘッドホンを首にぶら下げている。息が少し荒い。家で何かあったのだろう。
「来ました」
「来たね」
「怒ってください」
「遅刻」
「それは怒りじゃなくて指摘」
「じゃあ本気で怒る。……怒るほど、ぼくは君のことを知らない」
「ずるい」
「その代わり、ここにいる」
港の端、黒い水面が遠くまで続いている。ミオは柵に肘を置き、ヘッドホンを耳にかけた。
「音楽、流す?」
「今日は波の音でいいです」
彼女はポケットから折り畳んだ紙を出した。
「家族宛ての紙。置いてきた。ちゃんと見えるところに。練習じゃなくて、本番のほう」
「行き先は?」
「ここ。港。夜が明けるまで」
ぼくは、展望台へ行く予定を少しだけ延期することにした。
「港には、さよならのための灯りがある」
「灯り?」
「船が帰ってくるためのね。帰る灯りを、出る人の背中にも少し借りるんだ。勝手に」
「勝手に、か」
ミオが柵に頬をあずける。風が強くなり、パーカーのフードがふくらむ。
「お兄さん、何か抱えてる顔」
「わかる?」
「さっき、展望台って言いましたよね。そこに、誰か」
「友だち。会えないやつ」
「そっちが本番だ」
「うん。……行ってくる。戻ってくるよ。ここに」
「約束」
ぼくは頷き、向かった。展望台は港の背骨にあたる小さな丘で、薄い街灯の下、落ち葉が濡れている。風は上に行くほど冷たく、塩の味が薄くなる。
山頂は、すこし頼りない鉄の骨で組まれている。上ると、港も街も、真夜中の顔で静かにこちらを見る。
柵に触れ、ポケットから茶封筒を出した。
「ここにいるか」
声は風にちぎれ、海に落ちた。誰もいない。いるはずがない。でも、いないことを確かめに来る行為は、思っていたよりも重い。
「航平」
手紙を読み返す。言葉は、ここを指していた。「いつか、展望台の上で待ってる」。
待っているのは、たぶん、ぼくのほうだった。
「遅くなった」
それだけ言って、便箋を封筒に戻した。何か区切りの合図が必要だと思って、柵から港に向かって、ゆっくり手を振った。名前は呼ばない。予行練習どおり。
そのとき、背後で足音がした。振り向くと、梶さんが息を切らせている。
「透くん——」
「びっくりした。どうしたんですか」
「港、風向きが変わって白波が立ってる。ミオって子、ひとりにすんな。あれは、夜の匂いが分かる顔だ」
ぼくは頷き、階段を駆け下りた。港に戻ると、ミオは柵の外、反対側のテトラポッドの上に立っていた。
「危ない!」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
ぼくは柵を乗り越え、彼女の袖をつかんだ。風が強く吹き、二人ともバランスを崩す。テトラの石に膝を打った。鈍い痛み。
「ごめん」
「怒って」
「……怒る。勝手に終わらせるな。君の家族も、君自身も、さよならを言う時間を奪われるのはきっと嫌だ」
ミオは、ぱっと顔を上げた。「さよならの時間?」
「予行練習は、言う時間を確保するための準備だ。本番を早めるためじゃない」
しばらく黙っていたミオの目から、音もなく涙が落ちた。
「負けたくなかった。勝ち負けじゃないのに。……帰ります。朝まで」
「朝まで?」
「帰り道、怖い。少しだけ、ここにいて、朝になったら帰る」
「ここでいい」
柵の内側に戻り、ベンチに座る。梶さんが缶のホットココアを二つ差し出した。どこから持ってきたのか、片方だけ温い。
「潮は、時間を溶かす。けど、こういう夜は固める」
梶さんが言う。
「固める?」
「人の中の、やわらかすぎるところを、少しだけ固める。風がその役をする」
ミオはココアを両手で抱き、目を閉じた。風が頬を撫で、灯りが海に途切れ途切れの道を作る。夜の真ん中で、ぼくらは耳を澄ます。遠く、船の汽笛。誰かのスマホの振動。ささいな音の寄せ集めが、夜を形にする。
明け方、東の空が薄くほどけた頃、ミオがぽつりと言った。
「帰ります。……一緒に来てほしいとかじゃない。自分の足で行きたい。でも、背中だけ見ていて」
「もちろん」
ぼくと梶さんは少し離れて歩いた。港の坂を上がり、アーケードのシャッター街を抜け、ミオの家の角まで。家の前に、紙が一枚貼ってあった。
〈夜の港にいます。朝になったら帰ります。ミオ〉
ミオはそれを自分で外し、折りたたんでポケットにしまった。
「ただいま」
玄関のドアに向けて、彼女は小さく言った。鍵が回る音。中から、人の気配。
振り向いたミオの目は、なぜかすっきりしていた。
「ありがとうございました」
「うん」
「さよなら」
「また」
彼女は笑い、ドアの隙間に消えた。
昼、案内所はいつもよりも忙しかった。風のあと、海は観光に優しい顔をする。
梶さんが窓口の横に立ち、手の甲のシミを気にしながら言う。
「透くん、今夜、観覧山で何か忘れてきただろ」
「手を振るのを、途中でやめた」
「じゃあ、今度は最後まで振れ」
「はい」
仕事が終わってから、ぼくはもう一度展望台に上った。今夜の風は昨夜ほど強くない。港の灯りは濃く、空には薄い星がいくつか。
封筒を出す。便箋を取り出し、声に出して読んだ。
「俺は、おまえがいなくなるのが怖かった」
言葉は風にとかされ、夜の形に混じる。ぼくは柵に手をかけ、今度は最後まで、ゆっくりと手を振った。
名前を呼ばない。呼ばないまま、もう一度だけ振る。
これで、予行練習は終わりだ。
帰り道、港の角でミオが待っていた。パーカーのフードを被り、ヘッドホンから漏れる音は静かだ。
「ただいまの予行練習、してきました」
「どうだった」
「思っていたより難しくない。難しいのは、相手がいると思うこと」
「いるよ」
「いる、ですね」
ミオは小さくため息をつく。「家のこと、すぐには何も変わらないと思う。でも、言いたいことを言う予行練習を始めます」
「付き合う」
「頼っていいの?」
「頼る練習もしよう」
彼女はうなずき、ふと、ぼくのポケットの封筒に目を止めた。
「それ、捨てるの?」
「捨てない。持ってる」
「じゃあ、預かります?」
「どうして」
「人に預けると、少しだけ軽くなる。……って誰かが言ってました」
「誰が」
「さっき会った、港の観光案内所の人」
ぼくは笑って、封筒を渡した。ミオは慎重に両手で受け取り、胸ポケットに入れた。
「落としたら怒ってください」
「怒る練習の機会をそんなにくれるの」
「必要そうだから」
二人で港を歩く。夜の海は、相変わらず遠くまで続いている。
「ねえ、お兄さん」
「うん」
「予行練習って、いつ終わるんですか」
「本番が始まったとき」
「本番は、いつ」
「たぶん、気づかないうちに始まってる。今みたいに」
ミオはそれを聞いて、静かに笑った。
「じゃあ、わたしたち、結構すでにがんばってますね」
「だね」
港の灯りが、海面に細長い道を作っている。帰るための道はいつも、どこかに用意されている。出るための道も、たぶん、同じところに。
翌朝、案内所の時計を直した。電池を新しく入れて、壁に掛け直す。それでも、一分遅れている。
「潮のせいだな」
梶さんが笑って言う。
「潮のせいですね」
ぼくは笑いながら、窓口を開ける。
最初のお客は、またミオだった。制服じゃない。ジーンズに白いシャツ。
「パンフ一枚。あと、ここでアルバイト募集してます?」
「してない。でも、勝手に手伝うのは募集してる」
「勝手に?」
「パンフをきれいに積むとか、窓を拭くとか。……怒られたら一緒に謝る」
「一緒に怒られる」
「それも」
ミオは頷き、カウンターの中に入り、窓ガラスを布で磨き始めた。潮の細い傷は消えないけれど、指紋は消える。
「お兄さん」
「はい」
「さよならの予行練習、次は家でやります。相手にちゃんと言いたい。『わたしはわたしで決めたい』って。帰ってから、泣いてもいいから」
「それは、いい本番だ」
彼女は少し照れた顔で、胸ポケットの封筒に手を当てた。
「預かりもの、大事にします」
「ありがとう」
案内所のドアが開き、潮の匂いがまた流れ込む。
時計は、一分遅れたまま、正確に時を刻む。
それでいい、とぼくは思う。少し遅れる時計が示すのは、たぶん、誰かのために立ち止まった一分だ。潮に溶けて消えたわけじゃない。港のどこか、目に見えない棚の上に、やさしく積まれている。
その一分を取り戻す術を、ぼくらはときどき練習する。手を振るみたいに、名前を呼ばないみたいに、さよならの予行練習を繰り返しながら。
午後、遠足の子どもたちが列を作ってやって来た。配る地図が足りなくなり、ミオが裏から束を運ぶ。
「重い?」
「平気。こう見えて筋肉ある」
「どこに」
「ここに」
彼女は胸を張り、笑ってみせた。
笑い声は潮に溶けず、案内所の天井に小さな星みたいに残った。
ぼくはその星の下で、航平に心の中で言う。——遅くなって、ごめん。間に合って、よかった。
海は、何も答えない。けれど、港の風向きは少しだけ、こちらのほうに変わった気がした。
さよならの予行練習は、つづく。
そして、いつのまにか始まっている本番も、きっと、つづいていく。