恩返し
真夜中。男はふらつく足取りで、一軒家に近づき、そっとドアを開けて中に入った。
廊下を進むたび床が軋み、その音に思わず身をこわばらせる。息を吸い、問題ないと自分に言い聞かせる。外から確認したとおり、この家には誰もいないようだった。
二階へ上がり、開け放たれた扉を見つけると、彼はその部屋に入り、床に倒れ込んだ。
溜め込んだ絶望が音になり、深いため息となって漏れた。そのときだった。
「あっ」
彼は思わず飛び起きた。廊下から、誰かがこちらを覗いていたのだ。ほんの一瞬だったが、確かに人の顔だった。
「あ、あの……」
彼がおそるおそる呼びかけると、その者は再び少し顔を覗かせた。長い髪を垂らした、どうやら若い女らしい。
「怯えないで……お願いだ、話を聞いてほしい……」
彼はできる限り穏やかな声で話しかけた。しかし、女は警戒しているのか、部屋の中には入ろうとしない。仕方なく彼はその場で説明を始めた。特殊任務中に問題が起き、負傷して身動きが取れなくなったこと。この家で少しの間だけ休ませてほしいこと。そして、このことは秘密にしてほしい、と。
女は何も言わなかったが、逃げる様子もない。どうやらここにいてもいいようだ。彼は安堵を覚えた。
それから数日が過ぎ、徐々に女のことがわかってきた。彼女はここに一人きりで暮らしているらしい。口がきけないのは、かつて家族から受けたひどい虐待が原因だった。長い間、自室に閉じ込められていた彼女がようやく外に出られたとき、家族はとっくにその家ごと放棄し、去っていた。
酷い話だ。女を見つめていると、その深い悲しみと苦しみが伝わってきて自然と涙が頬を伝い落ちる。自分自身の孤独と絶望に重なり、彼はいたく共感した。
彼女との生活は居心地が良かったが、別れのときが来た。
怪我が癒えた彼は、彼女をここから連れ出そうと誘った。しかし、彼女はただ静かに首を横に振った。彼女がこの家を離れる気がないことを悟った彼は落胆した。それでも、感謝と愛情から、彼は彼女と一つの約束をした。
必ず戻ってくる。そして――
「君の復讐を手伝うよ。この国の人間を皆殺しにすればいいんだろう? 大丈夫、任せてくれ。上にはこう報告する。『調査の結果、この星の知的生命体は非常に破壊的で残酷な存在だ。早急に手を打つべき』ってね。ふ、ふ、ふふ、不思議だな。き、き、君のために何かしたい、そう思うんだ。……じゃあ、またね、ふふふ、はははははははは!」
彼はそう言い残し、家を出ていった。そして、彼が乗り込んだ宇宙船は空高く舞い上がり、瞬く間に地球の空を抜けて消えた。
静かになった家の中で、女の幽霊は呟いた。
「イヤ……サスガニヤリスギカシラ……」