第2話
ガヤガヤと耳に心地良い生活音を聞きながら、良い陽気だと口角を上げて咥えた煙草の煙を空に向かって吐き出す。
普段はきっちりと締めているネクタイは外して、硬い革靴ではなく履き慣れたスニーカーでふらふらと気の向くままに通りを歩く。
ボス就任早々に問題を起こしてくれた例のゴロツキ共の後処理も綺麗さっぱり片付き、今日は一日フリーだと自分の所属する組織の縄張りの外の隣街へと1人足を伸ばしていた。
「っドクター!」
本人はもう隠居だなんだと言っているが、親父はまだまだ力もあり各方面へ俺なんかよりよっぽど顔がきく。万一何か問題が起こっても早々大事にはならないだろうと休みを満喫する。
「あの、ドクター!」
さて、とりあえず昼飯を食べるかと通りをきょろきょろと見渡して──
「ド、クター!ってば…っ!!!」
「っ!?」
キーン!と耳が痛くなるような大声と共にぐいっと首を締め付けられる感覚にぎょっとする。
振り返れば俺のシャツの裾を皺が寄るほど力強く掴んだ見知らぬ女がぜえはあと息を乱して真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「はあっ、はあっ…もう、ドクターったら呼んでも…全然気付いてくれ、ないんだから…っ!」
「……ドクターってのは、俺の事か?」
「えっ?ええ…あら?普段はあんまりそう呼ばれないのかしら?皆さんお名前でお呼びになるの?」
「はぁ?そもそもドクターなんて呼ばれた事…」
そこまで言ってふっと目の前の女の顔が何かに重なる。
びしょ濡れで、タオルに包まっていた女。
「…ああ、あんたか」
「はいっ!先日助けて頂いた私です!ドクターの助手の方にお聞きしました!酔っ払いにぶつかられて噴水に落ちた所を助けて頂いたそうで…」
「(…アンジェラはそう説明したのか)」
「すみません、私その時の事あんまり覚えてなくて…助手さんに説明して頂いた時もまだ呆っとしていたみたいで、きちんとお礼をするどころかドクターの住所も聞かずお礼をしに行けなくて…だからドクターを偶々見かけて、思わず追っかけちゃいました!」
目の前であからさまにしゅんと落ち込んだかと思えばあははと笑う女を見て、随分律儀な女だなと考える。
こちらは今の今まであんたの事も忘れていたというのに。
「いい、気にするな」
「でも…あっ、そうだドクター今日はお休みですよね?お昼を一緒にどうですか?ご馳走させて下さい!」
「いや…」
「でも…」
♦︎
流行りの歌手の歌がゆったりと流れるカフェのオープンテラスで、俺は女と向かい合って座りメニューを開いていた。
うきうきとメニューを隅から隅まで眺める女の頭頂部を眺めて、まあ昼飯を取ろうとしていた所だったからいいかとこちらもやっと開いたメニューに視線を落とす。
「ここのカフェのオムレツが美味しいって評判なんですよ!あっ、でもフレンチトーストも美味しそう…あっ!こっちのパスタも…!」
「…初めて来たのか?」
「あっ!あの…すみませんはしゃいじゃって…有名なカフェなんですけど…私は来た事がなくって…」
「ふぅん?じゃあ俺は丁度いい口実だったわけだな」
「えっ!?えっ!?いえ、そんな事は決して…!ないとは、言えないですけど…」
俺の指摘に恥ずかしそうに頬を染めた女はメニューを立てて顔の下半分を隠す。
それに対して軽く鼻を鳴らす様にして笑うと、丁度近くを通った店員を呼び止め、先ほど彼女が上げていた料理達を一つずつ頼む。
「え?あれっ、あの…」
「気になるなら全部頼めばいい。どう見てもあんたに全部は食い切れないだろうから、残った分を俺が食う」
「……いいんですか?」
「ああ」
「……やった」
それから料理を待つ間に彼女がいくつか質問をしてくる。答えても差し障りない事は答えながら、彼女の名前がローズという事と、住んでいる街は俺の縄張りの港町ではなく、この街だという事。先日は偶々用事があってあの噴水広場を通っていた事を聞く。
そして届いた料理に共に舌鼓を打っている時だった。ガシャン!と大きな音をたててテーブルの上に誰かの手が叩き置かれる。
「きゃあっ!?」
「……」
ゆっくりとテーブルに置かれた腕を伝い視線を上げていくと、そこには薄ら笑いを浮かべた人相の悪い男の顔。
「おいおい…ここを何処だと思ってんだぁ?」
「なっ、なんなんですか貴方…!」
「…俺は連れと食事をしているだけだが?」
一触即発の雰囲気を察して、同じくオープンテラスで寛いでいる客達と店員がこちらを注視している。
「ここはてめぇのシマじゃねえだろうが。よそもんがでかい顔してんじゃねえぞ!」
何が気に入らないのか額に青筋を浮かべて喚き立てる男と訳も分からず慌てふためくローズをそれぞれ見遣り、内心でため息を吐く。
よその縄張りで何か問題を起こすつもりは全く無いのだが、青臭い時分に親父への反抗がてらよその縄張りでしょっ中喧嘩をしていた事を未だに覚えている者がいるらしい。稀にこうしてただ顔を見ただけで威嚇をしてくる連中が居るのだった。
「あの、ドクター?この方はお知り合いなんですか?」
「ああ?ドクターだあ?何言ってんだてめぇ?こいつは…」
ガタンと音を立てて椅子から立ち上がる。
ぽかんとしたままこちらを見上げるローズの瞳と、一瞬肩を揺らして身構える男の瞳、二対の瞳に見つめられる。
「昼間っからうるえせな。お前がどこのどいつだか知らねえが、イチャモンをつけているのは明らかにそっちだろう」
ニタリ、と男がいやらしく笑う。そしてふんと鼻を鳴らすとさも可笑しそうに笑い声を漏らす。
「はっはあ!わざわざてめえのシマから出て女と相引きかよ!なんだぁ!?若様は堅気の女騙くらかしてんのか!?」
「え?え?」
「…」
男を無視して明らかに困惑しているローズに向き直ると、彼女の荷物を手渡しそれから店員を呼んで金を多めに握らせて彼女を店外までエスコートする様に頼む。
「えっ!?ドクター!?どっ、急にどうしたんですか!?」
「中途半端になっちまって悪いな。ドクターは急患の相手をしなくちゃならなくなったんでな」
「は!?あっ、ていうかお礼、お礼をしにきたのに…!」
店員に背を押されて行くローズの困惑しきった表情が可笑しくて僅かに口角を上げる。
「さようなら、どこかのお嬢さん」
気付けば、オープンテラスからは客も店員の姿も消えていた。
面倒事を察した一般人はそそくさと退散したのだろう。賢い判断だと思う一方で、目の前で未だにこちらを眼光鋭く睨みつけている男は賢さの欠けらもないなと嘆息する。
「さて、俺はお前なんて全く知らないが、お前は俺が誰だか分かっている上で絡んできたんだな?」
「ぁあ?てめえ俺はこのシマの──!」
「ああ、いい。そういうのは」
いよいよ唾を撒き散らしながら喚き立てる男に向かって不快だと眉間に皺を寄せ軽く手を振る。
「俺はこれから消える奴の名前には興味が湧かないタイプなんだ」
♦︎
半分程開けた車の窓から、骨の芯まで染み付いた潮の香りが入り込んでくる。
ふんふんとあのカフェで流れていた歌を小さく口ずさんで過ぎていく景色をなんとなしに眺める。
「ボス~、勘弁して下さいよ。一体あんたはいつまで俺に小言を言わせるんですか?」
わざとらしいべそべそとした泣き言に窓の外の景色から前の運転席へと視線をやる。
「さあな。お前が死ぬまでかな」
「ええええ…ていうかまじでもう子供じゃないんですからよそ様で問題起こさないで下さいよ本当。次何かあったら御隠居にチクっちゃいますからねまじで、まじで!」
「分かったよ、うるせえな」
「俺を煩くさせてるのはぼっちゃんですからね!?」
もう話は終わりだと再び視線を窓の外へ戻す。
脳裏に流れるのは変わらずあの歌。そして何の偶然か共に飯を食ったどこか抜けてそうな能天気な女の楽しそうな顔と、別れ際の可笑しい間抜け面。
「…~♪」
まあもう会う事は無いかと思い出される女の顔を瞼に焼き付けるようにゆっくりと目を閉じた。