悪霊(セアラ・チェイルリー、1850年12月)
冬至祭の夜は、1年のうちで最も、死者が力を持つ夜でもある。
死霊が駆け回った後の大地は肥沃な実りが約束されるとされているため、農村の人々は樅の木を飾り、御馳走を用意して彼らを歓迎する。
――― 一方で。
力を持つのは、『善き霊』 ばかりではない。街でこの日、ナナカマドとヒイラギを飾り、『光の歌』 を歌うのは、悪霊が害なすのを防ぐための習慣であった。
けれども。
(私を 『悪』 と呼ぶのならば…… あの人たちは何なのかしら?)
冬至祭の力を借り、憎悪と怒りに染まった霊にとっては、ナナカマドもヒイラギも、『光の歌』 も意味をなさない。
(あの人たちを、裁かなかった人たちは何なのかしら?)
霊の腕に巻きついた2匹の蛇が、しゃあっ、と掠れた声をあげ鎌首をもたげるのを、彼女は愛しげに眺めた。
(力が正義だというのならば、今の私は間違いなく 『善』 よ……!)
どんよりと淀んだ夜空を、彼女は一直線に駆ける。
――― 呪うべき、女の元へと。
※※※※
「謹慎が解けても、子供はこちらでのんびりと育てるのが、いいかもしれません。
……世間の人たちがいつか、私たちのことを忘れ去ってくれるまでは、領地経営に注力しつつ、静かな生活を送った方が、子供のためにも、あなたのためにも良いかと」
男が話す寝物語を聞きながら、ミリアは内心で 「わたくしのため、ですって?」 とひとりごちた。
――― 本来なら、冬至祭の夜は、王宮での舞踏会。
婚約者の第3王子に伴われ、令嬢たちの羨望の眼差しと、男性たちの賞賛の眼差しを浴びながら、優雅に微笑み蝶のように軽やかに舞っていたはずだ。
……その全てを、自分から取り上げ、片田舎に縛りつけながら、なおも 『幸せな未来』 を語ろうとする男が、ミリアには理解できない。
(……この方は、わたくしに一生ひざまずいて謝り続けても、足りないほどですのに……)
だって、ミリアは思ってもいなかったのだから。婚約者がいる男性が、別の女に想いを寄せることがある、だなんて。
確かに、彼の自分を見る目が、次第に熱を帯びていくのを、彼が婚約者より自分を優先するようになるのを、心地よく感じてはいた。
……けれども、だからといって、こんな目に遭うだなんて。
百歩譲って、自分が確かに彼の胸にすがりついたことを考えても、あの恐ろしい雷雨では仕方がなかったのだ、と思う。
(だって、わたくしは、この方を信頼していたのよ…… この方は、わたくしの信頼を裏切ったのだわ…… その上に、一生をこんなところで過ごせ、というだなんて。
愛しているのなら、周囲の信頼回復に尽力してくださっても、いいのよ…… なのに、それも全くなさらずに……)
腹の子が、内側からぽこぽこと蹴ってくるのを憂鬱に感じながら、ミリアはそっとタメイキをついた。
(ラッセル様は悪い方ではないけれど…… 可哀想な、わたくし)
――― 可哀想ですって?
がたん、と雪まじりの風が、鎧戸を鳴らした。
ひょおおおおお……
冷たい風が吹き込み、ミリアは身を縮めて起き上がった。
鎧戸は閉まったままなのに、暖炉の火が、風に抵抗するようにうねり、身をよじりながら、消えていく。
――― 冬至祭の夜の闇は、1年のうちでもっとも暗く濃く、死霊を浮かび上がらせる。
…… 婚約式のためのもの、と一目でわかる、繊細なレースを重ねた白いドレスの、慎ましく詰まった首元に滲む、血の赤色。
『ご機嫌よう、ミリア・ウィザーズ様』
スカートの両端をつまみ、ややぎこちない淑女の礼をとるセアラの肩からは、2匹の黒い蛇が、どこについているのかわからない目で、こちらを見ている……。
ミリアの口から、悲鳴が漏れた。
セアラが普段とは違うことが、彼女が復讐のためにあらわれたことが、ひとめでわかったのだ。
「違うのよ、わたくしは、そんなつもりはなかったのよ……!
わたくしは、酷い目に遭ったのよ? 今だって、ほら、こんな酷いところで、謹慎しているでしょう?」
『……足らないんですぅ…… まだ、まだ……』
ぞわり、とした感覚が強まり、気がつけば、セアラの青ざめた顔がすぐ隣に合った。
『ねぇ、お優しいミリア様。私のために、色々なドレスを見立ててくださって、嬉しかった……』
「あれは、本心から、垢抜けないあなたを、ラッセル様に相応しい方にして差しあげようと思ったのよ……!」
『ええ、ええ、わかっております…… 私抜きで、ラッセル様からご意見を聞かれていたのも、そのためですよね』
「そうよ! そうなの! あなたを出し抜こうだなんて、絶対に考えていなかったわ……!」
『じゃあ……』
血の気のない細い指が、ミリアの口と鼻を、覆う。
「…………! …………!」
『また、私のために、ドレスを見立てていただけますぅ……? そうするのが、ミリア様の幸せなんだ、って、おっしゃってましたものね?』
振り払おうとしても、指はぴったりと口と鼻を覆って、離れない。
……苦しい! ……苦しい!
引き剥がそうとしても、ミリアの手は虚しく空を掻くばかりだ。
……苦……しい……
『私は、もっと苦しかったんですよぉ……? 大丈夫です。おやさしいミリア様を、そんなに苦しめは、しませんから』
霊の口元が、笑みの形に歪む。
『こんな片田舎は、お嫌なんでしょう? ラッセル様の子供を、生みたくなんか、ないんでしょ?
……だから、一緒に、逝ってくださいますよね?』
うめき声が、ミリアの口から漏れた。
はっ、としたように、ラッセルがふたりの間に割り込み、ミリアを抱きしめる。
「やめろ! やめてくれ! セアラ……頼む! すまなかった、本当にすまなかった……!」
口に貼り付いていた冷たい指が、ふっと緩み、ミリアは大きく咳き込む。
『…………憎い、憎い、憎い……!』
「悪かった、私のせいだ! すまなかった……!」
『……どうして、どうして、私じゃなかったの?
私のこと、そんなに嫌いだったんですか? 政略だから? 垢抜けない孤児院あがりの娘だから……?』
霊がラッセルの隣に出現し、その喉元に手をかける。
「違う、君に落ち度はないんだ、セアラ。君のことは、嫌いじゃなかった……!」
セアラが身をよじる。
声にならない叫びが、ミリアとラッセルの鼓膜を打った。
『我が太古の血にかけて、我が心臓、我が魂にかけて……!
地獄の果てまでも、呪ってやるぅ……!』
セアラから、2匹の蛇がしゅるしゅると離れ、ラッセルに巻きつく。
「許せ、許してくれ……!」
延々と続く、ラッセルの悲鳴のような懇願が、やがて弱まり、途絶え……
『…………』
合わせるように、セアラの気配が消えていった後も。
「……私のせいじゃないもの…… あの嵐さえなければ…… そもそも、出会いさえ、しなければ……」
ミリアの呟きだけが、しばらく、闇の中を彷徨っていた。