表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/15

憔悴(セアラ・チェイルリー、1850年10月)

「お嬢様、お食事を」


「……要らない…… 食べられ、ない……」


「さようでございますか」


 古いベッドに寝転んで、セアラはメイドの足音が遠退くのを、ぼんやりと聞いていた。


 ……思い返せば、この1年が夢のようである。


 貴族の孤児ばかりが集められた孤児院で育ち、やがて、どこかの家のメイドとして雇われることになるだろう、と思っていた矢先に、降ってわいた幸運。


 ――― 娘を亡くした子爵家の養女になったのだ。


 たとえそれが、予定されていた婚約を継続するためのものだったとしても、それは、メイドになって知らないお屋敷で働き続けるより、100倍もマシだった。


 なにしろ 『お嬢様』 になれば、孤児だと憐れまれることも蔑まれることもなく、優雅に(かし)ずかれて生活できるのだから。



 ――― そして、婚約者は、気後れしてしまうほど、涼やかな青年。


 こんな幸運があっていいのか、と、何度もこのベッドの上で頬をつねってみたものだ。


 婚約発表をきっかけに、よそよそしかった令嬢たちとも仲良くなれた。

 憧れの、いつも優しいミリア・ウィザーズ公爵令嬢は、より親しげになり、何度も何度もセアラのドレスを見立ててくれた。


 一緒に笑いあって、お茶を飲んで、他愛もないお喋りに興じて…… 

 本当に、本当に、幸せだった。 ……けれども。


 …… やはり、幸運は、自分の元には留まらないように、できているらしい。



 友と信じていた、ミリアの裏切り。

 婚約者として信じきっていた、ラッセルの裏切り。


 ――― それでもセアラは、文句ひとつ言うことも許されなかった。


「あなたが油断するからいけないのだ」


 養父母である子爵夫妻は、冷めた目をして、こう言った。


 彼らの悲願は貴族位の上昇であり、ラッセル伯爵家との婚姻はそのための手段だったから……


 その婚姻がダメになると同時に、セアラは、子爵夫妻にとって、いや子爵家の全員にとって、用のない人間になったのだ。



 もう10日も食事をロクに摂っていなくても、この部屋に様子を心配して見にきてくれる者は、誰ひとりいない。



「ラッセル様…… クリフ、さま……」


 初めて会った時に 「どうぞファーストネームでお呼びください」 と言ってくれた、爽やかな笑顔を思い出すと、心臓が底からズキズキと痛むような気がする。


 こんな素敵な方だもの、愛のない結婚でもじゅうぶんにラッキーだ、とそう思っていたけれど……


 セアラ自身は、彼のことを愛していなかったわけでもなければ、彼からの愛が欲しくなかったわけでもなかったのだ。


 ……そんなことにも、今さら、気づくなんて。


「クリフさま……は、私のこと、全然好きじゃ、な……」


 なかったんですか、と呟きかけて、その言葉があまりにも痛すぎて、詰まる。


 所詮、自分のような者が好かれるはずもなかった、何でも持っている公爵令嬢(ミリア)にかなうはずもなかった、という諦念の後ろから、愛されたかった、彼と幸せな家庭を築くのを夢見ていたのに、という、声にならない叫びが迸り出て、セアラの身を苛む。


 たまらず、壁に頭を打ち付ける。――― 何度も、何度も。




 そうこうしているうちに、メイドが事務的に部屋の扉をノックする、音。


「……お嬢様、お嬢様……大丈夫でございますか」


「……ええ。問題ないわ」


「ならば、よろしうございました。少しお静かになさってくださいとの、奥様からの伝言でございます」


「……ごめんなさい」


「いいえ」


 普段なら、そのままメイドは行ってしまうはずだ…… しかし、今回は違った。


 部屋の扉が開けられ、中に入ってきたメイドは、セアラに 「早くお支度を」 と、告げたのだった。


「アデレード・ハワード公爵家令嬢がお見えです」




 ※※※※




「あらぁ、痩せたわね! けれどお元気そうで何よりだわ」


「はっ、はいぃ…… ご無沙汰、しておりましてぇ……」


「本当よ? 全くお顔を見せてくださらないんですもの、寂しくなって来ちゃったわ」


 慌てて着替え、顔を洗い、髪を結って客間に向かったセアラに放たれた挨拶は、あまりにも普段のアデレードのままだった。


「……ごめんなさい」


 思わず泣いてしまったセアラをちらり、とも見ずに、アデレードは優雅な仕草で紅茶を飲み、セアラが泣き止むとぼちぼちと情報を提供しはじめた。



 ――― ミリアは、第3王子から婚約を破棄されたこと。


 ウィザーズ公爵家は爵位の返上こそ免れたものの、ミリアの父親は責任をとって役職を退くこと。


 これは公にされていないが、ミリアとラッセルは謹慎期間を経て後に結婚をし、ラッセルが公爵家に婿入りする予定になったこと。

 ――― ラッセルは子爵位を返上、伯爵位を継ぐことは将来的にも許されず、伯爵家はラッセルの父親の代で断絶になるだろうこと。



「厄介者の王子の押しつけ先を潰したにしては、優しい判断ですわよね」 と、アデレードはミもフタもなく言い放った。


「それを言うなら、公爵家は?」


 婚約期間中によその男の子供を妊娠したのだ。婚約破棄や父親の退任だけでは生ぬるいような気がするのは、何もセアラの私怨によるものではないだろう。


「あら」

 アデレードがくすり、と意地悪げな笑みを漏らす。


「打ち首になるべきだった、とでも?」


「い、いえ……そういうわけじゃ、ないですけどぉ…… 私もその、悪かったんだし」


 ラッセルの心を引き留められるほどの魅力が、自分には備わらなかった。

 ――― 令嬢たちのアドバイスをきいて、ミリアにドレスを見立ててもらって、一生懸命頑張ってみたけど…… 所詮はそぐわなかったのだ、とセアラはうつむく。


 そんなセアラに、アデレードはほんの少し、眉を上げてみせた。


「あの方はね…… 徹底的に被害者を演じたのよ。……いえ、あの方のことだから、本気で自分は被害者、と信じておられるかもね」


「……! そんな……っ! あんなに、ラッセル様()()()()()()を呼びつけておいて……!」



 悔しさに、唇を震わせる、セアラ。


 ――― アデレードによると、ミリアは徹頭徹尾 『わたくしは、そのようなつもりではなかった』 『お互いに婚約者がいる身ですもの。ラッセル様も、当然わきまえておられるものと思っていました』 『お会いしていたのは、セアラさんのためを思ったからこそなのです』 等と言い張ったらしい。



 ミリアとラッセルをふたりきりにしてはいけない、というアデレードの忠告を、セアラが忘れていたわけではなかった。


 けれども、ミリアは徐々にセアラを無視して()()()()()()を呼ぶようになり、ラッセルはラッセルで、それをセアラに告げることはしなくなったのだ。


 セアラはその事実を知る都度、心騒ぐものを覚えながらも、「ミリア様を信用しなければ」 「ミリア様に限って」 と己に言い聞かせ、「嫉妬を見せてラッセル様に嫌われるのはイヤだ」 と我慢していたのである。



「ラッセル様だけが悪いわけじゃ、ないわ! 絶対に! 誠実な方だったのよ!」


「それは違うわ」


 スラリ、とアデレードは言い放った。


「もしも本当に誠実なら、婚約者以外の女の誘いにホイホイ乗るなど、なさいませんわよ。たとえ、どのような理由があってもね……

 あの方は、婚約者よりも公爵家をとったのよ」


 変わり者と名高いハワード公爵令嬢は、こんな時でも歯に衣着せることを、しないのである。


「いいこと、まずは、ラッセルは事故物件に過ぎなかったと思うのよ」


 帰り際にアデレードは、セアラにそう念を押した。


「あなたはしっかり食べて、寝て、笑って、うんとお綺麗におなりなさいな。男は何もあの方だけじゃないのよ、もう、無視してしまいなさい」


「…………」


 ――― それができれば、10日間も飲まず食わずで引きこもったり、しないのだが。


 黙り込むセアラに、 「とにかく、あなたが幸せになることが、あの方たちに対する一番の復讐なんですからね!」 と言い聞かせ、アデレードは帰っていった。


 アデレードは、知らない。

 彼女を見送った後に、セアラが、呟いた言葉を。


「復讐、そうね……」


――― この時、セアラの瞳に暗い影がゆらめくのを見た者は、誰もいなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] えーっと、いろいろ発覚したところからして、2、3ヶ月は経ってると思うんで……サブタイは前話と同じ8月だとおかしいかな?……とか。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ