2 初恋
アンヌマリーの瞳は鮮やかな紫だ。
鏡を見て失望し、ぎゅっと目をつぶる。願いをこめて目を開けてもやはり紫色の瞳がまっすぐ見返してくる。その紫色の瞳がじわじわと滲んで見えなくなる。小さな声をあげて幼いアンヌマリーは泣いた。
リレイシェルの王族デヴィン家に生まれる人間は金色の髪に碧玉の瞳を持つ。
アンヌマリーの祖父も父も、そして兄も姉も弟も。アンヌマリーもみんなと同じ金髪だ。けれど瞳だけは紫玉なのだ。
遠い先祖にその色の瞳を持った王女がいて、時折紫色の瞳を持った王女が生まれることがあるため、先祖返りと言われる。しかし、紫の瞳を持った王女が生きた時代に戦争などの災いが生じたことがあったため、特に古い世代の人間の中には「禍を呼ぶ瞳」などと言って、その瞳の色を厭う者がいた。
アンヌマリーの親兄弟はそんなことはことはまったく意に介さずアンヌマリーを愛した。アンヌマリー付きの侍女たちも人形のように愛らしい王女を愛おしんだ。それでも、愛する家族の中で自分だけが持つべき色を持たずに生まれてきたこと、時折ひそやかな声で囁かれる忌言葉は幼いアンヌマリーを傷つけた。
八年前のその日、アンヌマリーは侍女と共に王城内の居住区を移動していた。
アンヌマリーが通りすぎるのを頭を下げて見送るメイドたちの中から、
「縁起でもない、あんな紫の瞳を見るなんて」
思わず漏れてしまったような声が聞こえた。アンヌマリーが立ち止まる。侍女が声を出したメイドを叱責すると逆にメイドは露骨にアンヌマリーから顔をそむけた。
「今度の戦争が起こったのだって、その紫の瞳のせいだと言う人がいます。本当はみんなそう思っているんじゃないのですか」
人々に不幸をもたらしたのかもしれない。その言葉はアンヌマリーの心に突き刺さった。本当は嫌われているのかしら、そう思うと大好きな侍女たちだったのに、一緒にいるのが怖くなってアンヌマリーは逃げるように駆け出した。
名を呼んで追いかけてくる侍女たちから逃げて、庭に走り出た。広い庭を走り、初秋の花々が咲き、丈の高い草木が作った緑の茂みの中に駆け込んだ。案の定緑の茂みはアンヌマリーの姿を隠してくれた。その中をやみくもに突き進んで、やがて疲れてアンヌマリーはしゃがみこんだ。こらえてきた涙があふれる。ここならば誰にも気づかれないと思って、アンヌマリーは我慢をやめた。
思う存分泣いて、少し心が落ち着いて辺りを見回すと、そこはまったく見覚えのない風景で、アンヌマリーはおそるおそる立ちあがった。茂みを出るとそこには小さな噴水があり、その先はまたきれいに剪定された別の庭に続いていた。その噴水の前に正装をした一人の男がいた。
大人の男の人なのに、アンヌマリーはその人があまりに哀しそうで目が離せなくなった。
ずっと見ていると、視線に気づいたのか、男はアンヌマリーを見て少し驚いた顔をした後、ゆっくりと近寄ってきて、アンヌマリーの前に片膝をついた。
「小さなお姫様、どうなさったのですか? お供の方はご一緒ではないのですか?」
大人の男の人だと思ったけれど、お父様ほど大人ではない、とアンヌマリーは思った。あまり接する機会のない異性に「お姫様」と呼ばれてドキドキした。なんと返事をしたらいいのか戸惑っていると、アンヌマリーの顔に残る涙の跡に気づいたのか、眉をひそめた。
「なにか悲しいことがありましたか?」
とっさにアンヌマリーはうつむいた。アンヌマリーの瞳が戦いを呼び寄るものだとしたら、きっとこの人にも嫌われてしまうかもしれない。けれど、男は黙って返事を待ってくれているので、勇気を振り絞って言葉にした。
「瞳が…」
「瞳が?」
「わたしの瞳が紫だから、今度の戦いが起こったって…」
思い切って言うと、男はいぶかし気に首をかしげた。
「あなたの瞳が?」
「紫の瞳の王女のいた時に戦いが起こったことがあったのですって。だから紫の瞳はよくないものだって。わたしの瞳のせいで国の人たちが辛い思いをしているのだったら、わたし…」
国に住む人たちにつらさや苦しみを与えているかもしれない。それは、嫌われているかもしれないということと同じくらいの痛みを感じさせ、またアンヌマリーの瞳に涙が浮かんでくる。
「私の生まれ育った地方では、そんな話は聞いたことがありません」
泣き出しそうな少女を困ったように男は見つめた。
「まして、戦いは人間の悪意で起こるものです。あなたの瞳の色などまったく関わりのないことです」
「…でも、そう信じている人がいるの」
「実際に、戦いに行かない人間ほどそういうことを言うものです。そんな人の言葉など信じる必要はありません」
「あなたは、騎士なの? 戦いに行った…?」
「ええ、行きました。ですが、私も私の周りの者たちも、あなたの瞳が原因などと思ったこともありません。悪いのは、争いを起こそうとする人間なのです」
家族はもちろん紫の瞳が悪いものではないと何度も言ってくれたけれど、正しい色を持った人に言われても疑う気持ちは消し去ることは難しかった。けれど、実際に戦いに行った人からアンヌマリーには罪が無いと言われることは、驚くほどの安堵をもたらした。
男は真っ直ぐにアンヌマリーの瞳を見つめた。それまで、黒だと思っていた男の瞳が深い藍色だということにアンヌマリーは初めて気づいた。光が吸い込まれるような深い色だった。
「私の領地は北にあって、そこにシアラリラという山があります。その山にしか咲かない花があると言います」
突然、違う話が始まってびっくりしたものの、男の声にはアンヌマリーをいたわる思いが感じられて、アンヌマリーは黙って耳を傾けた。
「まだ雪解けの遠い春の初めにだけ、銀色の蕾をつける花です。雪深い山奥の雪原の岩陰にある銀色の蕾ですから、なかなか見つけることができない花です。私の領地には、その花をもらうと幸せになれるという言い伝えがあります。そして、その銀色の蕾の内側は紫で、花開くとそれは綺麗な紫なのだそうです。ですから、あなたのような瞳は、私の領地では、むしろ幸せをもたらすものと喜ばれるでしょう」
「セラフィアという花です。この言い伝えのほうがあなたの綺麗な瞳の色にはふさわしい」
そっと言い添えられた言葉をアンヌマリーは抱きしめた。再び涙があふれてきたけれど、それは先ほどまでとはまったく違った温かいものだった。
「お気に触ったのなら申し訳ありません。田舎者の言うこととお聞き流しください」
「違うの、違うの。…嬉しいの。ありがとう。わたし、セラフィアの花のこと、ずっと覚えているわ」
困ったように言う男に、アンヌマリーは涙を拭いながら慌てて言った。それから、ふと思いついて
「ブランノワ辺境伯家の方なの?」
尋ねると、男は驚いたようにアンヌマリーを見た。
「ブランノワ辺境伯レナート・ローゼリッツです。なぜお分かりに?」
「この前シアラリラ山がどこにあるかお勉強したの。それに戦いに行かれたと言っていたでしょう。お父様がブランノワ辺境伯家の皆さんが国を守ってくれたとおっしゃっていたから」
「お父様…」
「お父様は国王なの。あの、リレイシェルのために戦ってくださってありがとう。リレイシェルの皆を守ってくださってありがとう。一緒に戦ってくださった皆さんにもありがとうとお伝えしてね」
ブランノワ辺境伯領がある北方で大きな戦いがあったことは幼いアンヌマリーの耳にすら届いていた。まして、自分のせいではないかと思っていたアンヌマリーは戦いが続いている間ずっと胸を痛めていたのだ。身を乗り出すようにして感謝の言葉を伝えると、男は胸を突かれたような顔をした。
その顔をみて、アンヌマリーは最初に見たとき、男がひどく哀しそうだったことを思い出した。自分が慰めてもらったように、慰めてあげたい。セラフィアの花を思い出して、アンヌマリーはぴょんと飛び上がった。
「ちょっと待っていて」
言い置いて、先ほどまで隠れていた茂みに走ると、小さな花を見つけ出した。その花をもって男の元にかけ戻る。
「これをあげる」
黄色い花芯を淡い紫色の花弁が取り巻いた小さな花。差し出された花を男は戸惑ったように受け取った、
「これは?」
「セラフィアの花ではないけれど、この花も紫色だから。いつかあなたがセラフィアをもらえるまで。少しでもあなたを幸せにしてくれるといいと思って」
だから元気をだして、と言ったアンヌマリーを見て、それから自分の手の中にある小さな花を見て、男は目を細めて笑った。
「ありがとうございます。小さなお姫様。大切にします」
その時、茂みの向こうからアンヌマリーの名を呼ぶ声がした。ずっと探していたのだろう、焦りが滲んだ声にアンヌマリーは慌てて振り返った。多分、王宮に出仕した人にあったということは居住区から出てしまったということなのだろう。怒られる、と思ったアンヌマリーは男に小さく手を振ると大急ぎで駆け出した。
ブランノワ辺境伯レナート・ローゼリッツ。セラフィア。大切な名前を二つ抱えて。