12 ブランノワ辺境伯のかつての恋
レナート・ローゼリッツがファリア・フォン・アッヘンバッハと出会ったのは、リレイシェルとフランの両方に国境を接する大国の第二の都を、祖父に頼まれた用事で訪れた時だ。
街角で、立ち往生している馬車を見かけた。貴人の乗った馬車なのだろう、助けを求める従僕を見かねて、自分の馬車を貸してやることにした。
馬車を乗り換えるために、従者に手を借りて姿を見せたのは、亜麻色の髪の美しく優し気な女性だった。恥ずかしげに頬を染めて礼を言う可憐な様子に目を奪われたけれども、レナートは名乗ることも名を問うこともしなかった。なぜなら、彼女の装束などから仮想敵国の人間であろうことを察したからだ。レナートは生まれて初めて後ろ髪を引かれる思いで、去っていく馬車を見送った。それがファリアだった。その国に住む親せきの家を訪れる途中で車輪が壊れて困っていたらしい。
そのしばらく後、辺境伯家に王家から舞踏会の招待状が届いた。長いこと臨戦状態の続いていたフランから、王女をリレイシェルに嫁がせることと引き換えに和平を求める動きがあり、王女パトラシアを中心にした使節団がリレイシェルを訪れたのだった。そのため、フランとの国境を守るブランノワ辺境伯家も招かれたのである。祖父は、領地を離れることを厭い、まもなく辺境伯を継承する予定のレナートが代わりに招待に応えた。
辺境育ちのレナートにとっては、王都での舞踏会など面倒なばかりだった。しかし、その舞踏会で紹介されたフランからの使節団のなかにあの時の女性がいたのだった。
ファリア・フォン・アッヘンバッハ。フランの宰相で今回の和平交渉の全権大使として訪れたシュルツ侯爵の令嬢で、パトラシア王女の話相手の一人として今回の使節団に加わっていた。パトラシア王女は華やかなオーラを持った美しい女性であったが、その横で、亜麻色の髪をまとめ翠玉の瞳を終始伏せるようにして控えめに立つファリアの儚げな美しさも衆目を集めた。
やがてダンスの時間になり、オレール王太子がパトラシア王女の手を取った。また会うことができた、と驚きでファリアを見ていたレナートの目と、フロアに出ていく二人を追うファリアの目が合い、ファリアの目が驚いたように見開かれた。二人のファーストダンスが終わり、招待客がそれぞれパートナーとフロアに足を踏み出す中で、レナートはまっすぐに使節団に足を向けた。
「ブランノワ辺境伯家の嫡子レナート・ローゼリッツと申します。お相手をお願いできませんか」
左手を胸に当て挨拶をする。顔を上げて右手を差し出した。
「あなたはあのときの……」
「またお会いしたいと思っておりました。ぜひお相手を」
「シュルツ侯爵の娘ファリア・フォン・アッヘンバッハです。私のほうこそぜひ……」
伏し目がちだった目をレナートに向けてファリアが恥ずかし気に笑った。差し出した手の上に置かれた手の細さに胸が苦しくなる。そのとき、二十歳のレナートは恋に落ちたのだった。
ファリアはその時十六歳で、フランの社交界にもデビューしたばかりだった。その美しさからフラン国内でも婚約の申し出が殺到したらしい。しかし、ファリアは男たちに囲まれるよりも、パトラシア王女の側にいるほうを好んだ。そんな引っ込み思案なファリアが迷わずレナートの手を取ったことはフランの使節団の人たちからも驚かれた。
やがて、オレールとパトラシアの交流の際には二人も召されるようになり、パトラシアの発案で四人でピクニックに行ったりするなど、行動を共にすることが増えた。そして、二人の恋はすぐに人の知るところとなった。
王太子と王女の婚姻は政略結婚の感が否めないが、次期辺境伯と侯爵令嬢が相愛ということになれば、なお一般の人々にも和平を知らしめやすい。次期辺境伯と侯爵令嬢ならば家格もあっているため、そういった政治的思惑もあって誰もが二人の恋を認め始めていた。
「ファリア嬢に婚姻を申し込みたいと思っています」
フランの使節団がリレイシェルに到着してまもなくひと月がたとうとしていた。内々に和平交渉がまとまり、三日後に調印式を控えていた。レナートはオレールに申し出た。共に過ごすうちに、四歳違いのオレールとは兄弟のように親しい言葉を交わす中になっていた。次の世代を担う王と、その世代で辺境伯としての任を果たすレナートは互いに尊重しあうようになっていた。
「いよいよか。もちろん認めよう。ただし、正式な許可は三日後の調印式が済んでからになるけれど」
「承知しています。私は彼女を伴侶として辺境伯家に迎え、大切に守っていくつもりでおります。そのことを一刻も早く彼女に知っておいてもらいたいのです。そして、殿下には私にとって彼女がそういう相手であることを知っておいていただきたいのです」
「あなたの気持ちは分かった。羨ましいな、レナート。私もいつかパトラシア王女とそういう気持ちを持ち合えるようになりたいものだ」
オレールは、心の底から羨ましそうな顔でレナートを見た。
レナートはオレールの承認を得て、シュルツ侯爵にも許しを得た。そうでなければ、ファリアはきっと頷くことが出来ないだろうと考えたからだ。そうした準備をしたうえで、一生あなたを守ることを約束します、どうか婚姻を結んでほしいというレナートの言葉をファリアははにかんだ微笑で受け入れた。控えめな微笑みで、こちらの思いを受け入れてくれる、そんな彼女の優しさがレナートは愛しかった。
「フランから離れることになります。よろしいですか?」
「レナート様のおそばで暮らせるのですもの」
「ご家族ともあまり会えなくなると思います」
「今度はレナート様と家族になるのです。父もそれを承知してくださったのですわ」
「ブランノワ領はこれまでお住まいになっていたところと違い、何もない場所です。王都へもあまり来ることはないでしょう。パトラシア王女ともお会いできなくなりますが、よろしいでしょうか」
「何度でも言いますわ、レナート様のおそばで暮らせるのですもの。もともと、華やかな場所は得意ではありませんし、パトラシア王女殿下とは文を交わす約束をしていますの」
そんな言葉を交わした。
「レナート様、私を守ってくださいますでしょう?」
「ずっと大切にお守りします」
なによりもレナートが大切だという言葉。すぐに覆されるとも知らず、若い日のレナートは言い交した言葉に永久を信じた。
事態が変わったのは、そのすぐ後のことだった。
早朝、突然パトラシア王女とシュルツ侯爵が国王に謁見を申し込んだ。そこで、内々にまとまっていた和平条約の撤回と使節団の帰国が伝えられたのだった。突然の申し出に戸惑い、引き留めるリレイシェルの人々を振り切って、二人は与えられていた離宮に戻ると、すでに出立の準備ができていた使節団の人々とともに、出立を強行した。
レナートがオレールから呼び出され伺候したときはもう、使節団は王都を出た後であった。レナートは何も知らなかった。話を聞いて、すぐに後を追おうとした彼を、オレールが引き留めた。使節団として、帰国を決めた以上、個人的な理由でそれを遮ることは許されない。レナートは唇をかんで従った。
そして、数日後レナートのもとに祖父からの急使が到着した。
ブランノワ辺境伯領にフラン軍が侵攻。至急帰領せよ。
レナートは王城に使者を送ると、直ちに辺境伯領へ帰還の途についた。
使節団が国境を越える時期を見計らっての侵攻は、すなわち使節団はその軍事計画を知っていたということに他ならない。では、ファリアは知っていたのだろうか。最低限の荷物だけを抱え、一刻も早く到着するために必死で馬を飛ばしながら、レナートは考えざるを得なかった。
フランがリレイシェルに侵攻するとしたら、まずその矛先はブランノワ辺境伯領に向かう。フランの貴族であれば、それは承知のはず。宰相の娘であるファリアは当然知っているはずだ。
ファリアは言付けも手紙も残さなかった。
ファリアは知らなかったのかもしれないと思う。しかし、知らなかったのならば、なぜ言付けの一つも残さなかったのだろうと思う。ファリアは知っていたのかもしれないと思う。どうしようもないことだ、ファリアとて国を裏切るわけにはいかない苦渋の決断だったはずだ、という思いと、レナートの家族、レナートの民が血を流すことに目をつぶったという裏切られた思いが錯綜する。
そして、レナートはフランとの戦場に立った。




