第5話
「だ~から私は言ったんですよねぇ。火遊び程度ならいいんじゃないですかって」
「てめぇ…!」
薄暗い室内で、俺の鼻からぽたぽたと垂れる鼻血の音が嫌に響く。
鼻血を適当に袖で拭い、同じ様に頬を腫らした部下、マルコのこんな時でも涼しい顔に苛立ちが募る。
「こうなると思ったんですよねぇ、本当。ボスってば昔から意外とロマンチストだから」
「うるせえぞ!少しは黙ってろ!」
胸ポケットを探るも見当たらない煙草に更に苛立ち、大きな舌打ちと共に荒々しく壁際に腰を下ろす。
少し離れた所に立つマルコは苦笑しながらため息をこぼすが、その眉間の皺は俺への呆れではなく傷の痛みからだと知っている。
「くそっ…」
窓の無い部屋。
扉は一つで外から鍵がかかっている。出たところで部屋の外には武装した人間がうじゃうじゃと居るのだから無理に突破しようとは思えない。
「…お前は俺についてくる義務も義理も無かったんだぞ」
「そうだったんですか?それは初耳です」
「…馬鹿だろ」
「自分の事がですか?」
マルコの皮肉に押し黙る。
本当に自分が馬鹿過ぎて苦笑すら出ない。
こんな阿呆らしい監禁紛いの事態に陥ったのは、たったの数時間前。その数時間前までは何もかもが上手くいっていると信じていた。
親父からボスを引き継ぎ、縄張り内での小競り合いを治めて回り、組織内の揉め事も新ボスとして舐められない様にきつく締め上げそして、ローズという一般人の女との付き合いも親父を始め組織内の石頭共にも認めさせ忙しくも満ち足りた生活を送っていた。
送っていた筈だった。送る筈だった、これからも。
「……彼女、無事ですかね」
「…まだ俺が生きてる内はきっと利用価値があるとあのクソ共も考えてると思うけどな」
敵対する他組織でも、組織内の反乱分子でもない、素人の集まりのただのゴロツキだった。
昔気質の伝統とやり方が気に入らない餓鬼の集団。一般人にも組織の人間にもなれない、中途半端な犯罪者予備軍。
俺と会った後で部下に送らせている途中にローズがそんな奴等に襲撃されて連れ去られたと連絡が入ったのは、マルコ含め数人の部下と屋敷で酒を飲んでいる時だった。
「なんでしたっけ。銃の入手ルート譲渡と縄張りから一家ごと出て行け、でしたっけ?」
「…阿呆くさ過ぎて野郎共の要求なんて覚えてねえよ」
「普段もっと恐ろしくお馬鹿の相手をしているものでつい覚えてしまいましたよ」
マルコの制止も聞かず一人で飛び出した。
頭にカッ!と血が昇ったのは覚えている。普段なら、いや本来なら相手の情報を調べ上げ人質の救出なんて二の次。大事なのは伝統ある組織の名で、舐められた倍以上の報復をと幹部と共にどっしりと構えていなければいけない筈だった。
「ああいう手合いは数だけは湧いてくる蛆虫の様に集めてきますからね。どれだけ大事な人質を取られたとしても一人で要求通りに突っ込んでいくお馬鹿は居ませんよ。ましてや一組織のボスですよ貴方。分かってます?」
「うるせえな分かってんだよ!!」
八つ当たりだ。
八つ当たりだと分かっているが腹の中でグツグツと燃えたぎるばかりで一向に消えない怒りが思考を焼いていく。
目を閉じても開いても、殴られてぐったりと体を床に横たえたローズの姿が消えない。
「…まぁ、私達は既にしこたま殴られちゃいましたけど、そろそろじゃないですかねぇ」
「……あ?」
「そろそろ着くんじゃないですかねぇ。アンジェラが居れば、彼女はローズさんの事も知っていますし、見殺しにする事はないでしょう」
「野郎共の事何か知ってんのか?」
「いやぁ、あんなクソ餓鬼共の事は一ミリも知りませんけど、でもクソ餓鬼共がそう簡単にあんな上等な銃を手に入れられるとは思えないんですよ」
「…あいつか」
「ええ、いつだかの横流しのジジィですよ。恐らくあの時ボスが速攻で殺しちゃったチンピラが餓鬼共のリーダーだったんじゃないですかね」
「頭を潰しゃ、何も出来ない有象無象かと思えば…意外と根性あったな」
「根性じゃなくて、ただ頭が悪いだけですよ」
組織内の反乱分子には一切の躊躇いや情け容赦なく粛清を行ったが、組織外のチンピラまでは一々締め上げていなかった事が悔やまれる。
また無意識に胸ポケットの煙草を探して、やっぱり指先は何も掠めない事に舌を打つ。
餓鬼共の正体を知ったところで、脅迫の理由を知ったところで、腹の中で渦巻く怒りは治る筈も無い。
俺への交渉の材料に、今も同じ建物のどこかで恐ろしい思いをしているであろうローズを想うと確かに怒りで腹が熱いのに、それとは逆に頭のどこかは冷たく芯が痺れる錯覚を覚える。
「…ボス」
扉の外が俄かに騒がしくなってきた。
「分かってるっつってんだろ」
「……そうですか」
すぐ近くで一際大きな歓声の様な悲鳴の様な大声が上がる。そして乾いた銃声が空気を振動させて、訪れる沈黙。
「ボス、ボス居ますか?」
ヒールが床を叩く音が扉の前で止まり少しも息を乱していない落ち着いた声で呼び掛けられる。
「私も居ますよ、アンジェラ。見張り無し罠無しです」
「破りますので少し扉から離れていて下さい」
マルコと二人大人しく扉から離れれば一瞬の間を置いて派手な轟音と共に外開きの筈の扉が室内に吹っ飛んでくる。
扉があった筈の入口に視線を遣れば、そこには声の通り涼しい顔をした部下の一人アンジェラが汚れ一つない黒いスーツを着て立っていた。
「ボス、マルコさん。建物内はリーダー格のチンピラ数人とローズさんが立て篭もる三階一室を除いて制圧済です。チンピラ共は銃で武装していますが#腕__・__#が無いだけにどこに弾が飛んでいくか予測不能で、こちらも若干名負傷者が出ております」
すらすらと淀みない報告をするアンジェラから差し出された銃と煙草を受け取り、数時間押し込められた部屋を出て血みどろの廊下を歩く。
「ボス達が飛び出した直後、御隠居に脅迫の内容を報告して指示を仰ぎました。首謀者は銃の横流しを受けていた街のチンピラです」
三階へ続く階段を登る足は止めず、弾倉を確認して安全装置を外す。
重く冷たく、掌に良く馴染んだその感触に特に何も思う事は無い。
「それから、御隠居からボスへ伝言です。〝貸し一だ、クソ餓鬼〟と」
「ふん、隠居したからって真っ昼間から酒カッ食らってるクソジジィの貸しなんてそんな大層なもんでもねえ」
さて、先ほどのアンジェラの様に派手に蹴破るか静かにノックをしてから開けるか。この建物内で唯一閉じられている扉を前にまばたき一回分だけ足を止めた。
♦︎
「お前もつくづく運が無い女だな、ローズ」
「…ぁ」
銃口から僅かに煙を上げる銃を後ろに控える部下へ渡す。そのまま手を一度振れば、意図を理解した部下は室内の後始末をし始めている他の部下の元へと去って行く。
喧騒は一瞬だった。何か言葉を交わす意味も理由も無い。
扉を開けて入り、一人一人撃ち殺していくだけ。おかげで室内は血の海だ。
そしてその真ん中で、ただ一人息をする女。
「…可哀想に。気でも失ってれば、こんな光景見ないで済んだのにな」
「……ギャ、ギャリー」
ゆっくりと未だ血の海の中座り込んだままのローズの元へと近づく。
恐怖に目を見開き、華奢な肩は震えたまま。
最後に見た時のままその頬は赤く腫れ上がり、着ている服は汚れ切り裂かれている箇所もある。
遂に目の前まで来ると、俺も血溜まりに片膝を着いて彼女に手を伸ばす。
「…悪かった。お前には、こんなモン見せたくなかった」
「そ、そんな…私…っ」
「そんな躊躇しないで最初からこうしてれば早かったのになぁ」
「っ!」
震える彼女をゆっくりとけれどきつく腕の中に抱き締める。
「そもそも俺と会った事からしてお前は運が悪いよ」
「…」
「その後も何回も会っちまって、俺がお前に付き合ってやろうって気になった事もだ」
丸くて小さい頭を片手で撫でる。撫でながら、そういえば存外この撫で具合は気に入っていたなと今更ながら気づく。
「まぁここできっと人生最大の運の悪さを獲得したよ、お前は」
「…めて」
「だからこれからきっと運が向いてくるぜ」
「やめて!」
胸にローズの手が添えられ、それにぐっと力が込められる。
どうという事もないか弱い力だが、彼女の意図する通りに抱き締める腕の力を弱めてやる。
こちらを見上げてくる涙にまみれた顔には、苦痛の表情。間抜けではあるが、頭が悪いわけではなかったなと思わず口の端が弛んだ。
「やめてよ、なんで、なんでそんな事言うの?」
「…分かってるだろ?」
「やだ、私、大丈夫だよ、ちょっとは怖かったけど、でも、私平気だよ!ちゃんと覚悟してた!こういう事もきっと起こるって!だから!」
「俺は平気じゃない」
「!」
視界の端で、部下達がチンピラ共の死体を運び出していく。最後の一体を運び終わると、室内にはマルコとアンジェラだけが残る。
「…悪いな。お前が捕まったと聞けば普段通りの最善の判断も下せないし、お前を選んで組織を捨てる事も絶対に出来ない」
「でも、でも!」
「お前も俺も、これが火遊び程度なら楽だったんだろうけどな。マルコに言わせれば、俺はロマンチストなんだとよ」
まばたき一回分。
扉の前で足を止めた一瞬に、決めていた。
この映画みたいに安っぽくてありふれたワケありの愛の結末は。
「この街を出ろ。誰も、俺の事もお前の事も知らない遠い街へ行け」
「ギャリー!嫌だよ!なんで急にそんな…!何だって我慢するから、傍に居たい…っ!」
「ローズ。もう悪い男には引っ掛かるなよ」
「ギャっ…う!」
首の後ろの急所を打つ。
だらりと力の抜けた体が倒れるままに抱き止める。腕の中の温もりを未練がましく享受していれば、コツコツと革靴の踵が鳴る音が真後ろで止まる。
「…お前の白々しい演技に気づけない日がくるとは思わなかったよ」
「お陰で私も無駄に殴られちゃいましたよ。で、いつ気づいたんです?」
「冷静に考えて、うちの組織の人間に銃持っただけのチンピラに襲撃されて女連れてかれる様な間抜けはいねえからな」
気づくも何も、考えるまでもない事だった。
こんな三文芝居みたいな結末を、まさか自分が迎える事になるとはと、呆れも自嘲も通り越して何の感情も湧かない。
「古今東西、本気の愛に溺れちゃった輩は何をしでかすものか信用出来ないのが世の常なんですよね」
「てめぇが言いたい事は分かってんだよ」
「ですか。まぁ正直、どれだけ本気だろうが組織と彼女が天秤に掛けられる事態になったら貴方は彼女を切り捨てられると知ってますから私としてはこのままお付き合いを続けて頂いても良かったんですけど、彼女はどうですかね」
腕の中、瞼を閉じた彼女を見つめる。
「まぁなんか超展開になって、彼女に組織かボスかを選ばせる事態になったら彼女、ボスを取るでしょう?」
腹の底が燃えたぎる様な、かと思えば底の知れない凪いだ海に浮かぶ様な。
溢れてやまないこの感情は、確かに手に余る。
「愛っていうのは、これだから」
「親父の差金か?」
「…ええ。御隠居からの最後のボス引継ぎのテストと、ついでに銃をばら撒かれたチンピラの一斉掃除だそうです」
「狸が…俺は合格か?」
「ええ。まぁ一人で飛び出してった時は短い世代交代だったなと思いましたけど。…ローズさんの安全と新天地での生活開始に必要な資金は御隠居が確かに請け負うと」
「…楽な仕事じゃねえな。家業だからって、割りに合わねえもん引き継いじまったもんだよ。運がねえのは俺もだな」
最後に、意識の無い彼女の唇に口付ける。
目を閉じる直前、小さい頃に親父に教会に連れて行かれ、信じてもいない神に祈った事をなんでか思い出した。
♦︎
海鳥の鳴く声が聞こえて、閉じていた瞼を持ち上げる。
庭に設置したベンチに座り、心地の良い気候にすっかり寝てしまっていたようだ。まだ昼前だろうか。
「おばあちゃーん!あ!またここに居たの?いくら春先だからってずっと外居たら風邪ひいちゃうよ?」
「ふふふ、ここからだと海が見えるからねぇ」
「ほーんとうにおばあちゃんってば海好きだねぇ。ここじゃないけど海が近い街の出身なんだっけ」
「そうよ。すぐお隣が活気のある港街で…たまに用事で出掛けたものだわ」
「ふーん。いつか私もおばあちゃんの故郷に行ってみたいな!」
「…随分遠い所だからねぇ」
家の中から、祖母と孫を呼ぶ母親の声がする。それと共に美味しそうな匂いも漂ってくる。きっと昼食の準備が出来たのだろう。よいしょと掛け声を掛けて傍らに立て掛けていた杖を手に立ち上がる。
そして既に家の中へ入りかけている孫娘の背中へ、ああそうだと思い出したように声を掛ける。
「いつかあの港街へ行くなら、黒いスーツの悪い男には気をつけるのよ」
「え?」
海風から苦い煙草の匂いが届いた気がしてローズはゆるりと目を細めた。