3 ブランノワ辺境伯の結ばれぬ恋
「ブランノワ辺境伯の結ばれぬ恋」
王太子の意向に従って、速やかに準備が進められ、アンヌマリーがラヴェルが準備した公爵家の無紋の馬車で王城を出立したのは、三日後のことだった。あまりのあわただしさに、アンヌマリーがラヴェルと顔を合わせたのも、オレールの前で辺境行きを承諾してから初めてだった。
お忍び用の無紋の馬車とはいっても公爵家のもの、箱のなかは広くブランノワ辺境伯領までの長旅もくつろいで過ごせそうだった。旅装の二人が向かい合って座り、アンヌマリーの隣には侍女のエミリアが控えていた。ラヴェルの侍従は御者の隣に座ったようだ。
その車内で、ラヴェルが切り出したのだ。どちらかといえば堅物で現実主義の従兄の口から発せられたロマンチックな言葉にアンヌマリーは大きな目をさらに見開き、紫玉の瞳をきらめかせた。
「ブランノワ辺境伯の結ばれぬ恋…」
「繰り返すな」
「だってラヴェルには似合わないわ」
「そんなことはない。いや、そんなことはどうでもいい。それよりもお前の話だ」
アンヌマリーは黙ったまま、小さく肩をすくめた。
もう何度も聞かされてきた。
八年前、フランの先王はリレイシェルとの和解を求め、王女パトラシアとリレイシェルの王太子オレールとの婚姻を提案してきた。そして、王女パトラシアの一行が和平のためにリレイシェルを訪れた。大使はフランの宰相であったシュルツ侯爵。そして、シュルツ侯爵の娘で王女の親しい友人でもあったファリア・フォン・アッヘンバッハもその一行の中にいた。
当時、ブランノワ辺境伯を継ぐ前のレナート・ローゼリッツも辺境伯の後継として、フランとの友好を深めるために王都に呼ばれ、親善の舞踏会でファリア・フォン・アッヘンバッハと出会い、そして、恋に落ちた。二十歳のレナートと十六歳のファリア、黒髪に黒い瞳の精悍な騎士と亜麻色の髪に緑の瞳の儚げな美少女、絵物語のような二人の姿は二国の和平の証として温かく見守られた。
むろん、肝心の王太子と王女の関係も穏やかに育まれていた。さまざまな条件を話し合い、一月後ようやく和平条約が締結される直前になって、王女一行は条約を結ばぬまま、突然帰国した。そして、その直後フランは宣戦布告し、リレイシェルに、つまり国境を接するブランノワ辺境伯領に攻め入ってきたのだった。
レナート・ローゼリッツは自領に取って返し、兵を率いて戦った。鬼気迫る戦いぶりであったという。その働きによって圧倒的な勝利をもたらしたレナート・ローゼリッツはブランノワ辺境伯を継ぐとともに、望むものを褒賞として与えようという王の言葉を賜った。
ファリア・フォン・アッヘンバッハとの婚姻を認めてほしい。
それがレナートの望みであった。
しかし、フランとの関係において要となるブランノワ辺境伯家に敵国の娘との婚姻を認めることはできず、その望みは却下された。むろん戦いの際の被害に対しての補償は十分になされたが、ブランノワ辺境伯個人に対する褒賞は辞退された。
そして、それから八年。レナートは今も妻を持たない。見目も良く、若くして爵位を継いだレナートには、娘を持つ家からの婚姻の打診が殺到したという話だが、独り身を貫く彼をいつしか人々は、シュルツ侯爵令嬢との恋に殉じたのだと言うようになった。
ブランノワ辺境伯の結ばれぬ恋は今もまだ続いているのだ、と。
ある日突然、ブランノワ辺境伯と結婚したい、と言い出した八歳の王女に、きっと見目のよいその姿に憧れた子どもの言うことと考え、周囲はまともに取り合っていなかった。けれど、何年たってもその考えを変えず、むしろその為に様々な努力を始めたことに慌て、ことの成り行きが伝えられたのが、十二歳のころ。
そして、アンヌマリーは気が付いたのだ。
あの時、レナート・ローゼリッツがあまりにも哀しそうだったのは、国王に婚姻を認められなかったからだということを。
アンヌマリーの成人が近づき、降嫁先を選定する段階になっても、そうした成り行きからブランノワ辺境伯は降嫁先として避けられてきた。けれど、昨今のフランとの状況を特に憂慮したオレールがアンヌマリーが辺境伯家に降嫁することの利点を重視し、先日ようやく国王に認めさせたのだった。
「確かに王太子殿下のおっしゃる通り、王女が辺境伯家へ嫁ぐことは両者の結びつきという点では良いと思うが、王家がそれをブランノワ辺境伯に強要するのは逆効果ではないかと俺は思う」
「そんなこと、分かっているわ」
「分かっていたら、断られたところに押しかけるなんて真似しないんじゃないか」
正論をぶつけられてアンヌマリーは黙るしかなくなってしまう。
「いい加減教えてくれ。アンヌはなんでそんなに彼と結婚したいんだ?いったいどこでどんなかかわりをもったんだ」
「内緒なの」
アンヌマリーがブランノワ辺境伯に会ったのはただ一度。それも幼いころのほんの束の間。けれど、とても大切な時間だったから、誰にも言いたくなかった。
「そんなに好きなのか?もし彼が今でも昔の恋人を忘れられなくても」
昔の恋人。そう言われても実はアンヌマリーには実感がない。なにしろそのころアンヌマリーは幼い子供で、ブランノワ辺境伯は大人に見えたからだ。実際に二人でいる姿を見たこともないことも大きいだろう。むしろ、一途な騎士の姿は絵本の中の恋物語のようにアンヌマリーの心をときめかせた。
アンヌマリーが慕うのは、みんなが噂をする彼ではなく、泣いていたアンヌマリーを慰め、勇気をくれた人だ。アンヌマリーはただ彼のくれた言葉を何度も繰り返して思い出す。最後に見た目を細めて笑う顔を何度も思い出す。それはいつもアンヌマリーを支えてくれる。そうして、もう一度会いたいと思う。それを恋だと思った。
幼いころはただ憧れとして、「辺境伯のお嫁さんになりたい」と言った。長じて、事情を知ってからは、口に出していうことはやめたけれど、諦めることはできなかった。王女の身として、他に嫁ぐことがリレイシェルのためになるのであれば、諦めようと思っていた。けれど、諦めなくてもいいのであれば、努力すれば願いが叶うのであれば、願いを叶えたかった。
「お兄さまにはああ言ったけど、辺境伯に無理強いするつもりはないの。ブランノワ辺境伯にお会いして断られたら諦めるわ。でも、わたしが嫁ぐことで辺境伯家を助けることができるというのなら、できることはしたいの。お願い、ラヴェル。わたしを助けて」
「…まったく、君たち兄妹は昔から、俺を使うのがうまいな」
ラヴェルが憮然とした顔で呟いた。