6 誘惑初心者
好きになってもらうってどうしたらいいの?
そのアンヌマリーの悩みはまず、シュノン城に仕える女たちの気持ちを燃え上がらせた。
レナートの両親は早くに亡くなり、レナートは祖父に育てられた。その祖父も今は城を離れているらしい。長い間女主人が不在の城に王都から女性が訪れたことは大きな期待と不安をもたらすものだが、侍女頭のマルチーヌがまず主人の意を汲んでアンヌマリーを丁重にもてなしてくれた。
また、王都からやってきた二人が、到着した次の日に八年前の戦いの戦没者を弔う墓地に正装をして詣でたことが辺境伯家の人々の心を溶かした。人々の心には自分たちばかりが戦い、王都の人間たちは守られるばかりで現状に無関心なのではないかという思いがあった。王都からの客人が真っ先に、その事に目を向けてくれたことはとても大きなことだったのだ。
アンヌマリーがアンドレやマルチーヌに積極的に辺境での暮らしを尋ねたり、自分にできることはないか尋ねたりしたことも好感につながった。そして、もっとも大きな転機となったのが、アンヌマリーがエミリアとともに、レナートの朝の日課である鍛錬の様子をそっと見守るようになったことである。何日もただ物陰から見守り続けるアンヌマリーをいぶかしんだマルチーヌに、眉を下げ心底困った顔でアンヌマリーが相談をしたことをきっかけに一気に女たちはアンヌマリーの味方になった。
主人を惑わそうとする悪女なら、手練手管はお手のもの、そんなことを聞くわけがない。
この若く可愛らしい貴族のお嬢さんはどこかで主人を見初め、どうにかしてその心を射止めたいとやってきたのだ。主人ももういい年、昔敵国の娘と恋仲だったという噂があるが、そんな相手よりも、早いところ自国のお嬢さんと婚姻して跡継ぎを生んでほしい。長い間、城勤めをしてきた女たちの気持ちはそんなところだろう。
「レナート様、どうぞお使いください」
というわけで、レナートの朝の鍛錬の際も、一歩進んで、マルチーヌが準備した汗を拭くための布と飲み物を渡せるようになった。
アンヌマリーがエミリアと護衛を連れて現れると、一緒に鍛錬していたレナートの側近たちもくつろいだ雰囲気になって、その中からレナートが自然と歩み寄ってくれるようになった。
初めのころは、アンヌマリーから目を離さなかったラヴェルは、アンヌマリーが女たちに馴染みはじめると安心したのかそばを離れるようになり、時折はレナートの朝の鍛錬にも混ざっているが今日はいないようだった。
「毎日ありがとうございます」
レナートが礼を言って受け取った布で汗を拭う。初めは恐縮していたが、次第に自然に笑って受け取ってくれるようになった。
「みなも喜んでいます。ただ、だんだん鍛錬に加わる者が増えてきてアンヌ様には申し訳ない」
エミリアが籠に入れてきた布を他の参加者たちにも配っている。受け取った者から嬉しそうな礼の声が上がる。
「準備してくれるのはマルチーヌたちですわ。わたしはただ鍛錬を見せていただいているだけですもの」
「若い者たちも張りが出ると言っています。鍛錬の質もあがりましたよ」
朝から近くで顔を合わせ、言葉を交わせるというだけでアンヌマリーには胸がいっぱいであったが、今日は思い切ってもう一歩踏み出してみてはどうか、とマルチーヌに勧められていた。
「レナート様、お願いがありますの」
「なんでしょう、アンヌ様?」
「よろしければ、お時間があるときに城下を案内してはいただけないでしょうか」
思い切って言ってみた。
これまではレナートと言葉を交わせるのは一緒にとる晩餐の席だけだった。ようやく朝も会話ができるようになったけれど、レナートの態度は幼い頃のアンヌマリーに対するものとあまり変わらない。もう少し話す機会を増やして、大人の女性として見てもらえるようになりたかった。
「ああ、せっかくですから町の様子も見ていただきたいですね。アンヌ様さえよろしければ今日の午後はいかがですか?」
「よろしいのですか、嬉しいわ」
「ラヴェル殿もちょうど城下に行きたいとおっしゃっていたので、お誘いしてみましょう」
ラヴェルも一緒。浮かれていた心がしゅんとしぼんで戻ってくる。けれど、一緒に出掛けることができることは嬉しくて、アンヌマリーはにこにこと笑った。
「すまんな、邪魔をして」
馬車に乗り込んでアンヌマリーの隣に座るなり、ラヴェルが頭を下げた。
「ええ、本当に」
「いや、そこは否定するべきだろ」
「あら、ごめんなさい。つい本音が」
「アンヌ、お前はいつも本音が漏れすぎだ」
「お二人は本当に仲がよろしいんですね」
ポンポンと言葉を交わす二人を向かいに座ったレナートが微笑ましいものを見る目で見ていた。
「いえ、そんな……」
失敗した、とアンヌマリーは赤くなった頬を押さえた。
しかし、ラヴェルはここぞとばかりに言い募った。
「そろそろレナート殿にも本性を知ってもらえ。レナート殿、もうお分かりかと思いますが、私は殿下といいアンヌといいこの従兄妹たちにさんざん振り回されているんですよ」
「そんなことないわよ、もうレナート様の前で変なこと言うのやめてちょうだい」
従兄妹同士の言い合いは、レナートの楽しそうな笑い声で遮られた。
「いや、失敬。あまりにも微笑ましくて」
それからしばらくレナートの顔から微笑みが消えなかった。こんな顔もなさるのね、とちらちらと見ながら、あからさまな子ども扱いにアンヌマリーは複雑な気分になった。
そんな話をしているうちに、三人をのせた馬車はひとつめの城壁をくぐり、なだらかな坂の左右には民家や商店が姿を現し始めた。レナートが御者に行先を指示してあるのだろう。馬車はゆっくりと町中を走っていく。
「町を囲む城壁には門が4つあって、門は深夜から早朝までは閉めています。それぞれ門番がいますから、深夜に着いた旅人も困ることはありません。この南門を入ってまっすぐ行くともっとも大きな繁華街に出ます。そちらは後で行くとして、まずはこの右手が……」
レナートがゆっくりと馬車の窓から見えるものを案内してくれる。レナートの声は落ち着いていて耳に馴染みやすい。幼いころに語りかけてくれた声をアンヌマリーは知らぬ間に思い出していた。ああ、ずっと聞きたかったのはこの声なのだと思う。
レナートの声に耳を傾けながら、街の様子を眺める。白い壁と茶色の屋根で統一された街並みは、シュノン城の茶色の壁とまとまった風景になっている。荷馬車が走ったり、買い物をする人々が歩いたりという生活の営みをアンヌマリーは温かい気持ちで見た。
そうしているうちに、ふと行手に背の高い鐘楼のある建物が目に入った。
「あの塔はなんでしょうか?」
「ああ、あそこは孤児院です」
「そうなのですね。ご迷惑にならなければ訪問したいわ」
王都にいたときも、時折慰問に訪れていた。まだ成人前の王女には公務というものはないが、年若い王女が訪問することは孤児たちを喜ばせた。直接言葉を交わすことで将来に希望を持つ者もいるらしいと聞いて、アンヌマリーはできるだけ母や姉と共に訪問するようにしていた。
「今日は難しいですが、近々訪問をする手配をしましょう。孤児院までは中々目が届いておりませんので、ご配慮に感謝します」
レナートが軽く頭を下げる。確かに慈善事業は夫人の仕事だ。レナート一人では慰問まで行うことは難しいだろう。自分のしてきたことが、ここでレナートの役に立てるのならば嬉しいことだとアンヌマリーは思った。