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お菓子作りへの情熱だけは誰にも負けませんの! ~断罪寸前、悪役令嬢は渾身のケーキで王子の胃袋(と心)を鷲掴みにしたらしい~

作者: マグロサメ

 パティ・シュクレール公爵令嬢は、自他ともに認める「おっとり系」である。貴族の子女としての勉学や淑女教育は正直なところ苦手で、刺繍をすれば指を刺し、ダンスをすれば相手の足を踏み、歴史の授業ではこっくりこっくりと船を漕ぐ始末。周囲からは「シュクレール公爵家のお嬢様は、少々頭の回転がお緩やかでいらっしゃる」と、遠巻きに囁かれることもしばしばだった。


 しかし、そんなパティにも、誰にも負けないと自負するものがあった。それは、お菓子作りに対する、燃えるような情熱と海より深い愛情、そして驚くべき集中力である。ひとたび厨房に立てば、普段のぼんやりとした面影はどこへやら。その手際は熟練の菓子職人のように的確で、彼女が生み出すお菓子は、なぜか食べた者をふんわりと幸せな気持ちにさせる不思議な力を持っていた。もっとも、パティ自身はその力に全く無自覚で、「美味しいものを食べれば、誰だって幸せになりますわよね?」と首を傾げるばかりなのだが。


 近頃、パティの婚約者であるエクレール王子が、新進気鋭のシフォン男爵令嬢と親密にしているという噂が、パティの耳にも風のように届いていた。侍女たちは「パティ様、もっと危機感をお持ちくださいませ! このままでは婚約破棄も……!」と青い顔で訴えるが、当のパティは「あら、王子様がお友達と仲良くされるのは良いことですわ」と、あまり気にした風もない。


 それよりも彼女の頭の中は、近々行われる王子の誕生日パーティーで披露する新作ケーキのことでいっぱいだった。


「王子様、最近公務でお疲れのご様子だもの。わたくしの特製ケーキで、うーんと元気になっていただかなくっちゃ!」


 今日も今日とて、王宮の厨房を借り切り、目を輝かせながら試作品のスポンジを焼き上げているパティ。その姿に、侍女頭のマドレーヌは深いため息をつくのだった。


 そんなある日のこと。王子の誕生日パーティーを明日に控えた夕刻、パティはエクレール王子に呼び出された。彼の執務室には、なぜか涙に濡れた瞳で王子に寄り添うシフォン男爵令嬢の姿があった。


「パティ・シュクレール。君に聞きたいことがある」


 エクレール王子の声は、氷のように冷たかった。


「聞けば、君はシフォン嬢に嫉妬し、陰湿な嫌がらせを繰り返しているそうだな。彼女のドレスを汚したり、大切な髪飾りを隠したり……そんな卑劣な真似をするとは、公爵令嬢にあるまじき行為だ」


「え……? わたくし、そのようなことは……」


 パティが戸惑いの声を上げると、シフォン嬢がさらに悲痛な声を上げた。


「ひどいですわ、パティ様! わたくし、王子様とお親しくさせていただいているだけで、何も悪いことなどしておりませんのに……!」


「明日のパーティーで、皆の前で真実を明らかにする。覚悟しておくように」


 王子はそれだけを告げると、パティに背を向けた。


 自室に戻ったパティは、さすがにショックで呆然としていた。侍女たちは「やはりシフォン様の策略ですわ!」「王子様は何も分かってくださらない!」と憤慨し、中には涙ぐむ者もいる。


「……わたくし、本当に何もしておりませんもの。でも、王子様がああおっしゃるのなら、何か大きな誤解があるのかもしれませんわ……」


 しばらく俯いていたパティだったが、ふと顔を上げた。その瞳には、いつものおっとりとした光ではなく、決意の輝きが宿っていた。


「そうだわ! 明日は王子様の大切なお誕生日ですもの! 落ち込んでいる場合ではありませんわ!」


「パ、パティ様……?」


「最高のケーキを作って、お祝いの気持ちをお伝えするのです! 心を込めて作ったケーキを召し上がっていただければ、きっと王子様も……わたくしの真心を分かってくださるはず!」


 やはりどこかズレた結論ではあったが、その言葉には一点の曇りもない純粋な想いが込められていた。侍女たちの「今はケーキどころでは……!」という悲痛な叫びも、今のパティの耳には届かなかった。


 その夜、パティは王宮の厨房に一人籠った。マドレーヌは最後まで反対したが、「わたくしの気持ちを形にできるのは、お菓子作りだけなのです」というパティの真剣な眼差しに、最後は折れるしかなかった。


「王子様の好きなベリーをたっぷり使って……生地は天使の羽のようにふわふわに……クリームは、そう、最高級の生クリームと、隠し味にわたくしの庭で採れたハチミツを少しだけ。甘すぎず、でも記憶に残る濃厚な味わいに……」


 ぶつぶつと独り言を呟きながら、パティは一心不乱に手を動かす。小麦粉を振るう音、卵を泡立てる音、オーブンから漂う甘い香り。普段の彼女からは想像もつかないほどの鋭い集中力と、迷いのない的確な手際。額に浮かんだ汗も拭わず、パティはただひたすらに、王子への想いを目の前のケーキに注ぎ込んでいく。それは、まるで神聖な儀式のようでもあった。


 夜が白み始める頃、ついに三段重ねの壮麗なバースデーケーキが完成した。雪のように白いクリームの上に、朝露に濡れた宝石のように輝く色とりどりのベリーが惜しげもなく飾られている。それはもはやケーキというより、芸術品と呼ぶにふさわしい出来栄えだった。


「……王子様、喜んでくださるといいわ」


 満足そうに微笑むパティの顔には、徹夜の疲れなど微塵も感じられなかった。


 そして、運命の誕生日パーティー当日。


 会場は華やかな雰囲気に包まれているが、どこか不穏な空気が漂っている。注目の的は、やはりパティと、王子、そしてシフォン男爵令嬢だ。


 やがて、音楽が止み、エクレール王子が中央に進み出た。その隣には、悲劇のヒロイン然としたシフォン嬢が寄り添っている。


「皆に聞いてもらいたいことがある」


 王子の声が響き渡ると、会場は水を打ったように静まり返った。


 シフォン嬢が、震える声で涙ながらにパティから受けたという「数々の嫌がらせ」を訴え始める。その巧妙な嘘と演技に、会場の同情はシフォン嬢へと集まっていく。


「パティ・シュクレール。何か言い分はあるか?」


 冷え切った声で、王子がパティに問い詰める。誰もが、パティの断罪と婚約破棄を確信した瞬間だった。


 しかし、パティは臆することなく、堂々と前に進み出た。その手には、あの巨大で美しいバースデーケーキが捧げ持たれている。


「言い分……でございますか? その前に、エクレール王子様、お誕生日おめでとうございます! 心を込めて作りましたの! どうぞ、召し上がってくださいませ!」


 高らかに響くパティの声。そして、目の前に差し出された、あまりにも美しく、そして信じられないほど甘美な香りを放つケーキ。


 会場の空気が、完全に凍りついた。誰もが、この状況でケーキを差し出すパティの行動を理解できなかった。


 しかし、一人だけ違う反応を示した者がいた。エクレール王子である。


 隠れ甘党の彼は、目の前のケーキから立ち昇る芳醇な香りと、完璧な見た目に、思わずゴクリと喉を鳴らした。日頃のクールな仮面も忘れ、その瞳はケーキに釘付けになっている。


「お、王子様……? 今はそのような場合では……」


 側近が慌てて声をかけるが、もはや王子の耳には届いていない。


「……一口だけだ」


 そう呟くと、王子は用意されたフォークを手に取り、ためらうことなくケーキに突き刺した。そして、ふわりとしたスポンジとクリーム、甘酸っぱいベリーを一緒に口へと運ぶ。


 次の瞬間、エクレール王子の瞳が驚きに見開かれた。


「こ、これは……!!」


 口の中に広がる、至福の味わい。天使の羽のように軽やかなスポンジ、濃厚ながらも決してくどくない絶妙な甘さのクリーム、そしてフレッシュなベリーの酸味が完璧なハーモニーを奏でている。一口、また一口と食べる手が止まらない。


「う……美味い……! こんな美味いケーキは、生まれてこの方、一度も食べたことがないぞ……!!」


 王子の口から洩れたのは、断罪の言葉ではなく、ケーキへの最大級の賛辞だった。


 会場は再び静まり返り、今度は別の意味でパティに注目が集まる。シフォン嬢の顔は、信じられないものを見たかのように引き攣っていた。


 ケーキのあまりの美味しさに我を忘れていた王子だったが、ふと我に返り、パティを見た。彼女は、ただ嬉しそうに、期待に満ちた瞳で自分を見つめている。


(こんな……こんな純粋で、ひたむきで、そして途方もなく美味しいものを作れる人間が、本当にあのような卑劣な真似をするだろうか……?)


 王子の心に、初めて疑念が生じた。いや、疑念というよりは、「そうであってほしくない」という強い願いに近いものだったかもしれない。パティが心を込めてケーキに注ぎ込んだ「王子様を喜ばせたい」という純粋な想いが、不思議な力となって王子の心を優しく揺さぶったのだ。


 その時だった。


「お待ちください、王子様!」


 声を上げたのは、パティの侍女頭マドレーヌだった。彼女は、シフォン嬢が流した嘘の噂の矛盾点や、パティが徹夜でケーキを作っていた間の厨房の様子などを、冷静かつ的確に証言し始めた。


 さらに、以前パティの作った焼き菓子を偶然口にし、その美味しさとパティの純粋な人柄に感銘を受けていた年配の貴族夫人からも、「パティ様のようなお方が、人を陥れるようなことをなさるとは到底思えませんわ」という助け舟が入る。


 次々と明らかになるシフォン嬢の嘘の証拠。追い詰められたシフォン嬢は顔面蒼白になり、やがて全てが自分の策略であったことを白状した。


 エクレール王子は、自らの不明を恥じ、パティに深く頭を下げた。


「パティ嬢……いや、パティ。本当に、すまなかった。君の純粋な気持ちを踏みにじるところだった……」


「いいえ、王子様。わたくしのケーキを、あんなに美味しそうに召し上がってくださって……それが何より嬉しいですわ!」


 屈託なく微笑むパティに、王子は改めて心を射抜かれた。


 その後、シフォン男爵令嬢は当然のことながら厳罰に処され、社交界から追放された。


 そして、パティとエクレール王子の婚約は継続されることとなった。いや、継続どころか、王子はすっかりパティにベタ惚れになってしまったのだ。


「パティ……君のケーキがないと、私はもう生きていけないかもしれない……!」


 毎日、パティの作るお菓子を幸せそうに頬張る王子。その姿を見て、パティもまた、この上ない幸せを感じるのだった。


「王子様が喜んでくださるのが、わたくしの一番の幸せですもの!」


 彼女は相変わらずお菓子作りに夢中で、その情熱は衰えることを知らない。


 後日談。


 パティ・シュクレール公爵令嬢の作るお菓子は、「食べた者を幸せにする魔法のお菓子」として王宮で瞬く間に評判となり、やがて国中に広まっていった。彼女の純粋な情熱が生み出す甘い奇跡は、意図せずして、この国の食文化に輝かしい革命をもたらすことになるのだが──それはまた、別のお話である。


 そして人々は噂した。


「シュクレール公爵令嬢は、お菓子作りのこととなると天才的な頭脳を発揮されるらしい。その情熱と愛情こそが、最高の隠し味なのだ」と。


 パティは今日も、愛する人のために、そして誰かの笑顔のために、心を込めて粉を振るうのだった。

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