1 婚姻の打診
よろしくお願いします。
どうか、どうか良いお返事でありますように。
アンヌマリーは王太子である兄の執務室に向かって走った。
淑女としてはしたない、とは思っても今はそれよりも早く確かめたいことがあった。ドレスが足に絡んで走りにくい。息が上がる。けれど。
先ほど、侍女のエミリアからブランノワ辺境伯家へ出した使者が帰ってきたらしいと伝えられた。アンヌマリーの運命を変えるはずのその使者の帰りを、その使者の出立の日から二週間というもの、アンヌマリーは待ち焦がれていたのである。
それなのに。
「お兄さま、ブランノワ辺境伯のお返事は?」
部屋の前に立つ衛兵が扉を開く間も待てず、王太子の執務室に飛び込むようにしながらアンヌマリーは兄に問いかけた。神様に祈るような気持だった。
それなのに。
「断られてしまったよ、アンヌ」
王家からの婚姻の打診を断られてしまうなんて。
目の前が暗くなって、アンヌマリーはふらりとよろめいた。
「大丈夫かい、アンヌ」
兄の柔らかい声にアンヌマリーは我に返った。いつの間にか執務室のソファに座らされていて、兄オレールが肩を抱いて、そっとアンヌマリーを覗き込んでいた。王家伝統の金髪碧眼の王子は冷静沈着と言われているが、家族の前、特に溺愛する妹には優しい顔を見せる。兄によく似た面差しだが、アンヌマリーの瞳の色は鮮やかな紫だ。その瞳を伏せて甘えるように兄の腕によりかかった。
「このところ寝不足のようだとエミリアから聞いたよ」
「だって…」
ブランノワ辺境伯はアンヌマリーの初恋の相手だ。幼いころからその人に嫁ぐことを夢見ていた。長じて王女の結婚が自分の意志で決められるものではないと分かっても夢はずっと夢のままだった。その夢が突然現実味を帯びたのがここ半年ほど、そしていよいよ婚姻の打診の使者が送られたのが二週間前で、それからアンヌマリーは眠れぬ日々が続いていた。
「ブランノワ辺境伯領へは一週間。二週間で使者がもどってきたということはほぼ迷いなく断られたということでしょう。理由はなんとおっしゃっているのですか?」
「これがブランノワからの返事」
差し出された書状を取り上げ、なぜ断られたのか、理由の部分を探し出す。
「王女殿下におかれましてはまだお若く、私のような年の離れた者よりもよりふさわしい方と良き縁を結ばれ、国王陛下並びに王太子殿下の治世をお助けになった方がよろしいのではないかと愚考いたします。どうぞこの度のお申し出に関しましてはご寛恕賜りたく伏してお願い申し上げます……」
棒読みで読んだあとアンヌマリーはため息をついて書状を膝の上に落とした。
アンヌマリーはまもなく16歳、一方ブランノワ辺境伯は28歳、確かに年は離れているが、政略結婚ではさほど違和感を感じる年齢ではない。
「まあ、建前だな。私宛の私信には、ただ王家への忠誠は変わらないから、今回の婚姻は容赦してほしい、とあったよ」
「それってやっぱり」
アンヌマリーと向かいに座っていた二人の従兄でオレールの側近でもあるムラノブ公爵家の嫡男ラヴェルの声が揃った。アンヌマリーは眉をさげ、ラヴェルは眉をひそめた。
「あの噂の通りということでしょう。殿下は辺境伯と私信をやりとりする仲なのであれば、噂の真偽についてもご存知なのでは?」
「私信をやりとりするといっても、そんなに簡単に本心を明かすような男ではないよ」
オレールは妹に視線を向けた。
「もし噂が本当だとしたら、アンヌは彼を諦められるのか?」
「諦めたくはありません。できる努力なら何でもします。でも、辺境伯が嫌だとおっしゃるのでは…」
「アンヌはなぜ私が今回の婚姻を進めようとしているのか分かっている?」
問いかけられて、アンヌマリーは小さく頷いた。
「もちろんです。わたくしが辺境伯をお慕いしているだけでお兄さまが動かれるわけがありませんもの。お兄さまは隣国の動きを心配なさってるのでしょう。辺境伯家は国防の要、結びつきを強くしておくことは大切なことですものね」
三人が暮らすリレイシェルは、豊かな自然に恵まれた国だ。また、土地も肥え天候にも恵まれているため、一年を通してさまざまな農作物を得ることができている。その一方で鉱物を得ることのできる地帯もあるため、交易などでも十分な利益も得ることができる豊かな国である。
リレイシェルの北側に国境を接する隣国フランは国土が狭い上に山岳地帯が広く土地がやせているため、昔から幾度も穀倉地帯であるリレイシェルに侵攻を繰り返してきた。
八年ほど前に、フランの先王によって和平のきっかけがもたらされたものの、フランの裏切りによって再び戦いになった。その際、フランとの国境沿いに領地を持つブランノワ辺境伯家が、フラン軍を打ち破り、リレイシェルに有利な停戦交渉を行った。その戦いによってますます国力の衰えたフランは停戦を守っていたものの、最近になってまた戦いを引き起こそうとしているような気配が感じられていた。
そうした状況のなかでブランノワ辺境伯に王女が嫁ぐことは、両者の結びつきを強くし外敵に備えるためには非常に有効な手段ではあった
「そう、それに私はブランノワを信頼しているんだ。できればアンヌマリーには彼のような男に嫁いでほしい」
「しかし、殿下、辺境伯は……」
兄妹の会話をラヴェルの声が遮った。
「その通りだ、ラヴェル。しかし、噂は噂だし、ブランノワの真意も定かではない」
そこで一度言葉を区切ると、オレールは注目を集めるように指先で二度机を叩いた。
「というわけで、アンヌマリーにはブランノワ辺境伯領に行ってもらう」
思いかけない言葉にアンヌマリーは目を見開いた。
「おまえが自分で噂を確かめ、それでも嫁ぎたいと思うならブランノワに降嫁を承諾させておいで」
にっこりと笑う。
「殿下、それはあんまり。アンヌは成人前ですよ。一人で辺境にやるなど無茶です。まして、あのブランノワ辺境伯に結婚を迫らせるなど…」
がたんとソファを揺らしてラヴェルが立ちあがった。アンヌマリーより二つ年上の従兄は、昔からよくアンヌマリーの相手をしてくれたもう一人の兄のような存在である。そして、おそらくオレールよりも心優しい。
「もちろん一人でなんか行かせないよ。君も一緒に行くんだよ、ラヴェル。アンヌを助けてやってくれ」
オレールは一度決めたことは押しとおす強さを持っている。側近として重々承知しているラヴェルもこればかりは譲れないと食い下がった。
「いや、そうではなく。でしたら私が行ってブランノワ辺境伯に真偽を問いただしてきます。アンヌにそんな真似をさせてまで嫁がせなくても」
「わたくし、行きます」
ラヴェルの必死の訴えはアンヌマリーの声に遮られた。決意に満ちた瞳をしてアンヌマリーは兄を見返した。
「機会をくださってありがとうございます、お兄さま。わたくし、絶対ブランノワ辺境伯に婚姻を承諾していただいて参ります。ラヴェル、一緒に来てくれるなら心強いわ」
手を握らんばかりの勢いで言われ、ラヴェルはもう反論の言葉を見つけられなかった。
そういうわけで、リレイシェルの第二王女アンヌマリーはブランノワ辺境伯領へ旅立つことになったのだった。