母の心(クリフォード・ウィザーズ、1866年05月)
――― あの女を殺す。
クリフォードは、湧きあがるような憎しみのままに、そう決意した。
彼が呪術師から聞いたのは、実の母ミリアが彼を身籠り、彼と同じ名の父が、呪われて亡くなるまでの経緯である。
――― 聞けば聞くほど、自分はこの世に生まれて来るべきではなかった、と思えて、ならなかった。
セアラという令嬢を苦しめて自殺に追い込み、父を死なせておきながら、のうのうと生きている母が、許せなかった。
――― 原因となった子である自分は、もっと、許せない。
――― あの女を殺して自分も死ぬべきだ。
クリフォードはそう、考えた。
そう考えるのは、悪行の限りを尽くすより、よほど充実感あることだった。
(ああ、確かに、人生は自身のものであるべきだね、アデレード)
彼は数年ぶりに育ての親のことを思い出した。
かつて、悪戯をすると 「それは良いことなのかしら? あなたはどう考えるの、クリフォード?」 と尋ねてきた、叱られるよりよほど怖い声が脳裏にあざやかに甦り、懐かしい、と微笑む。
当時は 「良くないことです。もうしません」 と返事していたものだが…… 今度は 「良いことです」 と答えられるな、と考えた。
――― 彼女は自分が母を殺して死ねば、帰ってきてくれるだろうか? ……そうだ、だが、知らせは、すぐには行かないかもしれない。
――― もし、知れば。帰ってはこれなくてもせめて、涙の1つも流してくれるだろうか……。
北館、階段を上って突き当たりの角部屋…… 母の部屋の場所は、忘れようがない。
あの手紙や贈り物が、全て偽物だと知った後も、クリフォードはしばしば、もし母が自分の姿を認めたら、きっと笑い掛け、本当は会いたかった、と言ってくれるに違いない、という幻妄に苦しめられていたのだから。
(もう、それも終わりだな)
ピストルで扉の鍵を壊し、中に入ると、まず目に飛び込んできたのは自分の絵姿だった。
――― 赤子の頃から、成長を追って1枚ずつ描かれたそれらは、確か、誕生日の度にアデレードが高名な画家に頼んで描かせたものであるはずだ……。
額は塵ひとつなく磨かれ、大切に飾られているのだろうことがわかる。
(……だから、何だというんだ)
視線を巡らせば、机の上に飾られているのは、クリフォードがこの家に来て間も無いころ、母のために描いた絵だ。
(……だから、何だというんだ!)
求めていた母の姿は、部屋の隅のベッドにあった。
――― 今、クリフォードの姿を、驚きでも恐怖でもなく、喜びに満ちた眼差しで見ていた、と思ったのは気のせいだろうか?
(…………だから、何だというんだ!)
実際には母は、クリフォードに背を向け、壁を向いている。
「こっちを見ろ」
クリフォードは叫んだ。
「お母様、あなたを殺しに来た、僕を見ろ!」
「いけません……!」
クリフォードを止めようとしたのは、母に付き添っていた侍女である。
「ご病気なんです……!」
「だから、何だと言うんだ!」
「触れてはいけない、話しかけても、笑いかけても、目を合わせてもいけない…… それが決まりなんです!」
「だから、何だと言うんだ!!」
「でも、ミリア様は、本当に、あなたを愛しておられるんです、クリフォード様……!」
「だから、何だと言うんだ!!!」
――― 伝わらなければ、意味などないではないか。その馬鹿馬鹿しい 『決まり』 の理由など知らぬが、唯一わかることがある、とクリフォードは思う。
――― この女は、己のために、息子を捨てたのだ。息子の肖像画を飾り、絵を手元に置いたのも、己に対する言い訳だろう。息子の…… クリフォードのためなどでは、ない。
侍女と揉み合ううち、ピストルが、ベッドの上に落ちた。
はっ、としたクリフォードが拾おうとするより早く、ミリアの手が、ピストルに伸びた。
……蛇の鱗のようなもので、覆われたその手が、ピストルを掴む。
ピストルに伸びた、もう一方の手の皮膚もまた、蛇の鱗がびっしりと生えている。
銃口が向けられた先にあるのは……
ミリアの、心臓。
「お嬢様……っ!」
侍女の制止よりも、ミリアの両手が、撃鉄を引く方が、僅かに先だった。
音が、鳴る。
鱗で覆われた両手が、だらり、と力を失う。
噴き出た鮮血が、白い寝間着とシーツを染める。
「お母様……どうして……」
クリフォードは呆然と呟いた。
――― 最後まで、自分を見ようとはしなかった。
――― 自分に殺されることさえ、してくれなかった。
――― 母は、最後まで、息子である自分を、拒んだのだ……。
「触っては、いけません」
母に触れようとした手を、侍女が強く払う。
「後の処理は、わたくしが、いたします。聞かれても、何も言ってはなりません。
……ミリア様はピストルを持ち出し、自殺。それが、全てです」
「しかし……」
言い募るクリフォードを、侍女の強い眼差しが、射た。
「お母様のお心を、無駄にするおつりですか?」
「心、だと…… 信じられない」
「……それは、クリフォード様のご勝手でございます」
……ともかくも、お引き取りください。
侍女の静かな言葉に押されるように、クリフォードはふらふらと、鍵の壊れた扉から外に出た。
※※※※
ミリア・ウィザーズ=シーズリーの葬儀は、そう呼ぶには余りにも惨めなものだった。
呪術師が取り仕切ったが、呪術師以外の者は、近寄ることはもちろん、見送ることも禁止された。
アデレードへの知らせは、未だになされていない。
ウィザーズ公爵夫妻は、太陽神の加護を受けた布で覆われ、四隅に太陽神の炎を灯した部屋に籠り、娘の埋葬が終わるのを待った。
その頃、クリフォードは、ウィザーズの館を抜け出していた。
誰にも咎められることがないのは、常のことである。
母の葬儀は、街外れの丘の上で行われているはずだ。
罪人も疫病による死者も、そこで灰になるまで燃やされるのが慣わしだったから。
近寄ることは許されなくても、遠くからでも、ひとめ見送ろうと…… 見送ってどうなるとも知れなかったが、ともかくも見送らなければ、と…… クリフォードは高台へと急いだ。
道々に反芻するのは、あの時の侍女の言葉。
…… 母の心。
それが在ったのかどうか、彼には未だに、わからない。
無くても、大したことはないのだ。
在ったからといって、何だと言うのだろう。
しかし、それを考える時、いつも彼は泣いてしまう。
泣きながら彼は、高台を上り、泣きながら、遠い丘を眺めた。
――― 丘の頂では、太陽神の炎が小さくゆらぎ、黒い煙が空へと昇っていった。




