憔悴(セアラ・チェイルリー、1850年10月)
「お嬢様、お食事を」
「……要らない…… 食べられ、ない……」
「さようでございますか」
古いベッドに寝転んで、セアラはメイドの足音が遠退くのを、ぼんやりと聞いていた。
……思い返せば、この1年が夢のようである。
貴族の孤児ばかりが集められた孤児院で育ち、やがて、どこかの家のメイドとして雇われることになるだろう、と思っていた矢先に、降ってわいた幸運。
――― 娘を亡くした子爵家の養女になったのだ。
たとえそれが、予定されていた婚約を継続するためのものだったとしても、それは、メイドになって知らないお屋敷で働き続けるより、100倍もマシだった。
なにしろ 『お嬢様』 になれば、孤児だと憐れまれることも蔑まれることもなく、優雅に傅ずかれて生活できるのだから。
――― そして、婚約者は、気後れしてしまうほど、涼やかな青年。
こんな幸運があっていいのか、と、何度もこのベッドの上で頬をつねってみたものだ。
婚約発表をきっかけに、よそよそしかった令嬢たちとも仲良くなれた。
憧れの、いつも優しいミリア・ウィザーズ公爵令嬢は、より親しげになり、何度も何度もセアラのドレスを見立ててくれた。
一緒に笑いあって、お茶を飲んで、他愛もないお喋りに興じて……
本当に、本当に、幸せだった。 ……けれども。
…… やはり、幸運は、自分の元には留まらないように、できているらしい。
友と信じていた、ミリアの裏切り。
婚約者として信じきっていた、ラッセルの裏切り。
――― それでもセアラは、文句ひとつ言うことも許されなかった。
「あなたが油断するからいけないのだ」
養父母である子爵夫妻は、冷めた目をして、こう言った。
彼らの悲願は貴族位の上昇であり、ラッセル伯爵家との婚姻はそのための手段だったから……
その婚姻がダメになると同時に、セアラは、子爵夫妻にとって、いや子爵家の全員にとって、用のない人間になったのだ。
もう10日も食事をロクに摂っていなくても、この部屋に様子を心配して見にきてくれる者は、誰ひとりいない。
「ラッセル様…… クリフ、さま……」
初めて会った時に 「どうぞファーストネームでお呼びください」 と言ってくれた、爽やかな笑顔を思い出すと、心臓が底からズキズキと痛むような気がする。
こんな素敵な方だもの、愛のない結婚でもじゅうぶんにラッキーだ、とそう思っていたけれど……
セアラ自身は、彼のことを愛していなかったわけでもなければ、彼からの愛が欲しくなかったわけでもなかったのだ。
……そんなことにも、今さら、気づくなんて。
「クリフさま……は、私のこと、全然好きじゃ、な……」
なかったんですか、と呟きかけて、その言葉があまりにも痛すぎて、詰まる。
所詮、自分のような者が好かれるはずもなかった、何でも持っている公爵令嬢にかなうはずもなかった、という諦念の後ろから、愛されたかった、彼と幸せな家庭を築くのを夢見ていたのに、という、声にならない叫びが迸り出て、セアラの身を苛む。
たまらず、壁に頭を打ち付ける。――― 何度も、何度も。
そうこうしているうちに、メイドが事務的に部屋の扉をノックする、音。
「……お嬢様、お嬢様……大丈夫でございますか」
「……ええ。問題ないわ」
「ならば、よろしうございました。少しお静かになさってくださいとの、奥様からの伝言でございます」
「……ごめんなさい」
「いいえ」
普段なら、そのままメイドは行ってしまうはずだ…… しかし、今回は違った。
部屋の扉が開けられ、中に入ってきたメイドは、セアラに 「早くお支度を」 と、告げたのだった。
「アデレード・ハワード公爵家令嬢がお見えです」
※※※※
「あらぁ、痩せたわね! けれどお元気そうで何よりだわ」
「はっ、はいぃ…… ご無沙汰、しておりましてぇ……」
「本当よ? 全くお顔を見せてくださらないんですもの、寂しくなって来ちゃったわ」
慌てて着替え、顔を洗い、髪を結って客間に向かったセアラに放たれた挨拶は、あまりにも普段のアデレードのままだった。
「……ごめんなさい」
思わず泣いてしまったセアラをちらり、とも見ずに、アデレードは優雅な仕草で紅茶を飲み、セアラが泣き止むとぼちぼちと情報を提供しはじめた。
――― ミリアは、第3王子から婚約を破棄されたこと。
ウィザーズ公爵家は爵位の返上こそ免れたものの、ミリアの父親は責任をとって役職を退くこと。
これは公にされていないが、ミリアとラッセルは謹慎期間を経て後に結婚をし、ラッセルが公爵家に婿入りする予定になったこと。
――― ラッセルは子爵位を返上、伯爵位を継ぐことは将来的にも許されず、伯爵家はラッセルの父親の代で断絶になるだろうこと。
「厄介者の王子の押しつけ先を潰したにしては、優しい判断ですわよね」 と、アデレードはミもフタもなく言い放った。
「それを言うなら、公爵家は?」
婚約期間中によその男の子供を妊娠したのだ。婚約破棄や父親の退任だけでは生ぬるいような気がするのは、何もセアラの私怨によるものではないだろう。
「あら」
アデレードがくすり、と意地悪げな笑みを漏らす。
「打ち首になるべきだった、とでも?」
「い、いえ……そういうわけじゃ、ないですけどぉ…… 私もその、悪かったんだし」
ラッセルの心を引き留められるほどの魅力が、自分には備わらなかった。
――― 令嬢たちのアドバイスをきいて、ミリアにドレスを見立ててもらって、一生懸命頑張ってみたけど…… 所詮はそぐわなかったのだ、とセアラはうつむく。
そんなセアラに、アデレードはほんの少し、眉を上げてみせた。
「あの方はね…… 徹底的に被害者を演じたのよ。……いえ、あの方のことだから、本気で自分は被害者、と信じておられるかもね」
「……! そんな……っ! あんなに、ラッセル様おひとりだけを呼びつけておいて……!」
悔しさに、唇を震わせる、セアラ。
――― アデレードによると、ミリアは徹頭徹尾 『わたくしは、そのようなつもりではなかった』 『お互いに婚約者がいる身ですもの。ラッセル様も、当然わきまえておられるものと思っていました』 『お会いしていたのは、セアラさんのためを思ったからこそなのです』 等と言い張ったらしい。
ミリアとラッセルをふたりきりにしてはいけない、というアデレードの忠告を、セアラが忘れていたわけではなかった。
けれども、ミリアは徐々にセアラを無視してラッセルだけを呼ぶようになり、ラッセルはラッセルで、それをセアラに告げることはしなくなったのだ。
セアラはその事実を知る都度、心騒ぐものを覚えながらも、「ミリア様を信用しなければ」 「ミリア様に限って」 と己に言い聞かせ、「嫉妬を見せてラッセル様に嫌われるのはイヤだ」 と我慢していたのである。
「ラッセル様だけが悪いわけじゃ、ないわ! 絶対に! 誠実な方だったのよ!」
「それは違うわ」
スラリ、とアデレードは言い放った。
「もしも本当に誠実なら、婚約者以外の女の誘いにホイホイ乗るなど、なさいませんわよ。たとえ、どのような理由があってもね……
あの方は、婚約者よりも公爵家をとったのよ」
変わり者と名高いハワード公爵令嬢は、こんな時でも歯に衣着せることを、しないのである。
「いいこと、まずは、ラッセルは事故物件に過ぎなかったと思うのよ」
帰り際にアデレードは、セアラにそう念を押した。
「あなたはしっかり食べて、寝て、笑って、うんとお綺麗におなりなさいな。男は何もあの方だけじゃないのよ、もう、無視してしまいなさい」
「…………」
――― それができれば、10日間も飲まず食わずで引きこもったり、しないのだが。
黙り込むセアラに、 「とにかく、あなたが幸せになることが、あの方たちに対する一番の復讐なんですからね!」 と言い聞かせ、アデレードは帰っていった。
アデレードは、知らない。
彼女を見送った後に、セアラが、呟いた言葉を。
「復讐、そうね……」
――― この時、セアラの瞳に暗い影がゆらめくのを見た者は、誰もいなかった。